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この記事の所要時間: 430

おおかみこどもの雨と雪 (角川文庫)

1.バラバラからの回復

 上映が始まってからすぐ、主人公・「花」の髪が風に揺れている様に心を奪われる。目に見えない空気という物質が流動し、登場人物の身体をなでていくそのシーンは、僕たちの住むこの世界と映画の作品世界との間にある断絶を、一気に縮めていくような感覚をもたらした。

 風は直接的に目で見ることが出来ない。見るためには何らかの媒体を必要とする。しかし、そこに確かに存在し、僕たちとまるで隔絶しているかのようにも見える物質との間を、柔軟に形を変化させながら埋めているのだ。目に見えるものと見えないものが響き合い、互いの存在を際立たせるように表象する。

 僕たちが住むこの世界は、一見バラバラなものの集積のようでも、完全なる切断がどこかにあるわけではなく、すべてが緩やかに繋がり合っている。ただその繋がりは時として目に見えない。だからこそバラバラであるように「錯覚」してしまうのだ。その「錯覚」を映画、アニメ、フィクションの手法によって丹念に埋めていく作業は、アニメ映画というメディアから僕たちが住むこの世界へ向けてのラブレターを書くようなものなのかもしれない。

 繋がりを感じ取り、形を与え、全体性を蘇生させることは、日本社会の中では震災前から隠れたテーマであった。震災後、さらにその重要性は全面化しているようにも思える。そのことに技術的な側面からも応答している、そのようにも僕の目には映った。

 作品中、ながまわしのカメラワークが印象的だが、その手法においても作品世界の空間の広がりを観るものに強く印象付ける。世界が持続していること、バラバラに打ち砕かれた断片の集積ではないこと。ここでも作品世界を私たちの世界と接続する技術をみることができるだろう。

 風の描き方、そして、空間の広がりや持続。そこにはアニメ映画という媒体を通じて、「この世界を肯定するための手法」がある。

 

2.ゆらぎ、うつろいゆくものの中で発見される「芯」

 

 移り変わる季節、人の心情、予期せぬ出来事の発生。様々な事象が風や音楽のように変化していく中で、それでも多くの選択の中で発見される「芯」のようなもの。

 「花」は夫になる「おおかみおとこ」の秘密を受け入れた時に、その「芯」のようなものを自らの人生に受肉化する通過儀礼を経験したのではないだろうか。その「芯」は、はじめおぼろげであったかもしれない。けれども、他者の特異性を受容することがその「芯」を強くする。もちろんそれは一種の負荷も背負うことになる。けれどもその負荷こそ、条件の集積ではなく唯一性の受容でもあるのだ。その受容は鏡のように自分自身にも転写される。また、次世代へも受け継がれていく。子どもたちへの愛し方、接し方として強く継承されるていくのだ。

 「愛して手放す」。「花」は子どもたちが、人間とオオカミ、どちらの道にもすすめるように都会から田舎にも引っ越す。親が出来ることは、子どもの可能性が充分に開花できるように環境を設定すること。そして、それぞれの成長をサポートすること。その結果、どのような選択を取るのかについては子どもたち自身に委ねられている。徹底して思い通りにはならない世界を受容すること、と同時にしなやかな強さも決して手放さない。

 確かに、その中でも揺らぎは存在するだろう。「雨」がオオカミの住む世界へと向かうときの「花」の苦悩もそうだ。けれども、その苦悩は、自らの内に拘束する、というようなものではない。そうではなく、「まだあなたに何もしてあげられていない」という台詞に現れているように、自らが親や「おおかみおとこ」から受けたものを子どもにまだ充分に伝え切れていない、という思いの現れとしての吐露なのだ。もちろん、そこには一元的ではない様々な感情の動きがあるだろう。けれども、その複雑な心の動きも自分の「愛し方」によって他者への言動が統制される。

 

3.この世界を肯定し、しなやかに能動的に生きていくために

 

 本作品にはジブリの作品群からの引用が多くみられるという指摘がある。そのことは確かだが、ジブリの方法論、歴史を引き継ぎながらさらにその先へと向かうことが目指されている、というところが重要な点だ。アニメ映画という媒介を通じて、この世界の全体性を新たに構築すること。そのための技術が継承されているのだ。

 「21世紀はドゥルーズの時代である」、と言ったのはフーコーであったが、オイディプスのトライアングルの外に出ることを志向することはもはや有効ではないだろう。もし、そのような人間関係のあり方、社会の最小単位を更新していくとしたら、そのために必要なのは「家族」のあり方の更新なのかもしれない。そこを避け続けることは、むしろ強く既存の家族像に絡め取られている状態である可能性すらある。

 「いまここ」を再構築していくこと。「家族」の概念を更新していくこと、善き連鎖を生み出す新たなモデルを提案すること。それが本作品の社会的な機能のひとつともいえるのではないだろうか。

【中川康雄(なかがわ・やすお)】
文化批評。表象・メディア論、及びコミュニティ研究。
インディーズメディア「未来回路」主宰。
個人ブログ:http://insiderivers.com

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