Share on Facebook
LINEで送る
Pocket

この記事の所要時間: 623

宮崎駿論―神々と子どもたちの物語 (NHKブックス No.1215)

1.

現在、アニメーション作家・宮崎駿、そしてスタジオジブリが生み出す作品たちは、多くの人びとにとって共通言語のようなものとして流通している。既存の作品たちだけでなく、新作が発表されるとまるで祭りのように盛り上がり、その姿は楽しみを共有するコミュニケーションのプラットホームのようだ。

その作品たちのほとんど全ての届け先は、「子ども」たちに向けられている。ゆえに小さな子どもでもエンターテイメントとして受容することができる工夫が凝らされている。その参入障壁の低さも、その作品たちを共通言語のように機能させる要因でもあるだろう。

けれども、そのエンターテイメントとしての分かり易さゆえに、現実の困難さ、複雑さを重要視する人びとからは、たびたび敬遠される存在でもあったかもしれない。しかし、本書を読み進めていく中で、その作品たちの中に込められているものが、現実の困難さや複雑さと無縁ではないことが分かってくる。

そこには言い知れない絶望とそれでも残る微かな希望の種子が、確かに息衝いているのだ。本書は丁寧にその痕跡を辿りながら、作品たちの〈となり〉に寄り添いながら、そのことを確認していく。

2.

著者の杉田俊介さんは批評家だ。単著に『フリーターにとって「自由」とは何か』、『無能力批評――労働と生存のエチカ』がある。

フリーターにとって「自由」とは何か
杉田 俊介
人文書院
売り上げランキング: 199,653
無能力批評―労働と生存のエチカ
杉田 俊介
大月書店
売り上げランキング: 546,829

また、現在は解散してしまったが、組合形式の編集プロジェクトである有限責任事業組合「フリーターズフリー」のメンバーでもあった。

フリーターズフリー〈Vol.01〉よわいのはどっちだ。
フリーターズフリー
売り上げランキング: 279,452

そして、世代の当事者としてもロスジェネ問題にも深くコミットしている。

ロスジェネ〈4(最終号)〉政治と文学を超えて
ロスジェネ
売り上げランキング: 790,694

現在は、障害者の非常勤ヘルパーとして、そして、父親として子育てにも従事されているそうである。

3.

本書において、宮崎駿と著者の情動とがシンクロしているような印象を受ける場所がある。つまり、両者の情念が混ざり合い、もはやどちらのものなのか分からなくなる地点があるのだ。それは以下の文章に象徴されるような世界の姿を眺める視線である。

「最大多数の最大幸福」を目指すリベラルな政治は、つねに、特定の少数者や声なき声を切り捨てる暴力と背中合わせだからだ。社会的弱者の幸福を願うがゆえに少数の〈弱者〉を「仕方なく」切り捨てていくこと。そんな「仕方のない」暴力に無痛になり、失語を忘れ、小さな「現実」(じつは「自分」)ばかりを守る政治はやはりすでに腐っている。
 私たちは、この矛盾こそを〈決して癒しえない悲しみ〉と名付け直そう。
(p.107)

この〈決して癒しえない悲しみ〉。リベラリズムとラディカリズムとの間にある埋め難い断絶。それが世界の仕組みとなっていることへの絶望と怒り。それ故のドス黒い情念。

このあたりで、作家論としての分析者の手捌きは、読み手を傷付くことのない安全な場所から、その情念の渦中へと誘っていく。まず、著者が自らその情念の中に踏み込み、その「悲しみ」を自らの経験をもとに受肉させていくのである。

4.

本書の後半では、著者が宮崎駿のまだ描き切っていないと思われるモチーフについて語りを進めていく。そして、それを最後まで描き切ることの重要性を語っていくのである。それは作家論としては越権行為、また暴力を含む行為でもあるのかもしれない。これまでただ〈となり〉で観ていた存在が、その対象に介入していく。

どうしてそうしなければならなかったのか、せざるをえなかったのか。その理由は、それを描き切らなければ、宮崎駿自身が「タタリ神」になってしまうのではないか、と著者が直感しているからだ。

私たちは世界の根源的な成り立ちに起因する「悲しみ」をどのように受け取ればいいのか。私たちは変わっていく最中の存在であるにも関わらず、この「悲しみ」から逃れることができない。そうであるのならば、全ての解釈は自己の納得の問題、欲望の問題でしかありえなくなる。その徹底した自己嫌悪が、宮崎駿作品には通低音のように組み込まれているのだ。

何を行ってもすべて失敗してしまう。何も正解を選びとれないのにも関わらず、過ちばかりが、醜さばかりが自らの中に堆積していく。

しかし、もし、その隘路が隘路ではないとしたら。それがただ、私たちが世界をありのままに観ることができない故の「悲しみ」なのだとしたら。著者は、宮崎駿が描き切っていない風景に自らの希望のかたちを重ねながら、一つの答えらしきものに到達していく。

5.

汝、物語に食べられて、神々を産め。
(p.343)

食べることと食べられること、死ぬことと産まれることが、同意義であるような地点。もはや死んでしまったものや生まれ得なかったものすら、ひとつの生態系の中に生き生きと脈打ちはじめる。すべての能力主義や優生思想、そしてその中に潜む差別を無化し、能動者が受容者であり、食べられることが新たな出産であるような場所。八百万の神々の世界。そこに全てを肯定する地平の潜在性が開示される。そして、その地平と「子ども」たちの世界が接続されるのだ。

この肯定の地平から、再び私たちはこの世界を生き直し続けることしかできないのではないだろうか。光を希望を信じること自体が暴力であるかもしれないような世界の中で。もうすでに無数の救えなかったもの、犠牲にされていったものの上に成り立つ世界の中で。それでも、未だに生命は続いているということは事実なのである。それはみっともなく惨めな存在であるかもしれない。しかし、生命はその誕生の前までは光も闇も矛盾も観ることも出来なかったこの世界を眺めることができるおそらくは唯一の存在でもあるのだ。

その生命への肯定の後、私たちは再び、理想と現実の狭間へと舞い戻らなければならない。けたたましい喧噪と無数の沈黙の中に。誰かの〈となり〉に寄り添うために。

宮崎駿論―神々と子どもたちの物語 (NHKブックス No.1215)
杉田 俊介
NHK出版
売り上げランキング: 71,130

(了)

【中川康雄(なかがわ・やすお)】
表象・メディア論、及びコミュニティ観察。インディーズメディア「未来回路」。
Twitter:insiderivers
個人ブログ:http://insiderivers.com

Share on Facebook
LINEで送る
Pocket