劇評「異郷の痕跡を辿り、東京の物語を多孔化する旅」、『東京ヘテロトピア』(Port B)

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port Bの演劇作品「東京ヘテロトピア」は、多くの人たちにとって「演劇」という言葉の持つイメージを大きく逸脱しているかもしれない。確かに、業界内では一般的になってきたものの、ツアーパフォーマンスという手法は、いまだに「演劇」の持つパブリックイメージとはズレたところに存在しているといえるかもしれない。けれども、本作品は紛れもなく「演劇」なのである。もしかしたらそれは例えば、「麺の入ってないラーメンを如何にラーメンの概念に当てはめるか」といったようなアクロバティックな思考実験と同等にみえるかもしないが、決して奇を衒っているわけでもない。

では、このツアーパフォーマンスという手法で形成されるこの作品が、「演劇」である根拠はいったい何処にあるのだろうか。それは「演劇」が歴史的、社会的に果たしてきた機能にある。そのことを確認するために、演出家の高山明氏の文章を少し長いが引用してみよう。

シアター、テアーター、テアトル、テアトロ……、日本で「演劇」と呼ばれるものの起源は、ギリシャ語の「テアトロン」である。この語はもともと古代ギリシャ劇場のある部分を指していた。今の感覚で考えれば舞台ということになりそうだが、実はそうではない。テアトロンとは客席を意味する言葉だったのである。観客のいる客席が演劇を意味する語として残り、いまだにその語が演劇一般を指している。私はそのことの意味を重く受け止めたいと思う。つまり演劇とは客席であり、客席で観客が見たり、聞いたりすることが演劇の本質なのだと。舞台上で行われることはきっかけに過ぎず、それを受容した観客がなにを考え、どんな議論をし、どのように市民の意志を決定していくか、そこに重点が置かれていたわけである。

『RESEARCH JOURNAL ISSUE 01』に収められている「広場と演劇の交わるところで」と題された文章の中で、高山氏は「広場こそが本質的に演劇なのである」というテーゼの根拠を以上のように述べている。

つまり、「演劇」の起源にあった機能に、「演劇」の演劇性を見出しているのだ。その機能をこの現代日本でどのように召喚するのか、ということが作品中で実践されている。もしかしたら、日本独自のコンテクストがあるのだから、古代ギリシャから続く西洋演劇のコンテクストを日本に導入してくることに対して疑問を持つ人もいるかもしれないが、ここで考えられている「演劇」の機能が今の日本演劇のコンテクストの中でこそ必要なのではないか、という問いがその実践には含まれているのである。日本は歴史上、国外の様々な文化や学問などの影響を受けながらそれらを活用してきた。そのような受容のあり方のコンテクストを踏まえると、古代ギリシアに始まる「演劇」の機能をこの日本で展開しようとすることに、文化的、歴史的な連続性も読み取れるのではないだろうか。

さて、本作品が「演劇」であることの根拠とそこに含まれる問いを確認したところで、新作「東京ヘテロトピア」の内容に入っていきたい。

本作品において、はじめに観客はガイドブックと携帯ラジオを受け取る。そして、ガイドブックをたよりにそこに指示されている場所を訪れ、その場所で携帯ラジオの周波数をチューニングし、聴こえてくる声に耳を澄ます。そこには場所にまつわる物語が流れており、その声を聴くという行為は場所にあるゲニウスロキ(地霊)に出会うような感覚をもたらす。そして、その感覚は私たちが普段接している均質的な東京のものとは異なっている。本作品で扱われる場所は、主にアジアからの留学生たちの旅の通過点であり、また、持続する痕跡の地である。そこで観客は東京の別の姿に出会うことになるのだ。

本作品のキーワードは「旅」と「翻訳」となっている。観客は、能動的であると同時に受動的であるような状況に身を置き、そこで自らを揺さぶるもの、不安定にするものに曝される。ここではない異郷から来た人々の痕跡と物語。観客は異郷ではなかったはずのこの東京という街の中で異郷への入り口を発見していく。その発見はそのまま、私たちの姿を別の角度から眺めることであり、また、この東京という街を別の視点から眺めることでもあるのだ。私たちとは何者なのか。東京とはどのような場所なのか。そのような問いが、観客の意識の表層に浮上してくる。ガイドブックによって示されている場所を訪れ、そこに残る声を聴くことは、私たちがイメージする均質的な東京の街を多孔化していく作業となるのだ。

そして、訪れた場所ではクレオール化した言語と接触することになる。クレオールとは、異なる言語や文化の間に成立した言語など(これをピジンという)が、時を経て比較的固定化された体系のことをいう。作品を経験するという目的を果たすためには、そのような体系を持つ他なる者たちとの接触が必要とされる。その結果、自分が日々使用している言語や所属する文化とも向き合うことにもなるし、それだけに留まらず、自分自身も影響を受け再編成することにも迫られる。まさしく、この時点で観客の中にピジン語的なものが発生しているのだ。そこでは絶え間ない翻訳と編集の作業が行われている。

本作品を経験した人々の中に生じたピジン的な言語。その新たな言語の欠片。それはこの東京という都市の中で潜在的な可能性、単一的な大きな物語が覆い隠している小さな物語たちの欠片でもある。それらは、それぞれ固有に屹立しながらも、大きな物語とも響き合い、そして変化させる可能性を秘めている。何故ならば、それらの物語は異なるレイヤーにあるが、同じ物語であることは確かだからだ。その場所に宿る神話、歴史、物語。その3つの関係を再編成していくために、その入口として小さな物語にアクセスすること。そのことが私たちの「心の癖」(エートス)を形作る目に見えない大きな物語に揺さぶりをかける。つまり、そこには未来の種が宿っているのである。

(了)

※途中経過versionはこちら。
劇評「味覚で感じる異なる文化体系と日本のアナザーヒストリー。」

【中川康雄(なかがわ・やすお)】
表象・メディア論、及びコミュニティ観察。
インディーズメディア「未来回路」主宰。
Twitter:insiderivers
個人ブログ:http://insiderivers.com

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