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シチュエーションズ 「以後」をめぐって

2011年3月以降、底冷えする寒さの中でほとんど自動的に頭の中に再生される風景がある。それは東日本大震災の直後の瓦礫の山となった被災地に雪が降っている風景だ。

ここのところ、寒さに体温を奪われていくまま凍えていくような感覚に襲われることがある。その冷えへの抵抗力の減退を感じだしたのは、ここ最近のことだ。それまで自分が冷え性であることの自覚はなかったし、これが冷え性による感覚なのかもまだわからない。ただ、雪降る瓦礫の中で、そこにいる人々、さっきまでそこに居たかもしれない人々を包み込む寒さを私は想像せずにはいられなくなっている。ふいに訪れるその風景が、私にとって何を意味しているのかはよくわからない。ただ、これは私にとって、まだ受容しきれていない何かの存在を暗示しているように感じられてならない。

本書のサブタイトルにある「以後」とは、狭義の意味では東日本大震災から連なる「3.11」と呼ばれる出来事の「以後」を指している。けれども、ここでテーマとして扱われているものは、その場所からもっと遠くへと旅をしている。もちろん、この出来事は未だに多くの課題を残しており、まだ語り尽くすどころか語ることが始められることもないような巨大な出来事だ。それでも、本書を貫くテーマがその固有の出来事自体を語ることをしないのは、その出来事を通じて、「当事者」であるとはどういうことか、という問いが見出されているからである。

本書における「当事者」とは以下のように把握されている。私たちは全きの当事者でも非当事者でもいることはできない。全きの当事者、つまり死者であることは出来ず、全く切り離された無関係であることもできない。その間にある無限のバリエーション、グラデーション、シチュエーションの中に、「わたし」は置かれているのだ。全ての出来事には、人の数と等しい当事者性がある。本書における当事者性とは、そのようなある出来事からの「距離」によって測定される関係によって生起する何ものかだ。「距離」を測定するということは出来事からの連続性の把握を把握することでもある。本書ではこの「距離」という言葉が重要な概念として扱われており、日本に一度も訪れたことのないオーストリアのウィーン在住の劇作家・エルフリーデ・イェリネクの「3.11」への応答として発せられた突き刺さるような戯曲「光のない。」などを示しながら、「距離」と「当事者」であることの関係を浮かび上がらせる。

本書では「当事者」であるとは、つまり、この「わたし」であることだとしている。そして著者は、ある出来事への応答として、この「わたし」を突き動かすものがどこに由来したものなのかを見定めることを勧める。様々な強度で発せられる声のもとを辿り、それを発しているのは何ものなのかを見定めること。つまり、「わたし」の複数形である「わたしたち」が時代の空気や何らかの大きな力によって一元化されるのではなく、真に複数の状態で「わたしたち」であろうとすることの根拠を、この当事者であることにみるのである。

それは時代の空気のその中で、自分のテンポというものを把握する行為でもあるだろう。もちろん、その行為は様々な揺らぎを含んでいるし、これが真実だと思ったものがひっくり返ったと思ったら正しかったりとか、多くの決定不可能性の中で揺れているかもしれない。それは多くの刺激にかき乱されるものだ。責任として捉えると苦痛に似たものとなってしまうかもしれないし、それを快感に結びつけられるのは少数派の成せる技かもしれない。けれども、揺らぎながら漂いながらもそのような快楽の探し方が、それぞれの人々の奥底にあるはずの「当事者」としての声に耳を澄ますことに繋がるとするならば、幾ばくかの温もりをこの冬の始まりの時代の中に感じることができるかもしれない。そしてそれは、おそらく越冬するのに、そして冬が終わる時代を生きる時にも必要な温もりとなるはずである。

(了)

【中川康雄(なかがわ・やすお)】
表象・メディア論、及びコミュニティ観察。
インディーズメディア「未来回路」主宰。
Twitter:insiderivers
個人ブログ:http://insiderivers.com