Share on Facebook
LINEで送る
Pocket

この記事の所要時間: 337

音楽が終わって、人生が始まる

 フロアに爆音の音楽が響き渡る。その瞬間、無意識に腕を天高く伸ばし、頭上にある何かを手のひらで懸命に受け止めようとする。その姿は、まるで風を読む航海士か何かのようである。しかし、視線の先には、何もない。正確に言うと誰も何も見ていない。視点を定めるでもなく、またある者は目を閉じて、それでも皆天を向く。

 おそらくこの感覚を、パーティーピープルと共有するのは容易い事だろう。皆、形はどうあれその場にいる人間は同じ感覚を体験する。そしてそれは言葉によって説明できる類いの物ではない事を誰もが理解している。手のひら一杯に受け止めている物の正体は、確実に存在しているのに、言葉を用いて説明する事なんてできない。なぜなら音楽を体験するという事は、言葉を失うという事に他ならないからである。そして、その失語体験とも言うべき感覚は、ありとあらゆる人生の苦行から一時的な解放をもたらしてくれる。
 音楽という形のない、目に見えない感覚を評論する磯部涼は、決して音楽自体を言葉によって語ろうとはしない。磯部がライターとして向き合っている音楽とは、あくまでパーティーがあれば街に繰り出す参加者の視点であり、ある時はフロアを揺らすDJの視点であり、音楽を作るというある種の苦行を選択したミュージシャンの視点である。つまり、磯部が言葉にして語ろうとしているのは、音楽の先にある「人」であり、そこに関わるすべての人間模様である。これは、著者がライブハウスやクラブのみを現場と定義せず、音楽に携わる「その人がその時いる場所こそが、その人にとっての“現場”なのだ。」という姿勢に現れている。

 かつて音楽産業は、いい音楽は売れる、売れる物は大衆の欲望を反映するという市場原理に基づくものであった。新譜を売り込む為に、様々な広告媒体を駆使し、音楽を無理にでも言葉にし、評論した。そして、そこにはどうしようもない違和感があった。その違和感は、同産業が、価値観の多様化によりポップカルチャーからローカルカルチャーへ変化しようとしていることにも見て取れる。その意味で、ミュージシャンの自宅を現場だととらえるならば、そこに乗り込んで話を聞き、一つ一つをラフに、しかし丁寧に取り出す磯部の姿勢は、間違いなく今我々が求めている視点であり、これ以上に我々が信頼できる言葉はないのであろう。そして、そこには間違いなく磯部の音楽に対する愛情がある。
 そして磯部ほど、音楽を作る事の苦しみを理解しているライターも稀であろう。本書第3章に登場するミュージシャンとのインタビューには、何か得体の知れない悲しみが漂っている。それは、彼らが、過去のどの部分からやって来て、そこで何を感じ、なぜ9.11以降も、大切な人が去った後も、震災後も、そしてなぜ今も音楽を作り続けているのか、彼らの苦しみと向き合い葛藤する姿に焦点を当てているからに他ならない。そこには「僕たちは世界を変える事ができない、でも世界も僕たちを変える事ができない。」という00年代音楽の葛藤とたくましさがある。

 そして、その苦しみや葛藤、しかしそれでも生きて行くというたくましさこそ終章にて語られる“音楽の力”の本質なのであろう。磯部が考える“音楽の力”とは、震災後に見られたような同調圧力により半ば強制的に発生するものではなく、耳を澄ませば瓦礫の中から新しい音楽が鳴りだすような、いつだって酷い環境の中から這い上がって進化するようなリアルに生きた“音楽の力”を意味している。それは、七尾旅人のように、音楽の生み手にとって苦行となるような試行錯誤の結集かもしれない。しかし、そこには間違いなくリアルで研ぎ澄まされた感覚がある。そして生きていくという生の実感とたくましさがある。
 だからこそ、私たちは、彼らの奏でる音楽に感動し、何度でも言葉を失い、理由のない涙を流し、やがて音楽が鳴り終わると、新たに得た言葉で自分の人生に向き合えるのである。生の実感とたくましさと共に、音楽が終わって人生が始まるのである。何度も、何度も。  

 

【ノラ】都内在住ミュージシャン。Service records所属。Tecnorahを中心として活動。
http://service-records.jp/in/archives/146
twitter: noramaker

Share on Facebook
LINEで送る
Pocket