「人間は、役者をもってなお〈タイガー・リリィ〉にはなりきれないのかもしれない。」、『へルタースケルター』(岡崎 京子 著) 評者:慶野 結香

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ヘルタースケルター (Feelコミックス)

 爪にコンプレックスがある。

 マニュキアを塗っても、爪が弱く柔らかいため、すぐ取れてしまう。伸ばそうとしても、いつも途中で折れるか、表面が剥がれてしまう。もし、私が「りりこ」のような全身整形手術を受けたとしても、りりこは「ママ」曰く、「もとのままのもんは骨と目ん玉と爪と髪と耳とアソコぐらいなもん」なのだから、爪のコンプレックスは残るはずだ。

 しかし、別の整形方法なら、爪も取り替え可能なのかもしれない。そう思わせてしまう技術の際限ない発展可能性と、自分に手を加えたいという欲望と、手を加えれば何とかなるだろうという希望が、この世界には渦巻いている。その欲望は、己の美に対してだけに止まることがない。ただ、私は普段、爪のことなど気にも留めずに生きている。しかし、友だちのジェルネイルが煌めいたりする日常生活のふとした瞬間に、爪のコンプレックスは少しだけ熱量を帯びる。心の片隅では、どんなマニキュアを買っても剥がれることや、ジェルが自爪に合わないことは分かっているつもりでも、熱量に突き動かされて、新商品を買ったりしてみる。

 2003年に、岡崎京子の『ヘルタースケルター』を初めて読んだ。当時中学二年生になったばかりの私は、まだ知らない世界の、見てはいけない部分を見てしまったように思い、ある種の気まずさを感じたと記憶している。それから約十年経った2012年、今度は蜷川実花が監督した、映画「ヘルタースケルター」を見た。127分もの時間を感じさせない軽やかさが印象に残るとともに、俳優の演技に一種の恥ずかしさを感じた。それは、ある種の演出を加えられながらも、その俳優自身として蜷川実花の写真に写っていた人たちが、『ヘルタースケルター』の世界の中で役を与えられ、演技をしていたから。つまり、雑誌やテレビなどのマスメディアを通して、知っているかのように思っている人々が、「蜷川実花」という既知のフォトグラファーの世界観の中で、コスチュームプレイをしているようにしか感じられなかったからだろう。

 また、原作漫画と映画の違いは、最も象徴的なシーンに如実に表れていたように思われる。それは、りりこの全身整形が、マネージャーの羽田によってマスコミにリークされ、りりこ一人で記者会見を行うシーン。会見を取材する人々の顔が描かれ、混乱の様相を示す会場とりりこの冷静さを対比的に描いた原作に対して、映画では、顔の分からない人々が、ただフラッシュを焚き続ける。後者におけるりりこは、物語の文脈を取り去ってしまえば、一人の女の子としての純真さを表しているように見えた。監督によって作られた世界でりりこという役を与えられた沢尻エリカは、りりこが初めて自らの顔に傷を見つけた時や、テレビのトーク番組出演中に倒れた時のような熱量をここでは発揮しない。しかし、原作のりりこのテンションは、恐ろしいほど一定で、冷静に見えて底知れない熱量を帯びているかのようだ。生きることは時に複雑で、一定のテンションを保ちながら呼吸を続けることは難しい。人間は、役者をもってなお「タイガー・リリィ」にはなりきれないのかもしれない。

【慶野 結香(けいの ゆか)】
人文情報系大学院生。1989年東京都生まれ、神奈川県出身。専門は20世紀美術。現在の研究テーマは、ニューヨーク・ダダを中心とした1920年代アメリカの展覧会史。2012年度の「東京大学制作展」では、全体のプロデュースや、メディアアート作品の制作を行なっています→http://www.iiiexhibition.com/

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