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人間不平等起源論 (光文社古典新訳文庫)
ジャン=ジャック ルソー
光文社
売り上げランキング: 96,947

※海外からでは、日本語の書籍の入手に限界があるので、これからは古典を多く読んでいこうと考えている。ひさびさの読む古典の数々はとても興味深い。自分の思想的な立ち位置みたいなものが明確になってくる。一冊のいくつかのパートに分解し、その所感をしたためていきたい。

まぁ、ビールなどを片手に読んだり書いたりしていると思うので、ここではあまり精度の高い文章にはならないと思いますが。

1、自然と人間とのあいだ

 「自然が人間のあいだに作りだした平等」と「人間が制度として作りだした不平等」。この2つの関係を考察すること、それがこの論の目的だと記されている。つまり、生物としては平等に作られているのに(ここでは、個々人の身体などの多様性については割愛する)、制度としては、人間は平等ではない、ということをいかに考察するか、ということが本論の目的だということだ。

 たしかに人間はその社会において、平等にはなっていない。権力というものが存在し、その強さのグラデーションのようなものも存在する。それはどのようなことに由来するのか。ここでは、為政者や人民がどのような関係にあるのか、大まかな見取り図のようなものが描かれている。そのような前提を設定することによって、この議論が始められているのだ。

2、間接民主制的な世界観

 ここでは、間接民主制の肯定のようなものも描かれている。社会を安定的に運営していく上で、直接民主制のようなものは多くの困難が生じることが示されている。この直接的ではなく間接的なものを肯定する理由は、その方が結果的に、人民の「自由」を守ることにつながると考えているからだ。直接民主制はむしろ独裁を招く、それぐらいの勢いでここでは間接民主制の優位性のようなものが記されている。つまり、人民は、常に正しい答えをマジョリティ化させるとは限らないのだ。そのときどきの状況において風潮は変化するし。

 もちろん、直接民主制というものは、昔から、ユートピア思想のひとつとしてあったと思う。ちょっと前だとバタイユとかのアセファルとかもそうだったよね。けれども、ある程度の規模になってくるとそれがなかなかうまくいかないことは、経験的に多くの人たちが理解するのではないだろうか。たとえば、TwitterなどのSNSが登場したばっかりのころには、直接民主制がこれが可能になるんじゃないかとかいうイメージも生まれたけれども。現状をみれば、そうでもないことは多くの人が賛同する意見なのではないだろうか。

 もちろん、現在の社会制度の多くが、人間の認知限界が規定するものであるのはたしかだし、テクノロジーの開発によって、その規定が拡張される可能性は十分にある。それが、ビッグデータとかAIの問題とも接続される点だ。けれども、現状においては、直接民主制というもののあやうさは多くの人たちが体験していることでもある。

3、「為政者」と「人民」の関係

 たとえば、アメリカの大統領選挙やイギリスのブレグジッドなども言ってみれば民主的な手続きを経たものであるわけで、その限界みたいなものも見え隠れしていることも確かだろう。だからって、独裁とかいうと、それもまた人類社会の歴史における逆行ともいえる。進歩的な歴史観を肯定するのならば。

 この『人間不平等起源論』では、そこに住む「人」のあり方が重要視されている。ここで定義されその義務を全うしようと考える人間たちが存在すること。それが、この間接民主制の肯定につながっている、というわけである。つまり、人間がつくりだした不平等をいかにして理論化するか、というもんだいなのだが、その行政区のなかにおいて、それぞれの立場にもとづくあり方というものが重要視されている。

 つまり、どちらかというと、まずそこに住む人民がいて、その内側からあふれるような「正しさ」のようなものが、不平等の起源になっているのだ。そしてそれは、すべての人びとにとっても「自由」を保証すること、それが目的となっている。つまり、「為政者」と「人民」がどのような関係を承諾するか、ということがとても重要なことなのだ。この前提が崩れ、制度だけを真似したとしても、それはまったく様相を異にする別物となるだろう。

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