「スペクタクルから一歩踏み込むドキュメンタリー」、映画『アクト・オブ・キリング』(監督:ジョシュア・オッペンハイマー)

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1. ドキュメンタリーとしての価値

このドキュメンタリー映画を観終わってから、最初に考えたことは、この作品が観た人たちにどのような効果を与えるのだろう、ということでした。その効果としてまず考えられるのは、知らなかったことを知るようになる、ということがあるでしょう。

1960年代のインドネシアで、100万人規模の大量虐殺が行われたという事実。それは「共産主義者」と判断された人たちに対して行われたということ。そのイメージの操作をメディアも協力して行ったということ。それを指示した人たちは、今もインドネシア政府の中枢を担っていること。そして、その虐殺を実行した人たちは、英雄のように扱われていること。

インドネシアで大量虐殺があったことや、その対象が「共産主義者」だったことは、日本でも広く知られていると思いますが、この映画は更にその先の風景を描き出していきます。そのことによって過去と現在をシームレスに繋いでいくのです。その風景とは、現在でも、その殺戮を指示した者が政府の中枢を担っていて、実行した者は英雄扱いされているというもの。その風景を映し取ることに成功したこと。ここに本作品のドキュメンタリー映像としての価値のひとつがあると思われます。

けれども、これらの風景も、それ自体では新鮮さを感じるものではありません。 場所や規模、内容は違えど、そのような構図はさほど目新しいものではないからです。その構図が私たちの身近なところにありふれている。無知であることを前提としないで、そのことを否定できる人はいないのではないでしょうか。

2. 価値観のコンフリクト

本作品の中で関心が向いたところのひとつは、約1000人を虐殺した者が、撮影を通じて、虐殺を再現したりされる側のロールプレイをすることで引き起こされる変化でした。

そこには、2つの価値観のぶつかり合いとそれに伴う観点の生成変化があります。正確にはもっと複合的な要素の絡まり合いの中から生成される変化ですが、ここでは少ない文字数で説明するために単純化した図式で見ていきましょう。その単純化の欲望にも敏感でありながら、何とか隘路に入らないようにしながら。

その2つとは、虐殺を肯定する価値観と否定する価値観です。

前者を構成する要素は、この映画の中に多く描かれているので分かりやすいですね。具体的には、お金や権力、メディア、そして、それらによって作り出される「正義」などになります。

けれども、後者を構成する要素の多くは、カメラの外にあるのではないでしょうか。そのために見えにくい。後述しますが、その見えない要素を補完しているのはアメリカ人である監督の存在のように見えます。

例えば、孫の存在や老いなどは後者を構成する要素としてみることが可能だとは思います。けれども、グローバルな政治経済とも無関係ではないはずです。その意味で、本作品の中での虐殺者の変化を、単純な人間存在の普遍性への揺り戻しとして捉えてはいけないのかもしれません。なぜならば、そのような素朴に人間性や普遍性の措定することが、大量虐殺を可能にする要素のひとつでもあると思われるからです。

3. 他者を虐殺可能にするテクノロジー

少し映画から離れてしまうかもしれませんが、大量虐殺という言葉で連想されるもののひとつに「肉食」があります。

私たちの多くは肉食をするわけですが、当然、そこには他の動物に対するとてつもない暴力が存在しています。そして、私たちはそのことを日々の生活の中で意識することは少ないのではないでしょうか。そこにもやはり、他者を虐殺可能にする政治のテクノロジーが働いているように思います。私たちがスーパーマーケットで購入する、あるいは、レストランなどで食べる肉たちは、そのような暴力とはまるで無縁であるかのように綺麗にパッケージングされている。暴力の痕跡が消されているとも言えるでしょう。

食べられる動物に感情移入してしまうことは、ある種の極端な思想の持ち主とみなされることを誘発するかもしれません。けれども、現在の食用肉の生産現場をみると、菜食主義者でなくとも、その現状について違和感を持たざるを得なくなるのではないでしょうか。私たちの住む現代社会は、それを成り立たせている暴力を見ないことによって、まわっているように思えます。

例えば、以下のような動画が参考になるかもしれません。食肉用の生産現場の映像です。

「リアル版、千と千尋の神隠し|スーパーで売られているお肉の、ブラックな真実」
http://tabi-labo.com/6240/samsarafood/

そのような現状の肯定を可能にしているのは、例えば倫理面でいうと、その動物の知性の高低あるかどうかがその根拠となったりするわけです。イルカやクジラの漁に反対の人たちの論拠も、その高い知性によるところが大きいのではないでしょうか。けれども、同じ人間でも知性は個々人で違うわけだし、障害を持つ人もいるわけで。そうなるとやはり、「同種だから」という根拠くらいしか残らないわけですよね。

「こいつらは仲間じゃない」といった意識を作り出し、更に利害が敵対する存在と据えることが、殺戮を容易にしていく。それは政治の手法であり、思想の右左にはほとんど関係ありません。つまり、政治のテクノロジーのひとつであるわけですね。もちろん、私たちはこのようなテクノロジーが効きにくい社会づくりをしていく必要があります。

他の殺戮の例としては、同じ東南アジアの国であるカンボジアのクメール・ルージュを挙げることができるでしょう。こちらは1970年代ですね。インドネシアの場合と異なるのは、それが共産主義政権下で行われたこと、そして、現政権との連続性は基本的にないことです。その非連続性によって、カンボジアではその殺戮の事実は凄惨な記憶として認識されています。その殺戮が行われた現場が観光地化されていることが象徴的ですね。例えば、キリングフィールドはその代表的な場所だといえるでしょう。

ちなみにカンボジアでも現在、殺した側と殺された側の家族が同じ街の中で暮らしていたりします。また、クメール・ルージュは、現在、ゲリラ化していているそうです。

4. エンドロールで際立つもの

このような映画を作り出すことが出来た要因として、長くインドネシアで生活しているにしても、監督がアメリカ人で有るということが重要なのかもしれません。例えば、同じようにロシア人やベトナム人がこの映画を撮ろうとしたら、たぶん全く別のものになっていたのではないでしょうか。なぜなら、それぞれの所属する国家の持つ歴史と現在の国際的な位置付けが異なるからです。

インドネシアでの大量殺戮は、アメリカを代表とする資本主義とソ連を代表とする社会主義との冷戦下の状況で起こったことだと言われています。ちなみに日本はアメリカ側に位置し、この殺戮に対しても支援していたという話がありますね。

「この大虐殺には日本も関与していた─映画『アクト・オブ・キリング』デヴィ夫人によるトーク全文」
http://www.webdice.jp/dice/detail/4161/

そのような背景があるからこそ、本作品で虐殺者はアメリカ人である監督に心を開き、結果、価値の揺さぶりを効果的に起こすことができたという側面があるのではないでしょうか。つまり、何処に誰がどのように介入するのか、ということが決定的に重要になったということです。

エンドロールに流れる大量の「Anonymous」の文字が、余計に監督の存在感を強めているように感じられました。そして、その存在感の強さは、虐殺の上で成り立っているアメリカの姿でもあるのかもしれません。

それは皮肉でもあり、且つ、新たな可能性をも示唆しているのではないでしょうか。ここに、スペクタクルの先に踏み込む手法のヒントがあるように思われます。私たちは今でも、落ちるところまで落ちて「絶望」を受け止めるところからしか、はじめることのできない課題を抱えているのではないでしょうか。

同じアジアの国だからということもあると思いますが、インドネシアの草の根の権力構造は、日本のそれともシンクロしているように見えました。

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(了)

【中川康雄(なかがわ・やすお)】
表象・メディア論、及びコミュニティ観察。インディーズメディア「未来回路」。
Twitter:insiderivers
個人ブログ:http://insiderivers.com

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