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商店街はなぜ滅びるのか 社会・政治・経済史から探る再生の道 (光文社新書)

 久々にインパクトの強い新書を読んだ。地方出身者でもある私の実感ともシンクロするところが多く、今まで見てきた風景の形成されていく過程が論理的に頭の中に構築された感がある。今後、商店街というものを考えていくにあたって本書を無視して思考することは難しいのではないか。

 本書は「商店街」というものが一般的に考えられているような伝統的なものではなく、近代化の中で発明されたものであることを明らかにしている。以下、簡単に要約していく。

 

1、「商店街」の発明

 

 20世紀前半に生じた最大の社会変動は、農民層の減少と都市人口の急増であったが、都市流入者の多くは雇用者ではなく「生業」と称される零細自営業に移り変わっていった。その中で多かったのが資本をそれほど必要としない小売業。

 当時の零細小売商は、貧相な店舗や屋台での商いをしたり、あるいは店舗がなく行商をする者が多く、そのため、当時の日本社会の課題は零細規模の商売を営む人々を増やさないこと、零細小売りの人々を貧困化させないことだった。こうした課題を克服する中で生まれたのが「商店街」の理念だったのだ。

 要するに、20世紀初頭の都市化と流動化に対して、「よき地域」を作り上げるための方策として、商店街は発明されたのである。商店街には、近代社会においては例外的といっていいほど、一人一人の生活に根ざした形で新しいコミュニティを作り上げた実績がある。近代化という社会変動の中で生じたアノミー(無規制状態)を解決するものとして「商店街」という理念が生まれてきた。

 20世紀に入って、日本の百貨店が大衆の消費空間として花開き都市の消費空間を形作っていったが、その華々しさの裏には零細小売商との対立があった。その百貨店に対抗する意味でも商店街は存在していた。商店街は横に地を這う百貨店でもあるのだ。

 

2、「自営業者」がなぜこれほどまでに語られてこなかったのか

 

 近代化は農民層が分解し、都市へ移動することをメルクマールとしてきた。マルクス主義も産業化論も、社会経済的に立ち行かなくなった農民層が工業部門に吸収されるという図式がたてられた。社会学者のダニエル・ベルがいうように、マルクス主義の分析は製造業と農業という2つの生産分野を基礎としていた。

 それは農業者が分解して、生産手段の所有者である資本家とプロレタリアートの2つの階級が生まれるという図式だった。この図式に基づくならば、資本家とプロレタリアート以外のあらゆる《第三者》は除外されるはずだったが、実際には「農業者→雇用労働者」という単純な経路にはならなかった。無視できないほどの「第三者」ーその多くが零細小売商ーが発生したのだ。

 総じて言えることは、社会理論家たちにとって、零細小売商とは、非合理的かつ保守的であるとともに、その社会の「遅れ」を象徴する存在だったのだ。

 

3、日本型福祉社会における零細小売商や商店街

 

 オイルショック以降の日本型福祉社会論における「社会」とは企業と家族であり、そこに自営業や地域は含まれていない。それはサラリーマン男性と専業主婦のセットを前提として組み立てられた福祉モデルだったからだ。いってみれば、サラリーマン家庭以外の人々は、日本における例外的な層として位置づけられたのである。こうした1980年代の「日本型福祉論」が実際に制度として結実したのが、1985年(昭和60年)の年金改革。

 むろん、社会学者の上野千鶴子を代表とするフェミニストたちは、こうした男性中心の年功賃金/社会保障に反対した。だが、彼女たちの言説は、結果から見れば専業主婦の既得権を奪う方向には結びつかなかった。実践的には専業主婦の存在を直接に批判するというより、主婦のネットワーキング(「女縁」)論じることで男性サラリーマンの「社縁」にはない専業主婦の可能性を追求したしたのだ。そこには専業主婦の存在を否定することが、女性の分断を引き起こしかねないという政治的判断もあったのだろう。

 こうしたなか、終身雇用と専業主婦モデルにあてはまらない自営業のような家族は、いずれ衰退していく「前近代的家族」とされた。そして、フェミニズムをはじめとした「近代からの解放」をめざす新たな社会理論の中では、零細小売商や商店街のような対象は、見向きもされない対象となったのだ。

 1980年代以降の日本は、本来ならば個人化にそくして、家族ではなく個人を支援する政策をおこなうべきだった。だが、日本は企業福祉にたよった社会保障政策を以前よりも重視するという欧米社会の基準からすれば時代錯誤の選択を行った。

 

4、「商店街」という理念を再評価するために

 

 著者は「商店街」という理念を再評価し今後の地域社会のあり方を構想するために、社会学者の武川正吾の「規制国家」と「給付国家」の二分法に、「個人」と「地域」という軸を組み合わせて、4つの類型をたてている。

Ⅰ、「個人に対する給付」→公的扶助、社会保障、社会手当など
Ⅱ、「個人に対する規制」→労働基準法、派遣規制など
Ⅲ、「地域に対する規制」→ゾーニング、距離制限など
Ⅳ、「地域に対する給付」→公共事業、地方交付税など

 これらの給付と規制をバランスよくミックスすること。

 私たちがすべきことは、規制を悪者扱いするのではなく、既得権者の延命につながらない規制が何であるか、地域社会の自立につながる規制が何であるかを考察することなのだ。規制は業界の保護のために存在するのではない。地域で暮らす人々の生活を支え、かつ地域社会の繋がりを保証するために存在する。これまでの規制は、業界や一部経営者を利するだけになっていたため、その正当性がなくなってしまった。そのため、まずはこの点を変化させなくてはならない、としている。

 

5、今後の日本のかたちを考える資料として

 

 さて、本書を私なりにまとめると以上のようになった。

 現在、日本の地方の状態は都市部に居ては想像が難しいほど厳しいものとなっている。そのような状態の中で、何故そのような状況になったのかを歴史的に把握することは、今後、地方で様々な活動をすることを考えている人にとって一読の価値はあるのではないかと思われる。ここには問題点と共に可能性も示されているからだ。また、中央集権型から地方分権型へという議論もある中で、日本の今後のかたちを考える上でも参考になるかもしれない。

 

【中川康雄(なかがわ・やすお)】
文化批評。表象・メディア論、及びコミュニティ研究。
インディーズメディア「未来回路」主宰。
個人ブログ:http://insiderivers.com