「AI研究の歴史と現状、そして未来をシンプルに概略化」、『人工知能は人間を超えるか』(松尾豊 著)

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人工知能は人間を超えるか ディープラーニングの先にあるもの (角川EPUB選書)

世の中に溢れている人工知能(AI)をめぐる情報は、正確に把握されたものではないからこそ、根拠のはっきりとしない期待や不安に満ちている。隠されたものが隠されているが故に、無限の創造力をかきたてるがごとく、時に「人類の最後の発明」のように扱われたり、時にはまるで悪魔でも召還するかのような話にもなってくる。

けれども、現場の研究者たちから直接的に伝えられるその実態を知ってみると、それは案外あっさりとしたものだったりする。むしろ、その実態に基づいて話が展開するのではなく、ファンタジーに基づいたイメージが世の中に溢れるようになるのは、そこが人びとの欲望の依り代になっているようにすら、感じられる。

ならばその欲望とはなんだろうか。まずそこには、フィクションの持つ想像力の快楽が入り込んでいるのは確かなことだろう。具体的な内容が分かってしまうと、それをどのようにツールとして使いこなすかという現実的で日常的な話になる。そうなると、ファンタジーの快楽がその時点で減少してしまう。つまり人間は、現在自分がいる地点との切断や飛躍というものを想像する時に、快楽を感じる生き物なのかもしれない。

これは未来を予測し先読みしたりすることによって、生き残ってきた結果なのもしれない。できるだけ未来を想像し、予測し、対処すること。その想像の先との距離が現状からとおければ遠いほど、けれども確かに現状の変化から考えると演繹的に導かれるような未来像に強い関心を抱くのだ。もしかしたら、人間にとって生殖行為と快楽が分離可能になったのと同じように、未来予測能力の持つ機能と快楽が分離したというこもなのかもしれない。

AIを研究していると、認知するために身体という存在が重要になってくることが分かってくるという。人間の認知はすべて身体に基づいて構築されているからだ。そのため、本書でも述べられているように、AIもまた他のジャンル、例えば生命科学などと合流することによって、はじめて到達しうる点を探ることが可能になる。AI研究は人間の認知に総合的に近づくことが目指されているが、その人間の認知というものが極めて種の進化の過程とシンクロしていて、そこに難点も存在している。

しかし、そのような人間の認知に近い自立したAIを作りあげることは、現状ではまだ全く糸口すら見つかっていないらしい。本書は、人類のAI研究の歴史と現状がとても分かりやすくまとめられていて、読後、読者の中にあるAIへの過剰なファンタジーは後景化するだろう。けれどもその代わりに立ち上がってくるのは、例えバグだらけであっても機能している、私たちの脳の奥深さだ。もしその総体をAIで作りあげることができるようになったら、それは新しい生命をつくることと同義といっていい。つまり最終的に人工知能は、知的な人工生命を作り出すことが目指されているように見える。それは確かに、人間のDNAを継承し、より進化した「上位」になるのかもしれない。そこにはやはり「賭け」も存在している。

人工知能は人間を超えるか (角川EPUB選書)
KADOKAWA / 中経出版 (2015-03-10)
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「ヨーロッパの普遍的なものの衰退と限界について」、『21世紀の自由論』(佐々木俊尚 著)

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21世紀の自由論―「優しいリアリズム」の時代へ (NHK出版新書 459)

本書で前提になっている認識のひとつは、私たちが現在、世界システムの長きに渡る移行期の中で暮らしているということだ。もちろん、そのことに異論を挟む人は少ないだろう。各国家間の経済や軍事のパワーバランスの変化にその潮流をみてとることができるし、また、本書の中に述べられているように、ヨーロッパにおける「普遍的なもの」の衰退と限界というところにも読み取ることができるかもしれない。

しかし、私はここでいわれている「普遍的なもの」の衰退と限界というものを、新たな世界システムへの移行期におけるその精神性(使い古された言い方をすると「上部構造」)の変化と単純に重ね合わせることに対しては、少なくない違和感を覚えた。その理由は、その理念を先進国の国内事情に合わせる必要はないように思われたからだ。

まず、ヨーロッパにおける「普遍なもの」、つまり、個人の「自由」や「平等」といった理念が通じるエリアはもともと極めて限定的だったわけで、その意味でこの議論は、とてもヨーロッパ中心主義的なもののように思えた。それらの理念が、これまで世界中を席巻していたかというとそんなことはない。それが衰退し限界に達したように見えるのは、いわゆる第三世界の人びとがヨーロッパ諸国の内部システムにモザイク状に組み込まれはじめたからだ。

もともと「外部」だったものを「内部」に入り込むことで起きた拒絶反応は、それをして限界というのには少し説得力がかけるように思われた。たしかに、そこに経済的な理由が重なって、それらの理念が限界を迎えたかのようにもみえるし、それが排外主義などの反応につながっているということも事実だろう。けれどもそれらは、最初から認めてなどいなかった「外部」の人びとを「内部」において認めていく過程において起きている現象であるという側面がないだろうか。

そしてもうひとつ気になったのは、ここでの議論は市民社会における階層性があまり意識されてない点だ。つまり、最初からフラットであることが前提となって議論がスタートしている。そして、この「普遍的なもの」の衰退と限界とみられる現象は、主に経済的弱者や承認欲求が満たされない人のところで可視化されているのようにみえるだ。つまり、ここでの議論では、富の分布が二極化しそれがアノミーを引き起こしているという点が省かれてしまっているように感じられる。世界がフラットに見えるのはその一部においてだ。レイヤー化は移動が容易なものだけではなく、経済や軍事、教育などによって、強固で移動が困難なものも多く含まれている。

理念と現実のコンフリクトの中で矛盾を抱えながらも悩みながら進んでいくこと。それによって生まれる変化の差異というものもあるのではないか。本書の最初に掲げられている「生存は保証されていないが、自由」か「自由ではないが、生存が保証されている」というどちらの選択肢にも私は乗ることができなかった。なぜなら、そのふたつが矛盾したり両立しないのは、今にはじまったことではないから。

もちろん著者は、その地点を通過して本書の結論に至っているだろう。しかし私が受けた印象は、あまりにそこに闘った痕跡が省かれてしまっているということだ。それはフラット化に通じるところでもあるが、私が問いとして捨ててはならないと考えているのは、「あなたはどんな世界に生きたいですか?」という極めてシンプルな問いなのだ。著者はすでに先に進まれているが、その点はまだ議論が尽くされていないのではないだろうか。

もちろん、世界システムはどんどん組変わっていく。けれども、もしヨーロッパの「普遍的なもの」が衰退していくとするならば、特定の歴史や社会だけに適応可能なものではなく、もちろんそれをただ破棄するわけでもなく、もう一段階ほど抽象度を上げた「普遍的なもの」の構築を目指すべきではないか。もちろん、それもまたいつかは衰退していくものではあるけれど。

21世紀の自由論: 「優しいリアリズム」の時代へ (佐々木俊尚)
佐々木俊尚 (2015-06-09)
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「2つの問いが交差する場所で」、『持たない幸福論』(pha 著)

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持たない幸福論 働きたくない、家族を作らない、お金に縛られない

人間の行動を形作る価値観や、それに基づく習慣の総体としてのライフスタイルは、時代や場所による環境によって変化するものだということに、異論を唱えるものは少ないだろう。例えば、経済や政治の状況によってその生活が規定されることもあるだろし、また、テクノロジーの進化も様々な制約を解除したり作り上げたりしていくことは、特にインターネットの出現などを目の当たりにした世代にとっては、実感があるのではないだろうか。

しかしそのような変化の多くは、生き物としての人間すべてがすぐに適応できるほど緩やかでゆったりとしたスピードの変化ではない。その急激な変化についていけるものとついていけないものが生まれることは、簡単に想像することができる。生物の物理的な進化のスピードを、(本書でも言及されている)文化的遺伝子「ミーム」は遥かに凌駕していく。また、一人の人間の認知限界を超えたスピードで、情報やシステムは膨張していく。

そして、その環境の急激な変化との個々の人びとの間に生まれる摩擦や、またはその適応の現場において、種としての人間の比較的ロングスパンなライフスタイルのあり方というものがみえてくることがある。そんなライフスタイルが、本書で描かれていると言っていいだろう。それは人類史上、脈々と受け継がれている「文化」にも接続されている。

「無理をしない」ということの正当性をロジックで示そうとする時、そこに言葉が注ぎ込まれ、「文化」に接続される。つまりそこに、「普遍性」のようなものが浮かび上がってくるわけだが、本書はそれにしっかりと触っているのだ。また、先行している研究やその成果などから生まれる言語のみによる思想や理論ではなく、実践と実感(「実存」といってもいいかもしれない)に基づいた体験談でもあることが、本書の重要なポイントのひとつといえるだろう。

その意味で、本書は結論というよりも、経過報告のようなものだ。現代の生きることがつらそうな人たちの戦果のようなものということができるのかもしれない。これがひとつのライフモデルとして社会における選択肢のひとつとなるには、あと20〜30年くらいかかるのかもしれない。それは少し残酷な見方をすると、炭鉱のカナリアのような役割を結果的に果たすのかもしれない。

「普通」から外れてしまった人々の民間におけるセーフティネットをどのように考えるのか、という問いの中を本書は生きている。そのような現代的な問いと、人類の文明の進化とそれを享受するはずの人々の持つ苦との間にある矛盾に対する問い。この2つの問いがクロスするところに、本書は位置付けられるのではないだろうか。

「母国語を外国語のように書き、どこにいても異邦人のようであること」、『ニッポン発見記』(池上紀 著)

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ニッポン発見記 (講談社現代新書)

母国語をまるで外国語のように書くこと。私が「文学」というものの特性を考えた時、それはとても重要なエッセンスとなる。しかし、それは「小説」などの特定のジャンルに拘束されることのないものでもあるだろう。例えば、エッセイのようなものでもその「文学」性というものは露呈する。そのエッセンスはメディアによって表象され、痕跡としてその姿を表すのだ。

言葉というものは呪術的なものでもある。その言葉を読んだり聞いたりした以前と以後では徹底的に何かが変わってしまう。目に見えないはずの他人の思考の痕跡や道筋がそこに見えてしまうことで、言葉が読み手を支えている有機的な情報空間に関与しだす。そこには、人間の認識には複数の立脚点が可能であることを直感的に知ることのできる空間がうっすらと口を開けている。

その複数の立脚点の存在とそれを成り立たせている複数のロジックを捉えることは、ちょっとレトロな言い方をすれば「教養」というものと昔呼ばれていたものを手に入れるということでもあるだろう。その言葉はまた、今風に言い換えると「他者への想像力」と言い換えることもできるものかもしれない。

その想像力は、「スピード」を至上命令とする社会において、とてもゆっくりとした速度しかもたないようにみえるものだ。けれども、その速度の違いというものを複数化していくことの中に豊かさをみつけていく作業。その中に、機能というものを捉われない「自由」も存立しているのではないか。そして、そこから新たな空間が芽吹いていく。

本書を私は、ベトナムのホーチミンという街のとある本棚で読むことになったのだが、読みながら異邦人としての自分と書き手の旅がシンクロしてしまっていた。どこにいても異邦人であること。それはおそらく、これからもずっと続いていくのだろうという覚悟のようなものでもある。

ニッポン発見記 (講談社現代新書)
池内 紀
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「そのようにしか生きることのできない人々の姿が映し出すもの」、『「生き場」を探す日本人』(下川裕治 著)

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「生き場」を探す日本人 (平凡社新書)

「ここじゃないどこかへ」。

なんて言葉が孕んでいる感情は、すでにレトロで懐古主義な印象すら人々に与える。それは、「いまここ」や「マインドフルネス」といった思考傾向が、現代の日本が行き着いた歴史・社会的構造の帰結のようにみえるのと、おそらくはシンクロしているのだろう。そんな中、自分の「生き場」を探して放浪するなんていうあり方も、一見、ロマンティックな幻想に取り憑かれているように思われるのも無理もないことだ。

けれども、本書で紹介されている海外で暮らす日本人たちは、偶然に偶然が重なった結果とはいえ、すでにもう「そうでしかありえなかった」ような人たちだ。そこには憧れや幻想といったものがあるのではなく、そうではなくて、「そうならざるをえなかった」という断念や諦念を自らの「生き場」として繋げていく姿がある。

本書は、発売からすでに約5年の月日が経っている。しかし、ここで描かれている海外で生活を送っていく日本人たちの姿から透けて見えてくる日本の姿は、今も変わっていない。いや、むしろ、状況は加速度的に進んでいるといえるだろう。

彼らと日本社会は、どんなに遠くに離れたとしても、コインの裏表のように引き裂けない関係にある。そこに鳴り響いているのは、日本社会が置き忘れていったものの存在の痕跡だ。それを回収していくのか、更に忘却の淵へと追いやるのか。その先は知る由もないが、ただ、その存在を感じ取ることなくしては、その重要度を精査することもままならないということはだけは、確かなことなのではないだろうか。

「生き場」を探す日本人 (平凡社新書)
下川 裕治
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