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AMEBIC (集英社文庫 か 44-3)

 金原ひとみが芥川賞を獲ったインタビューで「まあ、適当に」などというコメントをしていたのを見たときの腹立ち様を、私はいまでも忘れない。何に対して腹が立ったのかというと、ろくに苦労もせず楽に生み出した文章だけれど、周りもなんちゃら賞に出せ出せって煩いし、まあ折角だし、なんていう軽い態度のように感じたことであるとか、彼女の頭、いやおそらく身体の芯にまで達しているであろう文学のにおいを、何も知りませんダサいし、と一蹴して、一見さもパープリンのノータリンであるかのような演出が成されていた腹立たしかったのである。そんなはずねえだろうバカかお前、と悪態を吐いた。彼女と同時に第130回芥川賞を受賞した、綿矢りさと対を成すキャラクターとして取り上げるマスメディアの過剰さにも鼻白んでいた。

 気に食わなさは更に続く。彼女の作品が面白いのだ。デビュー作、受賞作の後、潰れていく作家は本当に多い。そんな中、彼女の本が刊行される度、私は「してやられた」と思う。こんな風に書きたいという漠然とした思念が、形になって現れる。毎度、作中の人間が成長している。そしてその成長が、他のどの作家よりも、リアルに近い。

 今回取り上げた「アミービック」は、してやられた感が最も強い作品。錯文と作中で主人公が呼ぶ自動筆記形式の文章が素晴らしい。自動筆記、オートマティスム自体は古典的手法であるが(金原自身もこの手法は知っていたに違いない。彼女はどことなくブルトン的だ)、使われ方が、素晴らしい。

 主人公に這うようにして配置される錯文は、内情に引き込まれる感覚を後押しする。中でも秀逸なのは、六本木ヒルズでの婚約者との面会のシーン、その後に挿入される錯文などは、その量、質、正面切って突きつけられる現実が、彼女自身を匿っていた虚構の現実を脅かす恐怖と、きっと彼女の内部に残っている正しさが自覚する恥とが混沌として、整理のつかない様を端的に表現している。(……今気付いたけれど、錯文に対して端的という単語は適切ではないのか? いや、しかし、ピタリと当てはまるのだが……)

 とてもふわふわとした質感で、足が地につかないまま、訳の分からない苛立ちと寂しさに纏わりつかれて、どんどん私が世界から切り離されて、孤立していく感じ。ここに私のいない感じ、内側にしか、広がりが、ない感じ。

 ……学生(自慢だが私は規範から外れない程度の良いワルイコであった)時代のがっぷり四つの思春期日記などは、殆ど錯文のようなものである。物事に対する反応が過剰にミクロで、まさに錯乱しているかの様だった。だから、錯文には鳥肌が立った。きちんと文章を書けるようになる頃には、こんな風なガリガリとした文章は、理性というか、加減の効かない忌々しい分別がストップをかけてしまって、身体内部の混沌を正確にアウトプットできなくなってしまうからだ。

 だから余計に悔しい。いつ読んでも悔しい、いつまでも悔しい。アメーバの様な感覚を味わったことがある限り、いつまでも読める。ギリギリの精神状態の覚束なさが、フラッシュバックする。

 食べない。細く美しい私。それ以外を認めない。これが多分愛と信じたものに溺れる。溺れることに溺れる。そんな私を愛する。私の愛する私は嘘が嘘でも信じる。そこでの私は完璧で、だから私は絶対で、私の取り巻くすべては悪意を以ってして完璧。主人公も、その姿を文字の上で追う読者、きっと穏やかに狂い続ける人々は、必ずや「アミービック」の疲弊感に憧れるのではないだろうか。

 (針が振り切れるのは、自分でなくなる感覚は、酷く気持ちが良いだろうからなあ!)

 

【北原しずく(きたはら・しずく)】(@cuww)
東京女子大学現代文化学部卒。20代独身メス負けそう組。広告会社を皮切りに、ころころ職を変え続け、現在は毛糸業界に身を潜める一方で、金の稼げない物書き業を営む。