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ドゥルーズの哲学原理 (岩波現代全書)

今まで多くのドゥルーズ読みたちに出会ってきた。その出会いの中で彼らの共通点は自分なりに出来上がっていたし、ほとんど個人での体験であったものの(『千のプラトー』に関しては読書会でそれなりにきっちり読んでた)読書経験もあったので、本書によって自らの中で構成されたイメージが、どのように変奏されることになるのかを楽しみにしながら読み始めた。

多くのドゥルーズ好きの人たちの特徴として僕が持っていたイメージは、読んでいくうちに自分の中にある自己規制を相対化したり解放したり、湧き上がる欲動を肯定することの「快」というものを経験した人たち、といった感じだった。それは生成変化や流動性、マイナー性や差異を肯定し豊潤さとして捉え変える方に向かうだけでなく、例えばゲームとして社会を捉える視点の獲得や現状の豊さの発見に向かった人も多かったし、中にはアナキズム方面に傾いていく人もいた。そのイメージ自体は読後も変わっていない。むしろ、「生成」や「欲望」という観点からドゥルーズ理論を読んだ時、そのようなイメージを生成することは妥当だとさえ思った。何故ならば、ドゥルーズ哲学の機能的な効果をその出会って来た人々の中に認めることができたからだ。

その機能の多くは「ドゥルーズ」ではなく、主に「ドゥルーズ=ガタリ」の影響下において誘発されている。そのことは影響を与えている著作の傾向にも現れていて、『アンチ・オイディプス』『千のプラトー』『哲学とは何か』、この3冊に影響の出発点がある人が多かった。やはり特に、『千のプラトー』。本書では「ドゥルーズ」と「ドゥルーズ=ガタリ」とを分け、前者の哲学的な思考の根源にある法則を見つけることが着地点となっている。結果、その思索の道筋はドゥルーズがその哲学研究の末に必然としてガタリに出会っているということも示されている。

本書の後半では、ドゥルーズがフーコーにおける権力論を構築する「言説的編成」と「非言説的編成」の二元論の中に含まれている「襞」を押し広げ、その中に潜む「欲望の一元論の哲学」を展開していく。欲望は権力に先立つ。つまり、権力はいかにして欲望されているのか。「なぜ人は自由になろうとしないのか、どうすれば自由を求めることができるようになるのか?」。ドゥルーズはその問いの中で生きていたのである。

ドゥルーズは、人は思考するのではなく思考させられるとし、思考を強制する暴力を「しるし」(シーニュ)と呼んだ。これは贈与されるものでなく、出会われるものである。このような思考と暴力の理論は、その出会いを組織するための習得の理論、学びの理論への回路を開いていく。その先にガタリが存在したのだ。

(了)

【中川康雄(なかがわ・やすお)】
表象・メディア論、及びコミュニティ観察。
インディーズメディア「未来回路」主宰。
Twitter:insiderivers
個人ブログ:http://insiderivers.com