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劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [前編] 始まりの物語/[後編] 永遠の物語【完全生産限定版】 [Blu-ray]

本エントリでは、アニメ「まどか☆マギカ」(以下、「まどマギ」)の物語類型を「ネオセカイ系」とし、それをきっかけに「セカイ」の問題への向き合い方の変化について述べていく。

もちろん、ここに述べらるのはアカデミズムのような精確さを持ってしてなされるものではない。そうではなく、これはある種の精神分析のようなものであり物語なのであると言う方が適切であろう。

「まどマギ」において越えるべき最大の壁として「ワルプルギスの夜」という災難がある。この「ワルプルギスの夜」と「3.11」、両者のイメージが起こすシンクロニシティについては、リアルタイムでこの作品を観た人たちにとっては説明の必要がないことであろう。普段は可視化さないけれども、「セカイ」の仕組みによって着々と準備され続けた必然としての災害。その「セカイ」にどのように対峙していくのか。

詳しい人には蛇足になるが、本エントリの前提となる物語類型の変遷について簡単に説明しておこう。まず、「セカイ系」と「日常系(空気系)」についてである。

「セカイ系」に分類される作品の代表的なものは、『ほしのこえ』や『イリヤの空、UFOの夏』、『最終兵器彼女』などが挙げられる。その特徴は、一組の恋愛(僕と君)の関係がそのまま、家族や社会などの中間項を経由することなく、ダイレクトにセカイの命運に接続されている点だ。

このような物語類型の作品群が目立ち始めた背景は色々と言われている。例えば、携帯電話の普及によって恋人に家族を介さずダイレクトに繋がれるようになったという情報環境に起因するとか、情報の爆発的増加によって人間の処理能力が追いつかなくなった故の内面への撤退であるとか。また、この物語類型が発生していく背景としては、『エヴァンゲリオン』や「阪神大震災」、「オウム事件」あたりがあると捉えられていて、実存の軋みや世の中への虚無感、無力感、そういったものとリンクして語ることもできる。バブル景気が崩壊し、今まで上手くいっていたものが上手くいかなくなる、そんな中で実存が再び別の形で彷徨い始めた季節だったとも言えるかもしれない。

そして、2000年代の半ばに入り「日常系」とカテゴライズされる物語類型に分類される作品が目立ってくる。代表的な作品を挙げると、『らき☆すた』、『けいおん!』、『日常』など。

「日常系」の特徴はひたすら日々の暮らしを描いていくこと。特に大きな物語が発生しなくても、日々の生活でよく起こるような出来事をドラマチックに描いたり、些細な物事に焦点を当て描く。特にセカイについてのことには言及はされず、例えば、学校社会や家庭などの描写によって成り立っている。言うなれば、「セカイ系」において描かれていなかった中間項、「友人関係」や「家族」を全体として描く作品群だ。

この物語類型を持つ作品の台頭は、2000年代半ばにおけるコミュニティの島宇宙化の流れで理解することもできるだろう。もちろん、インターネットの普及も影響している。特定の趣味や感性の合う人たちで集まって、その中で埋没することが出来るようなインフラや環境が揃い始めていた。そうなってくると異質な存在と出会う確率はどんどん減少していく。その傾向は異なる存在とのコミュニケーションによって発生するコストを抑えるという側面もあった。

さて、「ネオセカイ系」である。「ネオセカイ系」とは、「セカイ系」と「日常系」のハイブリッドによって成立した物語類型である。セカイの問題に直面するという点においては「セカイ系」と同じだ。しかし、その問題を解決するモチベーションとそれに伴う方法論が異なってくる。個人の実存の問題や恋人との関係、救済から「セカイ」の問題に向き合うのではなく、家族や社会、友人関係などの中間項をモチベーションの源泉として「セカイ」の問題に向き合っていくようになっていくのだ。

この「ネオセカイ系」という物語類型がリアリティを持って受け入れられるようになってきたのにも、やはり社会的な背景がある。例えば、情報環境の変化から考えると、ソーシャルメディアの登場と普及は大きな影響を与えているだろう。コミュニティが可視化され一日に何度も自分がそのコミュニティに所属していることを確認していると、それはやはり深くメンタリティに強く影響を与えることは容易に想像される。

「ネオセカイ系」という物語類型は、「セカイ系」と「日常系」からのセカイの物語への関わり方の変遷とも言えるだろう。そして、その変遷についてはもっと過去へもっと深く潜ることができる。60、70年代の政治の季節。その後、バブル崩壊などの影響下、様々な問題の中に取り残されている自分、実存、「内在-超越」のあり方。つまり、第二次大戦後からバブルの崩壊とその処理までを「実存系のフェイズ」とするならば、そこから別のフェイズへの移行を表象していると言えるのではないだろうか。

この「実存系フェイズ」を象徴している現代の論者として、やはり宮台真司氏と東浩紀氏が挙げられる。この全く考え方の違うと思われる二人は共通する読者層を持つと言われているが、その共通点はこの「実存フェイズ」なのではないだろうか。両者の主要なテーマであるように見えるのは、「実存」が「セカイ」の問題と如何に向き合っていくのかであるように見えるからだ。そして、この両者を戦後から続くセカイの問題解決の向き合い方としての「実存系フェイズ」時代の最後の論者ということが出来るのかもしれない。

では、現在突入していると思われるフェイズとはなんであろうか。そのことを説明するために、東浩紀氏の「ゲーム的リアリズム」という概念を使用してみよう。この概念はデータベースと個人との関係について述べられたものだった。ここでこの概念を更新してみたい。もはや、実存の問題が解決すればセカイが変わるというリアリティは後景化し、別のリアリティが台頭している。それを僕はここで仮に「ゲーム的ソーシャルリアリズム」と名付けてみるとしよう。それは結果的に、荻上チキ氏の「ポジ出し」の感覚とも通底するものでもある。ゲームのように僕たちが取る様々な選択肢によって、社会の物語やエンディングが変化していくというリアリティ。システム改変的想像力は、実存型(当事者)からコミュニティ型へ移行している。

「ネオセカイ系」という物語類型は、この「ゲーム的ソーシャルリアリズム」の時代の始まりを象徴している。そう結論付けてこのエントリを締めたいと思う。

(了)

【中川康雄(なかがわ・やすお)】
文化批評。表象・メディア論、及びコミュニティ観察。
インディーズメディア「未来回路」主宰。
Twitter:insiderivers
個人ブログ:http://insiderivers.com