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「目と手/わたしとあなた/二重人格と恐竜の歯/動物の鳴き声とピアノ/拳を握ると戦うことができ、ほどくと甘えることができる/夜と昼/眠ることと起きていること/左目と左手/脳ミソからできた目と脳ミソの命令で動く指/死んでいることと生きていること/悪魔と神/神を信じないわたしが魔除けのために踊る、しかし神を信じないわたしにとって魔除けの魔はどこにいるのか?/ううん、やっぱり神はいる。アメーバみたいに伸び縮みして形を変えて、からだを分裂させてどんどん増えて、空気に溶けてここにもあそこにも。/そんなことないやっぱりいない。魔除けの魔はどこにいる?/今から探しに行くことにしよう!わたしの目と手を使って」(「目と手/Occhi e Mani」)

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1. 「作品」と「出来事」のあいだ

あの上演が終わって、もう2ヶ月半という時間が流れている。つまり、このレビューは「遅い」反応ということができるかもしれないが、作品の印象の残りかたというものはじつに面白いもので、観終わった直後にピークが訪れゆっくりと記憶から遠ざかるものもあれば、時間をかけて観客のなかでゆっくりと大きく育っていくものもある。その意味でレビューというものは、その性質上、ただその場にいた直後だけでなく、「遅れた時間」「遠く離れた場所」で、繰り返し更新され続けるものだといえるだろう。私はここで、そのことについて間接的に語ることになるかもしれない。

イタリア・フィレンチェの、とある公園でみた「目と手/Occhi e Mani」という作品は、この印象の育ちかたや変化という点で後者にあたる。そして今、この作品の特徴を私が述べるのであれば、「出来事」として経験されるパフォーマンスだということができるだろう。「出来事」の記憶は、時を経るごとにどんどんそのかたちを変えていく。作品として、「」にくくりきることができないもの、そこからこぼれ落ちてしまうもの。その存在が「作品」を「出来事」へと変貌させていく。その成分が、この作品にはたっぷりと含まれていた。

日本語タイトルの「目と手」は、ローマ字表記「Me to Te」にすると、イタリア語で「わたしとあなた」という意味になるという。それで思い出されるのは、宗教哲学者マルティン・ブーバーの「対話の哲学」だ。「我と汝」が語り合うことで世界が拓けてくるというその哲学は、人間が世界と対峙するときの態度として、この「我と汝」というものの重要性を説いていた。その態度には対話が伴い、また単純に「/」でイメージされるような区切りのようなものではなく、お互いに混じり合い確かめ合いながら、それぞれの存在のありかがそこはかとなく知らされる、そういった種のものだ。

2. 二重文節と視覚の帝国

また、日本語の「目と手」はいうまでもなく、人間が持つ視覚と触覚をつかさどる2つの器官であるが、その間にも対話の関係は存在している。

人間が外部から得る情報のかなりの部分は、「視覚」によるものだと言われている。今、キーボードで文字を叩けているのも、視覚情報によるところが大きいし、この文章を読んでいるあなたもまた、その多くは「視覚」によって知覚しているだろう。とくに近代は「視覚」優先の時代と言われ、その理由のひとつは、近代が観察・制御する「観察者の空間」であることによる。つまり、視覚をエビデンスとして空間形成がなされ、そのなかで観察・制御が繰り返されることによって、近代のシステムが作り上げられているのだ。そして、そこから視覚文化の発展も生み出され続けている。たとえば、遠近法の認識形式が自然科学の認識形式と深く関わりあっているように、「知る」ことは、「みること」「観察すること」にどんどん近づいていった。

しかし「視覚」に特権を与え、その枠のなかで思考することだけでは、探し出すことのできない答えもあることは、容易に想像できる。視覚文化において影の部分になっているもの、「視覚の死角」になっているもの。けれども、そこに確実にあるもの。直感的にその見えないものの気配に気づいているなら、〈視覚の帝国〉が世界のすべてではないことを体感的に知っている。自分が求めている、探している答えが、その帝国のレイヤーからは見ることができないとき、その答えはまるで幻想世界の妖精のように、眺める角度をドラスティックに変えないとその影を見つけることすら叶わない。そこに、「視覚」とは違う別の器官が登場して、対話の空間が出現する。

「作品」と「出来事」は、複数の二重分節の上を踊りながら、その答えを「手探り」で探しだそうと、舞台の上で軽やかに踊り続けている。混じり合いながら、その境界線を無効化したり引き直したりし続けている。〈視覚の帝国〉において、視覚は盲目の潜在性なのだ。開き始めた空間においては、他の器官が視覚の手を引いて導いていく。幻視されるその姿は、太古の昔、生物界に起きたことの反転でもあるのかもしれない。

3. 「/」のなかに住まうもの

イタリアのフィレンツェという街のなかで、私たちにとって見慣れた、東洋人の姿を探し出すことはそんなに難しいことではない。たくさんの旅行者たちはもちろん、働いている移民たちの姿を、そこでは散見することができる。けれども、そんな異郷人が、日々、どんな体験をしていて、どんな思いを抱いて暮らしているのかを知っている現地の人間は、そう多くないのではないだろうか。

この街に流れている旋律とコードは、さまざまな背景がインプリントされた視線とともに、その直接的な姿かたちや声、匂いなどといった感覚器官が知覚しえる特徴に憑依した語りで、「他なるもの」を無意識に規定し、街の中に組み込み、ノイズを排除した専制的な音楽を奏でている。つまり、異郷人(私たち!)が放つその「言葉」の意味内容によって、心境が開示される機会はあまりないのだ。もともと街のなかで沈黙のなかにあった異郷人たちが、自らの声で、自らの体験や思いを語りだすとしたら、その場所には大きな摩擦がおこる。複数の音楽がそこに立ち現れ干渉しあい、お互いの感情が激しく揺さぶられることになり、その摩擦に耐えきれなくなる人もでるだろう。

日本でいえば、たとえば京都のような歴史の古い街では、「うち」と「そと」の扱いには大きな違いがあるもので、どこに住んでいるのかとか、この地で何代目なのかとか、そういった人に付随するというよりは、土地に付随する情報によって、その場の社会構造を生成・維持する、安定した秩序を形成する力学が働いている。これは世界中にある歴史の古い街ではよく見られることであり、また、力の大小はあれ、真新しい空間においても存在している力学だ。けれども一般的に、古い都に住んでいる人びとは、よそものからの秩序構造の決定権へのアクセスには、とても敏感にできていて、その地に関連付けされていない、ネットワーク化されていない「声」たちは、容易にかき消されうるし、上書きされ、別の意味が付与されることすらもある。

しかし、そのような無数の声が、今、この瞬間にも、あなたの住む街にも間違いなくささやかれ、響き渡っていること自体は、ほとんどの人びとが認めることだろう。その「声」のありかを探すことは、まるで妖精でも探すかのような、そんな身振りが必要となってくる。また、偶然に出会ったとしても、それを受容する作法のようなものが必要となってくる。しかも、その出会いの先に何が待ち受けているかのは、本当は誰にもわからない。そこには大きな飛躍が存在するが、ただそのさきには、新たな出会いだけが待っている。「/」のなかには、あらかじめその可能性だけが内包されて、何か飛躍しなければ届かないものを結びつける何者かが住まっている。

4. 共有の脱臼と孤独の色

すでに起きてしまったことを、再演すること、反復しようとすること、憑依し、またはされること。人格と思考・行動を規定してしまうような、トラウマ的な体験を原動力にしてしまうがごとく、観客たちの間に共通の物語を設定しようとし、何度も繰り返し、共有されることが放つ存在感。それによって、その出来事は受肉し、遥かなる復讐を誓う。克服可能なものとして、あるいはそのまま、克服不可能なものとして。それが古来より演劇の持っていた機能のひとつともいえるが、ある固有の体験を物語として共有する段階において、それが脱臼してしまうようなことがある。その脱臼によって、もともと個別的な経験が、さらに個別的な経験へと反復される、そんな瞬間がある。その瞬間において、作品の「」はゆっくりと消滅し、「出来事」そのものに姿を変えていく。

portBの高山明さんは、演劇の起源を「観客席」に読み取り、その可能性を拡張する方法として「ツアーパフォーマンス」というスタイルを採用してきたわけだが、その結果、作品中では、個別的な体験がその演劇体験の中心を占めるにもかかわらず、反対に非常に大きな枠組みの物語を観客の側に設定することに成功している。本作『目と手』は、いわゆるツアーパフォーマンスではないが、ただ、劇場ではなく公園という野外で上演されている点、「借景」を使用しているという点、そして、上演中に移動すると点では共通しているといえるだろう。つまり、劇場で行われる演劇とツアーパフォーマンスで行われる演劇の間にある、マージナルな作品だった、といえる。その結果、現れては消えていく「脱臼」そのものが、表現者が置かれた日常生活の内面性を、意図してか意図せずしてか再現されていたようにみえた。

そこで起きている「脱臼」は、間違いなく、私たちがこの世界のなかに住まうことの痛みの一部であり、同時に、連帯の可能性でもある、といえるかもしれない。しかしその連帯も、福音というよりもむしろ絶望への諦念という形をとっている。しかしその絶望のありかにも、「/」がうっすらと表象しているのを見落としてはならない。

5. 旅とドラゴン、あるいはその先にみえる風景

本作品で印象的だったことのひとつに、演者のふたりがスマホでの自撮りという行為がある。近年、旅をすることと自撮りすることの間には、強い関係が結ばれているようにみえる。もちろん昔から、旅先での自撮りは多く撮られていたが、スマホなどで手軽に写真が撮れるようになってから、さらに欲求と行為がダイレクトにつながり、まるで拡張された身体機能かのようになっている。旅で訪れた場所、出会った人々と、自分の間にある距離を縮め関係を確かめようとする行為。もはや自撮りという行為は、現代における旅の文化の一部となっているが、はたから見るとそれはいまだに不思議な行為のようにもみえてしまう。その不思議さは、どこから生まれるのだろうか。

その問いもまた、演劇における観客席の設定と響き合っている。自撮りでは、その撮り手が、スマホのカメラによって写真のレイアウトなどを設定する。つまり、舞台を設定するというわけだが、その時、設定された舞台の外部には、なんとなく不思議な空気が流れるのだ。これは、現実に見えている全体の範囲と舞台として切り分けられた範囲の違いに由来するもので、探しているものにフォーカスする視線と、距離を置いて眺めている視線、その絡まらなさによって引き起こされるシュールさだ。つまり、「旅」することには、常にある滑稽さが含まれているのだが、その滑稽さは、たとえばお猿の未熟児として生まれたという、原初の人間における姿のような、原初的人間の姿とも言える行為を、演者が観客席の人びとと共有すること。そこには、個別的な経験の象徴のような自撮りという行為を、集団的なものとして共有し拡張しようとするような、そんな試みが見て取れる。それは、妖精が住まう場所に誘う儀式のようでもある。そんなシチュエーションが、フィレンツェの公園で、ずっと遠くを見つめているドラゴンのイメージに重ねられる。東洋と西洋、そのどちらにも存在する幻想世界の生き物、ドラゴン。

静寂ともいえる時間のなかで空は青く、その視界をさえぎるものは何もない。もちろん、その空は、日本という地ともつながっていて、私たちがその五感を駆使してもみることのできない世界では、たくさんの想いが飛び交っているのかもしれない。言葉はそのみえないものの存在を微かに示すのみである。おそらくは、さまざまなかたちをした「喜び」や「哀しみ」、そして「怒り」や「痛み」といったものが空間を満たしている。そのなかで、私たちはその一部を受け取り、届いてしまったものにしたがって日々を暮らしている。けれども、届かなかったものに対して、私たちは、思惟することのできる存在でもあるのだ。届いてしまったものと届かなかったもの、その非対称的な二重文節の狭間に、神は(悪魔は)身を宿しているのかもしれない。

数を数えること、その鎮静効果は、無限に数えられるその先に超越的な存在(「神/悪魔」)を感じさせることに由来する、というと、それはあまりに観念的すぎると思うだろうか。ただいえることは、奇跡というものは、たしかに可能性として常にいつでもどこでも、そこに佇んでいる、ということだ。ただ姿を隠して待つものとしてのイマージュだけが、この世界の深いところを満たしている。そのなかをたゆたう私たちは、その一時的なパルス、波のようなもので、すべては最初からすでに許されていて、すべてはすでに祝福されている。そのことが、私たち人間が生きていくことの痛みの根源であり、また、癒しの根源でもある。そのなかに抱かれながら、誰もが踊り続けているのだ。

(了)

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