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Design Festa Gallery - 原宿

 

 2012年12月22日、ラフォーレ原宿にて行われたDOMMUNEの公開オーディション「HARAJUKU PERFORMANCE+DOMMUNE」を観てきた。ネット配信を前提としたオーディションであるからだろうが、6組の出演者の多くはその場に居合わせることに必然性はないようにも思われた。けれどもその中で、その場に居合わせることによってしか感じ取れない何かを発していた人物がいた。コンテンポラリー・ダンサーの川村美紀子さんだ。

 言語でもなく、音楽でもなく、絵画でもなく、身体でしか表現できないもの。最近、それぞれの表現媒体による可能性とか限界の話は、知的遊戯の域を出ないという印象を持っていたので、自分がこのような思考を走らせられていることをちょっとした驚きを持って迎えている。何か私の中でそんな陳腐ともいえる思考を走らせる必然性が生まれてしまったのだ。そしてそこにはやはり何かある。私が摂取したいと思う何か。その何かは私以外の人にも共有している部分かもしれないと思い、ここにしたためている。けれども結局は、辿り着くのはとても常識的な場所なのかもしれない。

 感じているものを表現する時、私たちにはたくさんの選択肢が与えられている。言語、美術、音楽。今は情報技術の発達によって、その表現を多くの人たちと共有するのも可能だ。そして、それぞれのメディアが固有特徴を持ち得るとすれば、その選択自体がメッセージを含んでいることを発見できるはずだ。言い換えるなら、それぞれのメディアに社会的な場所が付与されている。

 例えば、主な表現として文字を選択すると時間的な遅れが生じる。もちろん、この特徴はデメリットばかりでなくメリットもある。遅れによって可能になる表現や機能もあるからだ。けれども、文字による表現は、多くの成立過程が折り重なって成立している。そこには複数の時間が存在しているのだ。さらに、その書かれたものがいつどこで読まれるのか、その外的要因も強くその意味内容に影響を与えるだろう。それに文字のバックグラウンドである言語体系は、後天的に学習され社会的に構成されるものでもある。言語学者のノーム・チョムスキーが示した生成文法のように、言語を支配している普遍文法は存在するが、言語自体は無限といってもいいほど存在しえる。つまり、物質性に強く依存しなくても成立しえる表現方法なのだ。その分、自由度も高い。もちろん、紙や電子などの媒介は必要だが、その媒介は可視化できるのであれば、その定着する場所は選ばない。とにかく読める状態であればよいのだ。読めないことによる表現もまたあるだろうが、ここではその話は割愛させていただく。

 文字の集積よりも速く表現しようとする時、まず思いつくのは音楽という選択肢だろう。この音楽という表現方法は、物体性が比較的低い。もちろん基本的には、音は空気という物質を振動させることによって成立しているわけだが、音楽が人間の脳内において音楽足り得る時、抽象化の作業が介入する。音と音とを関係を構築する作業が存在する。それはまるで、星と星とをつないで、星座を作るように。そういった意味では物質自体の主張とはちょっと異なるのだ。もちろん、ここでも様々な異論があることは知っている。モノとしての音楽それも可能だろう。けれども、ここではメディアとしてプリミティブな特徴を前提として話を進めていく。

 さて、身体表現についてはどうだろうか。ダンスの持つ表現はその物体性に強く寄っている。確かにその身体を私たちが確認する時、光の反射を通じてはじめて、その存在を、その動きを、感じる取ることができる。けれども、音楽の場合、物質である空気の振動自体はつなぐための経過だが、ダンスの場合、物質自体が表現そのものなのだ。光の反射はそれを伝えるために存在している。この人間という物体自体、それが身体表現の特性なのだ。そして、この特性からすべての存在は逃れることができない。それは多様性の基盤に存在する特性なのだ。

 川村さんのダンスの中でそのダンスがダンスであらねばならないということが強く印象として残ったシーンがある。全体の構成としては、まず、激しめのクラブミュージックを使用した強弱合わせた半裸でのダンスがあり、その後、2曲ほど川村さんの自作の歌が披露された。その時に、川村さんは歌詞カードらしき紙を手に歌っていたのだが、その紙と川村さんの身体との関係に目を奪われた。

 まず、自作なのに歌詞カードを見て歌っている、というところに「ハッ」とした。これは、私自身にも経験があることなのだが、「自作だからこそ歌詞を見なくてはならない」、ということがあるのだ。何故かというと、自らの内部から生み出し可視化したものを私たちは直視することに抵抗があるからだ。それは見たくもない現実としても存在している。私たちの脳はみたくないものはみないようにする性質がある、という。つまり、可視化した自らの頭の中身を記憶などしたくないのだ。ここに見たくもない現実の恥ずかしさとそれを読み上げなければならないという葛藤が表象する。

 さらに、歌のサビのところで手拍子を加えるシーンがあったのだが、その時に手と手が重なり音を発するか発しないかという瞬間、その歌詞カードとおぼしき紙切れが持っている反対の手にあたり、「カサッ」と小さな音を立てる瞬間があった。私の記憶が確かならば、それは1回だけ音を立てた。それ以外の時は、意識的にか無意識的にか、手拍子の時に紙切れが反対の手に当たって「カサッ」と音を立てることを避けているように見えた。そこに、人間という物質と紙切れという物質の間にある関係を鮮やかに浮き彫りにする表現を確認したのである。このシーンは、歌でありながら明らかにダンスであった。前半部分の激しいダンスとこの後半部分の歌という構成は、川村さんとこの紙切れとの関係を鮮明にするように機能していた。

 参考までに、「横浜ダンスコレクションEX2011 コンペティションⅡ」で最優秀新人賞を受賞した「へびの心臓」という作品の動画を紹介しておきたいと思う。

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【中川康雄(なかがわ・やすお)】
文化批評。表象・メディア論、及びコミュニティ研究。
インディーズメディア「未来回路」主宰。
時々、自宅ブックカフェやってます。
Twitter:insiderivers
個人ブログ:http://insiderivers.com

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