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暇と退屈の倫理学

※著者が結論のひとつとして述べているように、本書は読んでいく過程が重要となっています。色々と解釈のズレや説明不足なところもあると思いますが、もしその部分が気になったら是非、実際に読んでみてください。

 

1、ハイデッガーの「決断主義」への批判

 本書を読んだ後、何人かの読み終わった人たちと色々と話をしたのだが、その会話の中で実感として「そうだろうな」と思うことがあった。それは、ハイデッガーの決断主義をロジカルに批判しているが、その「決断」に伴う快楽に対抗する程の説得力をあまり感じなかった、ということだ。ハイデッガーの場合、ドイツの歴史的な背景の中において、その思想の問題点が指摘され説得力が担保されている部分がある。しかし、本書の中でその説得力を担保する場所はどこにあるのだろうか。

 ハイデッガーは「決断」することの価値の根拠を導き出すため、「退屈」を3つの形式に分け説明しながら示している。

・第一形式:何かによって退屈させられる状態
・第二形式:何かに際して退屈する状態
・第三形式:何となく退屈な状態

 特にこの3つ目の形式、「何となく退屈」という状態を人間の最も根源的な状態だとする。そして、この「退屈」は人間が「自由」であるということを証明していて、故に、その「自由」を発揮して「決断」せよ、とするのだ。

 國分さんはその「決断」に対して批判を展開する。それは人間からむしろ「自由」を奪ってしまうのではないか、決断の奴隷になることなのではないか、と。「決断」は苦悩を取り除いてくれるもので、とても心地の良いものだ。しかし、キルケゴールの「決断の瞬間とはひとつの狂気である」という言葉の通り、そこには重大な自己喪失があるのではないだろうか、と問いかけるのだ。

 そして、特に國分さんが重要視するのが退屈の第二形式である。日常の中に埋没しながらも退屈している状態、安定した退屈の形式を、「狂気」に対置して「正気」と捉え直す。そして、「決断」に逃げ込んでしまったら、受け取れる可能性のある対象さえも受け取れなくなってしまうのではないか、と指摘するのだ。

 しかし、「決断」を批判しても「退屈」の問題は消えることはない。そこで、物語は人間における「退屈」の起源の話へと進んで行く。

 

2、「退屈」の起源

 何故、人間は退屈を感じてしまうのか。

 ここで、ハイデッガーの退屈理論の中に潜む「本質主義」を回避するため、文化人類学者・西田正規の「定住革命」という概念が召還される。

 定住生活は物理的な空間を移動しない。だから自分たちの心理的な空間を拡大・複雑化し、その中を「移動」することで持てる能力を適度に働かせ退屈を回避するようになった。それは定住生活を維持する上で重要な条件であり、かつ、その後の人類史の異質な展開をもたらす原動力として働いてきた、というのだ。

 遊動生活における負荷は、人間のもつ潜在的能力を活かす上でとって心地よいのであったはずだ。そして、その遊動時代に必要であった能力を十分に発揮することができないという状態が、まさに「退屈」ということなのだ。つまり、人間存在の本質に「退屈」があるのではなく、生物としての人間の歴史に「退屈」の起源があるのではないか、と。

 

3、「環世界間移動能力 inter-umwelt mobility」と〈動物になること〉

 人間は移動することを前提とした生活を永く続けてたために退屈を感じ、その結果、定住後に不安定な環世界しか持ち得なくなった。環世界を自由を持って移動できる能力があるから退屈するのである。退屈することを強く運命つけられた人間的な生。しかしその人間的な生から逃れる可能性も残されている。それが〈動物になること〉という可能性だ。そこには、考えることの契機となる何かを受け取る余裕があるとし、本書では「退屈」の第二形式の状態に相当する。

 フランスの哲学者・ドゥルーズは、人間はものを考えないですむ生活を目指して生きていると考えた。人間がものを考えるのは、強制されてのことである、と。ものを考えるとは、それまで自分の生活を支えていた習慣が多かれ少なかれ破壊される過程と切り離せない。その破壊をドゥルーズは「不法侵入」と表現する。人間は自らの環世界を破壊しにやってくるものを、容易に受け取れる可能性を持っている。自らの環世界への「不法侵入」を受け取り、思考し、そして新しい環世界を作り上げることができる存在なのだ。この「不法侵入」によって思考に追いやられる状態を〈人間であること〉とし、そこから思考する必要にかられない安定した環世界の中に埋没した状態を〈動物になること〉と位置付ける。〈人間〉を〈動物〉になるプロセスとして考えるのだ。

 

4、「実存」的な問題を「他者」に開く

 ここまで、本書の論の構造を追ってきたが、この「倫理学」の中で興味深く思ったのは、きちんと他者の方へその結論を開いているところだ。しかもその「実存」は「社会」へと繋ぐ回路が用意されている。

 世界には思考を強いるものや出来事にあふれている。「退屈」の第二形式では様々の情報を受け取ることのできる状態にあるが、それは「決断」が視野の範囲を限定することとは対照的だ。〈人間であること〉を楽しむことで〈動物になること〉を待ち構える。

 そのためには何が必要なのか。そこで、〈暇と退屈の倫理学〉の次なる課題が提示される。それは、「どうすれば、皆が暇になれるか、皆に暇を許す社会が訪れるか」という課題だ。この問いを持って本書は幕を閉じることとなる。

 

5. 日本の言論、思想史の塗り替えとして

 アジテーションこそないのでインパクトとしては若干弱い部分もあるが、それも含めて國分さんの「倫理」のあり方なのだろうと思われる。その「弱さ」の中に留まりつつも、日本の思想界でなかなか困難な日本的ポストモダン思想の乗り越えへの意思のようなものを感じることが出来た。

 本書の結論としては、

①解答ではなく過程が重要であること。
②贅沢を取り戻すこと。
③人間であることを楽しむ。

の三つなのだが、ただ実存的な問いに解答することにとどまらないで社会的な問題に接続する回路がきっちりと設けてられている。

 と同時に、このレビューの最初に書いたような指摘もあながち的外れではないだろうと思われるのだ。本書の中にも、日本でのポストモダン思想の受容におけるウィークポイントも残余として残っているのではないだろうか。

 そこで二人の思想家(?)の倫理的だと思われる活動を例として挙げてみたい。社会学者の宮台真司さんと株式会社ゲンロンの東浩紀さんだ。現在の日本の言論界において、特に顕著にポストモダン以降の日本の思想状況の体現者、且つ、その乗り越えを実践しているように捉えることの出来る論者だと思う。

 宮台さんはその言論活動において徹底的に政治的な機能、効果に焦点を定めている論者だ。単純な発言の意味内容ではなくその発言の効果、機能にとても意識的な活動が明確だ。東さんは、自ら会社を経営をしたり、市場経済のアクチュアリティのただ中に自ら身を置くことによって、既存の業界然とした言論界の中で異彩を放っている。

 この両者は、自分の行為の効果に拘ったり失敗するリスクを抱えながら具体的に新しいことを始めている。その活動は言論人として、とても倫理的な態度のようにみえるのだ。

 どうしようもなく受け取ってしまったもの、呼びかけに対して応答し「決断」してしまうということ。そのことが「倫理」である可能性もまたあるのではないだろうか。おそらくはそれくらいのことは國分さんは分かっていることだと思う。ただ、本書だけを読むと、「決断」における複数のレイヤーの存在可能を見誤ることもまたあるのではないだろうかと思うのだ。

 と同時に、本書の倫理学から受ける感覚は、古市憲寿さんの『絶望の国の幸福な若者たち』を読んだ時のそれと近いものがあった。それは、本書の倫理的なあり方が、「強く同時代性を含んでいる」、ということなのかもしれない。

 

【中川康雄(なかがわ・やすお)】
文化批評。表象・メディア論、及びコミュニティ研究。
未来回路製作所主宰。
個人ブログ:http://insiderivers.com