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1. 制約とフィクション

 

私は何を書いているのだろう。
私はいったい何が言いたいのか。
私の書いていることが、わかるか?
私の考えていることは、伝わっているだろうか。
私はこんなことを書くつもりではなかったのに。
私は

(p.325)

本書は雑誌の連載をひとつにまとめる形で成立している。そして、著者は連載を始めるにあたって、いくつかの制約と課題を設定したという。それは以下の4つだ。

①基本的に「文学」のことは書かない。
②時評としての性格を出来る限り維持すること。
③毎回、書評や文体を出来る限り変えること。
④全体を貫くモチーフとして、「時空間」を召還すること。

そして連載が終わったあと、こう振り返る。「これはすべて『文学』の話でもあったのではないか」、「いま自分が書いているものが、限りなく一種の『フィクション=虚構』に近づいているのではないか。」、「ほとんど『小説』に似たものになりつつあるのではないか」、と。

ここで浮かび上がってくる問い。それは、最初に課された制約と課題をひとつの源として生まれている印象を受けた。なぜならば、著者の佐々木敦さんは「文学」に関して何事かを書きたいと欲求しているし、時代の空気に乗る形で文章を書くことにそんなに執着していないし、自らの文体を一元的に統制したいという欲求も持っているのではないかと思われるから。

つまり、自分の欲求と異なった形の欲求を満たすように書いていく、という行為自体がフィクション性、もっといえば演劇性を強く帯びているのだ。だから、上手く書ければ書けるほど「小説」に近づいていく。もちろん、元の欲求と自ら設定した欲求、その2つの欲求は、次第に文章の中でお互い干渉し合い、どちらがオリジナルか見分けがつかなくなっていくのだけれども、そこにフィクション性が立ち現れるとするならば、書き手の持っている欲求の変化に対して無意識的なある種の「倫理」が作用しているからではないだろうか。しかし、佐々木さんにとって、おそらくはその「倫理」はそれほど重要なものではない。けれどもどうしても気になってしまう、そんな種の「倫理」なのだ。

と同時にその「倫理」は、本書で何度か言及されている「芸術」の最後の「敵」にも転じるのかもしれない。本書の中で、「『美』こそは『芸術』の最後の敵」、と語られるシーンがある。そして、「芸術はそもそも美とは無関係」、とも。無意識的な「倫理」と「美」。この2つの概念が無関係でないように思うのは私だけだろうか。

 

2. 2つの生態系と外国語のように書かれること

 

書かないことで書き示すこと。それは法を施行され輪郭を形成される社会のように、内部と外部を入れ子状にしながら形成していく。書かれたものと書かれなかったもの。この2つはそれぞれの個別のシステムを構築するが、分ちがたく結びつき合っている。物事を書き表す時、同時に書き表さなかったことが同時に生成される。何かを書くということは2つの生態系を作る、ということでもあるのだ。書かれたものにおける価値体系は同時に非価値体系をも生み出す。

もし、価値の発生によるそのヒエラルキーの表象を避けるのであれば、ふたつの生態系の性質を同一のものにすればよい。つまり、それは詩として書かれるものだ。詩を書くことは、言葉を言葉以外のものに馴染ませる試みでもあるのだから。

佐々木さんが本書を紡いでいく中で、「フィクション=虚構」、「小説」に近づいていると感じたのは、その書かれなかった世界に対するシンパシーがその源泉のひとつにあるのかもしれない。それは可能世界に対する態度でもある。書かれたものと書かれなかったもの、いうなれば物質と反物質のような関係を生成する時、私たちが読まれるという行為を豊かにする可能性があるのは、それを外国語のように書くことだ。それこそが「文学」なのではないか。

 

3. 批評の使命について

 

佐々木さんは本書で、批評の使命とは「世界」と「人間」との相関を増幅することである、としている。

さまざまな人や作品に出会い、そして、まだ意識にも立ち現れてなかったり、言語というかたちを取るまでにならないものを可視化して、「世界」とつなげ、別の人びとにも共有できる形にしたてること。それが批評の役割なのだろう。もちろん、定義は様々であるが、人間の意識の中ではバラバラになって気付かれていないような「世界」のかけらを読み手の中で再度接続し直すこと。もしくはないはずであった関係を生成すること。それが批評が「人間」と「世界」との間で行うことのひとつなのだ。

ここでおそらく重要なのは、つなげる先が「社会」ではなく「世界」であることだろう。もしこれが「社会」の方に繋げるのであれば、ジャーナリズムに接近していく。けれども、佐々木さんの関心事は常に「世界」の方にある。もちろん、それは「社会」をないがしろにしているというわけではない。実際、「社会」の中での生存戦略を重視しているし、社会的な事象への言及も多い。

思考の前提に「世界」があることがよく現れているのは、著者が何かを言い当てることに対する執着をあまり持っていないことにも現れている。「社会」の中での予言めいたものにあまり関心がないのだ。なぜならば、「社会」がどうであろうとも、「世界」は常に何も変わらずそこにあるのだから。

本書によって、佐々木敦という書き手の思想の輪郭を垣間見た気がした。

【中川康雄(なかがわ・やすお)】
文化批評。表象・メディア論、及びコミュニティ研究。
インディーズメディア「未来回路」主宰。
Twitter:insiderivers
個人ブログ:http://insiderivers.com