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この記事の所要時間: 351

ヘルタースケルター (Feelコミックス)

褒めるべきか、貶すべきか。
最初に一言、反発すればするほど、この漫画家の意図に私たちは乗せられている。

 岡崎京子の漫画を好きという人間は多い。少なくとも私の周りにはそういう人間がいる。でも私はどこがいいのか分からない。絵もコマ割りも全く上手く無い。台詞だって粗暴だし、キャラクターは派手にキレてばかり。岡崎京子は常日頃、「いつでもひとりの女の子を描きたい、どこにでもいる、女の子を」と言っている、と、どこかの記事で読んだことがあるけれど、思うに、その趣味は偏りすぎている。描きやすいのは分かるけれど、そこでそのまま取り上げるので捻りが無い。少し深みのあるキャラクターを描こうとすると、きちんと掘り下げられなくて、曖昧で意味の分からない登場人物に成り下がってしまう。しかも、取り上げるネタは、感覚的にだけれど、もう、ダサい。ダサい上に、きっちり作られていないものだから、登場人物のぶっ飛び加減に輪をかけて作品のリアリティは欠けていって、いや、欠けるというよりはもはや塵程の現実感もないというほうが正しくて、例えばこの作品でいえば「もとのままのもんは 骨と目ん玉と爪と髪と耳とアソコぐらいなもんでね あとは全部つくりもんなのさ」の製作過程がどういった工事を行っているのかの描写が大変薄いものだから、主人公がぶっ壊れる原因であろう、全身整形の副作用を抑える為に使う薬を、いつまでも人体に馴染まない、これまた謎の人工物との拒絶反応と痛みを抑えるべく、抗生物質と鎮痛剤と、後はトランキライザー、ホルモン剤とかその辺りだろうか、きっと街で出回っているクスリなんかも混じっているのだろうけれど、などと脳内補完して、ああ彼女を苦しめるものは、正体のない心というものなのか、帰属感の欠片も無いその体なのか、と考えを巡らせるしかない。ちなみに、そのどちらもが原因だとして、その苦しみすら読者の身にリアルに引き寄せられない架空の苦痛止まり。世俗的な問題を扱う割に、その取材が足りないというか、イメージで力任せに描いてしまっているように読めるのだ。もしかしたらコアの部分に必要ないから、と、作画諸共、切り捨てているのかもしれないが、しかし、そういう作品を、誰が正しく読めるだろうか?
 で、映画化された訳である。これまた作品と同じように、悪趣味で一本調子な監督と、分かりやすく問題児な主演女優、その周囲にはインモラルばかりを連想させる役者がちりばめられ、ちぐはぐな音楽を鳴らし、もう、まさにしっちゃかめっちゃか、である。インパクトは確かにあった。が、映画を観ることで、少しはこの作品を描き手がどう読んで欲しかったのかを掴めるかと思ったけれど、監督のいいオモチャでしかなかった。ああでも、個人的に、主演女優のセラミックのようなおでこは良かったな。でもそれ位で他は駄目。

 と、褒めることもなく、ここまで猛烈に駄作扱いで書いてきたけれど、実は、映画は劇場までわざわざ電車に乗って観に行ったし、岡崎京子の漫画は殆ど所持している。『ヘルタースケルター』に至っては、実家と今借りている部屋に一冊ずつある。何故だ。駄作に何故私はこんなに投資しているのだ! と憤慨して、はたと気付く。私は、期待しているのではないだろうか、と。
 ぶっ飛んだ主人公は、ほぼ間違いなく一度破綻する。『ヘルタースケルター』の主人公もそうだ。破綻し、けれど不敵にどこかで笑い続けている。苦しみを超えたところで、栄華を極めるその時と同じように。私は岡崎京子の作品の流れに、この異常なぶっ飛び感を期待しているのではないか。雑でダサいこの漫画が、いつか化けるのではないか、主人公のように行き着くところまでいって、想像出来ないところで物凄いものになってしまうのではないか? 岡崎京子の恐ろしさはここだ。もはやちっぽけな批判を超えたところに存在する名作を、期待させ続ける力だ。

 主人公の時間の流れは、岡崎京子の作品の歴史そのものだ。私は、りりこの最後の笑みに魅せられている。透明なものを作品の芯に据え置くこの漫画家の意図に、私たちは恐ろしくも、乗せられている。

【北原しずく(きたはら・しずく)】
東京女子大学現代文化学部卒。20代独身メス負けそう組。広告会社を皮切りに、ころころ職を変え続け、現在は毛糸業界に身を潜める一方で、金の稼げない物書き業を営む。エログロ純文学万歳。人生に素敵な出会いが多いのが自慢。好きなものは、90年代アニメーション、説教系女性コミック、馬鹿映画と雰囲気映画、感じの良い殿方、感じの悪い御婦人。あと納豆。一日1パックはかたい。甘めの攻めでお願いします。

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