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1.

今年の7月にフランスで開かれた演劇の祭典「アヴィニョン演劇祭」。そこで公演した宮城聰さん率いる劇団「SPAC-静岡県舞台芸術センター」が、この9月に神奈川県芸術劇場で凱旋公演を行いました。

そこで披露されたのは、劇団の代表作である「マハーバーラタ~ナラ王の冒険~」。世界三大叙事詩のひとつに数えられる古代インドの叙事詩の多くのエピソードの中から、抽出された物語です。

その物語を基に、日本や他のアジア地域の表現手法を取り入れ、独自の世界観を作り出しています。舞台の形状も特徴的で、円形の舞台の内側に観客席が設置されるようになっていて、観客は舞台に360度ぐるりの囲まれる格好になっていました。

私は千秋楽の公演を観たのですが、その後にちょっと気になって、Twitterで「マハーバーラタ」とキーワード検索をしてみました。するとどうでしょう、一点の曇りもないほどの絶賛の嵐が、スマホのタイムラインに表示されていました。

私自身、とても幸せな時間を過ごすことができたし、感想も絶賛以外の何ものでもないのですが、ここではその感動から少し距離をとって、この絶賛の嵐の理由について考えてみたいと思います。

2.

ここでは、その理由を1つの観点に絞って眺めてみます。それは「物語」という観点です。たぶん、「分析」というよりは「感想」に違いレビューになる予定です。「音楽」「演出」など、語り口は多くありますが、それは他の見識のある方々にお任せします。

「その美しさで神々をも虜にするダマヤンティ姫が夫に選んだのは人間の子・ナラ王だった。その結婚を妬んだ悪魔カリの呪いによって、ナラ王は弟との賭博に負け国を手放すことになる。落ちのびていく夫に連れ添おうとしたダマヤンティ。だが疲れて眠っている間に、彼女の衣の切れ端を持ってナラは去る。夫を捜して森をさまようダマヤンティを様々な困難が襲う。行く先々で危機を乗り越えた彼女はやがて父親の治める国へ。一方、ナラも数奇な運命を経てその国にたどり着く。果たして夫婦は再会し、国を取り戻すことが出来るのか。」(http://www.spac.or.jp/f14mahabharata.html

この物語のあらすじは、以上のようになっています。もちろん、ラストでは夫婦は再会するし、国も取り戻すことができるわけですが、ここで面白いと思うのは、物語に通底する世界観です。

まず気付くのは、神々という存在が、世界で最も外郭に位置するというわけではない、ということです。では、最も上位にある存在は何か。抽象的な表現になりますが、ここではそれを「徳」ということができるのではないでしょうか。

人間の身であるナラ王が神々でさえ虜にされるダマヤンティ姫と結婚できたのも、このナラ王が「徳」という概念に沿った存在であったからだし、そそのかした悪魔カリも、ナラ王の「徳」を下げるように導くことによって、貶めていくのです。

つまり、「徳」がこの世界観を支配している。この「徳」によって世界が秩序付けられており、神々もその法則に抗いきることはできません。それは上位の「自然」として位置付けられるのです。

この作品は、いわゆる勧善懲悪ものに近い物語であるのですが、日本において、そのような物語といえば、例えば『水戸黄門』のような物語が、多くの人の頭に浮かぶのではないでしょうか。けれども、日本の勧善懲悪ものは、人間と神々の世界が渾然一体としたものではありません。あくまでも、人の世にまつわる物語なのです。

「自然-神々-人間」の関係が、インドの『マハーバーラタ』とは異なります。つまり、世界観が異なっている。けれども、共通して浮かび上がるところもあります。それが「徳」です。この演劇作品で浮かび上がっているものの一つはこの東洋思想の概念である「徳」というものが、インドにおいても日本においても共通する価値として浮かび上がっている、というふうに仮定することが可能かもしれません。

3.

さて、この「ナラ王の物語」というお話を、今の日本の置かれている状況と重ねて考えてみたいと思います。それはかなり強引なことだとは思いますが、そこに絶賛の嵐の理由のひとつを読み込んでみたいのです。

現在の日本において、例えば、政治の領域などは分かり易いですが、「能力」と「徳」を比べたとき、「能力」を選択する方が理知的で正しいと考える傾向が強いのではないでしょうか。例えば、いくら私腹を肥やしても、結果を出してくれさえすれば、優れた政治家である、というように。

確かにそうであるのだけれども、今現在、そのことによる理性と感情との間に生まれるギャップによって生まれるフラストレーションが、徐々に育てられている時代なのかもしれません。

本作品の絶賛の嵐をみた時に、「あっ、みんなやっぱり、高潔な人が指導的立場にいるほうが好きなんやん」って思ったところがあります。「能力」って言ったって、結果的に現在、それで行き詰まっているわけで。だから観客はこの作品に、隠れた希望のようなものを読み込んでいるところがあるのではないでしょうか。

「人格はどうあれ、能力が第一だ」、というのは、言うなれば、政教分離という政策と親和性の高い考え方だと思います。けれども日本では、建前上では政教分離を実践しているとはいえ、結果的に少なくない宗教団体が政治に直接的に乗り出していて、それが是とされています。ここに、そのような能力主義とは違う政治への感性が、日本では強いことを読み取ることもできるのではないでしょうか。

『ナラ王の冒険』は、賭けに負けて落胆している王子を慰めるために語られる、いわゆる「物語の中の物語」です。だとするならば、この作品は、今の私たちに対する応援歌である、と捉えることも可能なのかもしれません。

(了)

【中川康雄(なかがわ・やすお)】
表象・メディア論、及びコミュニティ観察。インディーズメディア「未来回路」。
Twitter:insiderivers
個人ブログ:http://insiderivers.com