「料理して食べるということ」、『cook』(坂口恭平 著)

この記事の所要時間: 214

cook

 各地を転々と旅しているとき、それぞれの場所での滞在期間はそれほど長くないし、現地の会社との取引もほとんどないデジタルノマドだったので、現地での人間関係はそれほど深められない、という自覚があった(個人的なコミュニケーション能力にも起因しているものではあるが)。それでなにか、まるで自分が、現地社会との明確な接点を持たない幽霊のような存在であるような感覚におちいることもある。

 そんな生活のなか、自分と滞在先の社会との結び付きを実感できるのは、買い物をしているときや食事をしているときだ。

 当たり前のように言葉を交わし意思を伝え、置いてある商品やオーダーした料理と向き合う。それらの構成要素のひとつひとつに、たとえば料理ならば、野菜や肉、米などの食材が、どこでどんなふうに作られて、どんなふうに運ばれてきて、どんなふうに取り引きされたのだろうかとか、それぞれの食材や料理にはどんな歴史があるのだろうとか、そんなことに思いを巡らしていた。

 ほぼ外食が中心だった私の食生活のなかで、お店での料理と出会いやそれを食することは、特別な時間となっていった。

 料理がすぐに消えてしまう砂曼荼羅のように見えてきたり、食事のたびに料理を写真におさめてみたり、いつのまにかグルメ系サイトでのライター仕事も増えたりもしていた。私にとって料理を食べることは、かろうじて私と現地社会をつないでいる紐帯のようなものであったのだ。社会的・歴史的な存在であり、それっきりの表現でもある料理を自分の体内に取り込む。そして、自分の一部にする。

 それは自分が現地社会と関係を結ぶ、具体的で自覚的な方法となっていたのだ。

 海外暮らしの、とくに一人暮らしの人にその傾向があるが、はじめのうちは外食で好きなものを食べていても、グルメな人であればあるほど、いつのまにか現地で自炊するようになっていく。けっきょく、自分が一番食べたいものは、自分で作ったほうが手っ取り早い、ということなのだろう。そして、未だに人の作った料理に頼っている私はまだまだだな、とも。しかし、まだ飽きないのだから、これを徹底してみようとも思っていた。

 そして現在、やはり自分のなかに料理をつくる欲求というのが、ゆっくりと立ち上がってきていることを感じることができる。そんな欲求に向き合うことが、最近では日課のようになっている。本書はそんな欲求の輪郭をはっきりと浮き上がらせてくれる。

cook
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坂口 恭平
晶文社
売り上げランキング: 2,369

「中南米を旅する日本人で、知らない人はほとんどいない」、『グアテマラの弟』(片桐はいり 著)

この記事の所要時間: 37
グアテマラの弟 (幻冬舎文庫)
片桐 はいり
幻冬舎 (2011-02-09)
売り上げランキング: 6,697

 他人と場所の記憶を共有すると、急にその相手との距離が近くなった気がする。人は意思疎通をする場合、お互いの共通項に基づいてコミュニケーションをするわけだが、その共通項が多いければ多いほど、それが感情移入されたものであればあるほど、その親しみの感情は増幅されていく。そしてそれはある種のコミュニティ意識のように、継続していくものだ。

 本書の著者である俳優の片桐はいりさん、その弟は、グアテマラのアンティグアで、現在もスペイン語学校を営んでいる。そのことを知ったのはそんなにも昔ではなかったが、私がこのアンティグアという街に訪れてから、著者の存在がとても身近のように感じられるようになった。もちろん面識はないのだが、日本からアンティグアに来たという経験の共有が、眼前にみえる風景を著者も見たのであろうという想像が、その共感体験を作り出すわけだ。

 もともと言葉による伝達には、そのような機能がある。つまり言葉とは、それを使用する共同体のなかで共有されるものだが、それと同時に別々の体験を結びつける役割もあるのだ。その文章の舞台が、自分自身が身を置いた場所であるならば、そのシンパシーは大きなものとなる。

 本作品は、家族との関係やその間のやりとりがその内容の中心でありながら、まるで旅行エッセイのようなテイストも強くでている。そのためもあるのだろう。この作品は、中南米を訪れる旅人の間でかなり有名で、知らない人がいないくらいの定番のネタのようなものにもなっているのだ。きっと、この作品をきっかけにして、アンティグアにある弟さんのスペイン語学校に通うことになった人も多いことだろう。

 グアテマラはスペイン語学習のメッカのようなところだ。その理由は、まず授業料が格安だということ、また、中米からはいり南米を抜けていく旅人なら、スペイン語がわかるかどうかということは大きな問題でもあるから。なぜならこの地域は、多くの日本人が第2言語としてる英語という言語を話すことができる人びとが、ほかのアジアやアフリカなどに比べてかなり少ないからだ。つまりスペイン語を学ばなければ、満足に旅もできないエリア、それが中南米というところなのだ。だから、多くの旅人は物価の安いグアテマラでスペイン語を習っていく。とくにアンティグアは街自体が世界遺産に登録されているほど趣深い街なので、はまる人はハマってしまう。なかには著者の弟さんのように定住する人も現れてくる。

 そのようなこともあり、片桐はいりさんのグアテマラを訪問した日本人たちの間での知名度は、ずば抜けている。まるで、海外に定住を決めた日本人の家族を持つものの代表的な存在となっている。生まれ育った日本とは違う場所で生きていくことを選択した人たち、その家族としての眼差しが本書にはまるで古典のような普遍的な様相を湛えながら満ち満ちている。戸惑いから歓待、そして理解へと関係は形を変えながらつながっていく。時は流れ、すべては変わっていくものだけれども、だからこそ、家族たちの結びつきがここで際立ってくるのである。国をまたいでいるからこそ浮き上がる普遍性のようなものを感じずにはいられない。読んでみて驚くほどの名作エッセイだ。

(了)

グアテマラの弟 (幻冬舎文庫)
片桐 はいり
幻冬舎 (2011-02-09)
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「生き物という存在へのプリミティブな賛歌」、『野宿野郎 6号+7号』(かとうちあき 野宿野郎 編集部)

この記事の所要時間: 225
野宿野郎 6号+7号: 人生をより低迷させる旅コミ誌 (野宿野郎デジタル)
野宿野郎出版 (2017-01-25)
売り上げランキング: 5,617

野宿をすると、人間のもつプリミティブな感覚を呼び覚まされるような気がする。その理由は、建物のなかで睡眠をとるということが、あまりに当たり前のことになっているからだ。この地球上で暮している生物は、さまざまな巣を持っているが、人間ほど建築物のなかで眠ることに固執している生物は、そんなにもいないのではないだろうか。

野宿をすることは、そんなこの私たちの住む世界を別の視点からみてみることにもなる。それは先入観からの解放にもつながって、人間はどこにでも寝ることができるんだ、という肯定感もそこには生まれてくるのだ。それは、生きていることへの賛歌のようなものでもある。

「ヒトは建物のなかで眠るもの」という先入観は、なんとしても寝るための空間を手にいれることを多くの人間たちに強いる。それが生きづらさを形作る要因のひとつにもなっているし、そのために、私たちは日々働いているともいえるし、それが経済活動の原動力のひとつでもあるわけだ。しかし、そのような脅迫観念のようなものも、じつはそれほど絶対的なものではないことを野宿は教えてくれる。

だがそれと同時に、野宿のもつ快楽というものがあることをこの雑誌は伝えてくれている。野宿には野宿自体がもつ快楽というものが存在しているのだ。

今回の特集(のようなもの)は「トイレ野宿」。基本的に公衆トイレは建物なので、厳密な意味では野宿ではないが、一般的に寝ない場所で寝るという点においては一貫している。雨風を防ぐという点においては、非常に合理的な野宿のスタイルでもある。トイレという場所と寝る場所というものの間に横たわる距離が、私たちにドラスティックな意識の転換を迫ってくる。公衆トイレを宿泊施設として使うことは、私たちにさまざまな感情を引き起こす。衛生観念が揺さぶられ、私たちのもっている世界のゲシュタルトが変化していく。

本誌のキャッチコピーは「人生をより低迷させる旅コミ誌」。もうすでに低迷してしまっている人も、今から低迷する予定の人も、一見しておく価値があるだろう。これがKindleで読める時代になったことを嬉しく思えた。実際、世界には野宿をする人で溢れている。野宿という観点で世界を眺めることには、私たちに新たな世界観を提供してくれるだろう。

(了)

野宿野郎 6号+7号: 人生をより低迷させる旅コミ誌 (野宿野郎デジタル)
野宿野郎出版 (2017-01-25)
売り上げランキング: 5,617

「もしここが消費だけの世界なら」、『シャンデリア』(川上未映子 著)

この記事の所要時間: 221
シャンデリア (Kindle Single)
(2017-01-11)
売り上げランキング: 37

 「お金」を持つことによって、別の世界が見えてくるということがこの世の中にはある。いわゆる社会問題と政治の現場の噛み合わなさみたいなものも、そんなお金の有無によるリアリティの変化みたいなものが絡んでいることが多いし、そうでなくても、人が生きていく上での選択肢の幅というものが大きく変わってくることを否定することはなかなかできるものではないだろう。そのお金にしても、本人の努力とは別のところで、たとえば、生まれ落ちた場所や家庭、タイミングなどで、埋めがたい違いのようなものが、それぞれの人びとのなかにどうしようもない違いのようなものとしてそこに横たわっている。それはある種のフェアさを損なってしまうものだし、極端すぎる不公平は何らかの爆発を起こしてしまうというリスクもあるわけだし、また、同じ人間があまりに辛そうな状態におかれている姿を私たちは直視することが難しいとか、そういったこともあってそれぞれの持つ記号の「シミュラークル」のなかに閉じていってしまう。

 それはコミュニケーションのコストとかそういった負荷の少ないほうに流れていくことでもあり、それがゾーニングというものなのだけれども、ある2つの別のシミュラークルを移動したときに、それがひどく違和感のあるもののようにみえてしまうことです。この生活空間の移動のようなものが、ある種の「文学的」な表現というものを作り出していくエッセンスのひとつとなる。つまりなんというか、ある空間のなかで異なる言語、コードによって思考を綴り出すのだ。そういった移動が異郷の言葉として機能する。そしてそこには、さまざまな摩擦や感情が織りなされるのだ。それはときとして、涙にも変わるだろう。しかしそれも、異なるシミュラークルの間の移動のさいには昇華として機能する。そしてそこに立ち会われるのは、世界の多重性とそれをひとつ統合して現れる豊かな登場人物の世界なのである。それと同時に、そこにある世界すべてが新しく生まれ変わっているのだ。

 頭上に輝くシャンデリアは、もし落下してくれば人を致命的に傷つける存在でもある。私たちの多くは今、そのシャンデリアの下で踊っているのだし、それがいつ落ちてくるのかはわからない。そんなフラジャイルなあやうい美しさのなかで、私たちはそれを眺めているのだ。

(了)

シャンデリア (Kindle Single)
(2017-01-11)
売り上げランキング: 37

「幸福への問いが一国の未来をつくる」、『世界一幸福な国 デンマークの暮らし方』(千葉忠夫 著)

この記事の所要時間: 535
世界一幸福な国デンマークの暮らし方 (PHP新書)
千葉 忠夫
PHP研究所
売り上げランキング: 144,623

1. 「幸福とは何か?」に答えられない人びとの行き先

 大きく世界情勢が変化しているなかで、「幸福な国とは何か」を考えるという余裕のようなものが、今の日本にはなくなっているような印象を受ける。大国と大国のあいだで、いかにうまく立ち回るか、経済的にいかに多くのお金を稼げるようになるのか、つまり目先の利益によってグランドヴィジョンのようなものがみえにくくなっているように感じられるのだ。それは、国際情勢の変化をまるで日本にとっての「自然」と捉えて、ただひたすら順応しようとしている姿のようにも見えてくる。

 そのような状況は、国家レベルでの話だけではなく、個人の間でもそうだ。たとえば現在、日本においては、富が裕福層と貧困層で2極化していく流れに抵抗できる勢力はほぼなくなってしまっていて、その結果、いかに自分たちが割を食う役を引き受けないかが暗黙のうちに重要視されている。潜在的にこの世界は平等などではなく、それならば有利な立場にいたほうが勝ちだ、といったふうに。それは子どもたちも敏感に感じ取っているように思われる。たとえば「いじめ」の問題に関しても、大人がすでに暗黙のうちにそれを肯定してしまっていて、「いじめられるくらいならいじめろ」というメッセージすら発せられているように思われる。

 しかし、地域や教育などの面で、日本はいまだにすべての人たちにフェアな環境を築くことができていない。そのため、生まれ落ちた環境によって階層間の移動はかなり限定的なものになってしまう。少数の階層移動者の成功物語によって社会的なガス抜きされるという構造は続いていき、日本がほとんど後追いをしているように見えるアメリカという国に、これから良い意味でも悪い意味でも近づいていくのかもしれない。

 けれども、人びとが幸福を追求する権利を持つという前提をもつ民主主義国家であるならば、国家はその追求をサポートする義務があるはずだ。そして「幸福」とは何か、という指針もそこになくては、国をその目的に合わせて運営していくことはできないだろう。その「幸福とは何か」ということに、市民が明確の答えられないような状況では、すべてはなし崩し的に既得権益を保守し拡大していく方向にしか進んでいかない。だが、国民から集められた税金は国民の「幸福」のために使われるべきなのだ。その基盤となる法律も私たちはすでに持っている。

2. デンマークでは「幸福」のイメージは童話から培われた

 現在、世界一幸福な国とは「デンマーク」だそうだ。デンマークは資本主義でありながら社会福祉国家で、税金は直接税と消費税の2つがあり、直接税だけでも国民の収入の50%を納められている。さらに消費税は25%と世界でもっとも高い。それだけ聞くと、税金に対してあまり良いイメージを持っていない日本人は、羨ましくは思えないだろう。だが、それらの税金のほとんどは教育や福祉に使われていて、そこからくる安心感が幸福の実感につながっているようなのだ。

 デンマークのそのような社会システムは、とってつけたような思想からくるものではない。その思想の源流のひとつには、200年ほど前に生まれた童話作家・アンデルセンにあるようだ。アンデルセンがその作品のなかに描いた未来社会の姿は、その童話を愛したデンマークの人びとによって実現されたのだ、と本書の著者は言っている。その未来社会で重要視されているのは、人びとが「生活しやすくて住みやすいこと」。そのことが「マッチ売りの少女」などの作品に込められているのだと。

 また、デンマークが今のような社会福祉国家になった背景には、キルケゴールなどの哲学者の存在もあったという。日本では、社会と個人というものは異なるレイヤーとして分けられ、どちらかというと社会のほうが優先されるべきものとされている傾向がある。だが、デンマークではその逆だ。「個人を大切にすることが、個人の集まりで構成されている社会を大切にすることにつながる」と考える背景には、そうした哲学・思想的なバックグラウンドがしっかりと存在しているのだ。

3. 人類の壮大な社会実験の果てにあるもの

 本書では、アンデルセンが描いた貧しかった「マッチ売りの少女」の国が、なぜ世界一幸福な国になれたのか、その仕組みが紐解かれている。

 「日本という国は豊かである」というイメージは、自国民にも多くの他国民にも共有されているものといえるかもしれない。しかしそれはすでに過去のイメージとなっていって、例えば、世界の相対貧困率ランキングでは現在日本は第5位という状況なのだ(本書出版2009年時点で)。なんと国民の15%もの人びとが貧困状態におかれているという。ちなみに先進国のなかで貧困率第1位はアメリカだ。人種差別が横行しあちこちに貧困者たちのスラム街のある国が、金がなければ医療も教育も受けられない国が、本当に民主主義なのだろうか。

 これは人類の壮大な社会実験でもあるのだろうが、アメリカ型の民主主義だけではなく、北欧型の民主主義というものもあることを、日本はもっと知るべきなのかもしれない。本書を読んださいの私の感想はそういったものだった。そんなことを言っても、日本と北欧の国々では人口の規模が違うから、という意見も多いことも知っている。だがそれは、道州制を導入すればかなり解決する問題だと筆者はいっている。

 さらにデンマークは世界一政治の世界で汚職の少ない国だという。この特徴もとても重要なポイントだ。税金の使われ方もオープンでクリーンであることは、多くの税金をあつめうる正統性にもつながっているからだ。日本はまずこの点をなんとかすべきなのだろう。だが、それがとても難しい。利益集団というものは、理屈抜きでみずからの所属する集団の利益の増幅を望む。それはほとんど自動機械のように。それは「ノブレスオブリージュ」だけではどうしようもなく、仕組みの変更によってしか変えることはできないものだろう。

(了)

世界一幸福な国デンマークの暮らし方 (PHP新書)
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「『男性』の『弱さ』の先にあるもの」、『非モテの品格 男にとって「弱さ」とは何か?』(杉田俊介 著)

この記事の所要時間: 60
非モテの品格 男にとって「弱さ」とは何か (集英社新書)
杉田 俊介
集英社 (2016-10-14)
売り上げランキング: 8,263

1. 「弱さ」を晒せないという「弱さ」とは?

 「女性」の友人と話していて驚かされることのひとつは、彼女たちが自らのプライベートの詳細を、たとえば、お付き合いしている男性とのあれやこれやの出来事や悩み事などの情報を、親しい友人たちの間でかなり共有しているということだ。もちろんグラデーションがあることだが、少なくとも「男性」の私が、悩みなどを友人などに打ち明けないこととはとても対照的で、分かってはいてもなかなかの衝撃を受けてしまう。

 その違いは当然、歴史・社会的に構築されているものだけれども、「女性」の他者とのコミュニケーションのあり方のようなものが、「男性」の私とは異なることは、他人と築いている人間関係の生態系の違いからもみてとることができる。そして現在の日本社会のなかで、おそらく「生きやすい」のは、「女性」たちのコミュニケーションのありかたなのだろう。

 「男性」たちのなかは、急激な社会の変化に生物としてついていけない人が多くいるのかもしれない。それがアポトーシスへの欲動を引き起こしているような。「弱さ」を隠すべきものと考える「男性」、「弱さ」を通じて他人と繋がろうとする「女性」。新しい環境への順応への遅れが「男性」の生きづらさを形作っているが、その点において、世代的なグラデーションの問題も、そこには影を落としているように思われる。

2. いまだ語られていない言説、その可能性の片鱗

 杉田さんも当事者である「ロスジェネ世代」。コミュニケーションの問題や不遇感の問題など、「非モテ」について語るとき、それがもっとも切実に感じられる世代のひとつだ。バブル景気を目の当たりにしながらも、その恩恵は受けられなかった世代。その意味で、ロスジェネ世代が本書のテーマである「非モテ」の問題を語ることは理にかなっている。

 本書でも述べられているように、この世代の言葉は未だに(もう中年以上になっているのにも関わらず)、必要でありながら関わらず足りていない。それ自体も「不遇」の象徴的なものだろう。ロスジェネ論壇の代表的な論者のひとり、赤木智宏さんの名前が出てきたりもしているのも印象的だ。

 しかしここで大事なことは、この「男性」の「生きづらさ」の問題は、なにもロスジェネ世代に限定されるものではないということだ。だが、その「不遇さ」「満たされなさ」を色濃く受け継いでいる世代だからこそ、特定の世代だけでなく、多くの人に関する「普遍」的なものにまで抽象度をあげていくことも可能なのではないか。

 その可能性の片鱗のようなものが、本書のなかにきらめいている。

3. 「男性嫌悪」の背景に浮かび上がるもの

 また、コミュニケーション能力を磨くことを唱える論者として、社会学者の宮台真司さんも登場している。だが、杉田さんは能力を磨くことで「生きづらさ」を克服するという方向へは進んでいかない。その方向性の違いを規定しているのは、著者自身の体内に埋め込まれた実存にも寄っているし、障がい者の社会支援の仕事での実感のようなものもベースになっている。

 能力を磨くことで「男性」の自己嫌悪を克服していくこととは別の方法を探ること。なぜ別の方法のとる必要があるのか。それは能力による克服という道程は、「どんなに嫌でも他人や社会的な弱者を蹴落とさなければ生きていけないという、この現実への吐き気」とも繋がっているからだ。本書で述べられているように、「男性」のなかに潜む「男性嫌悪」は、資本主義と性分業と優性思想(能力主義)が絡まり合うポイントとして浮かび上がっている。

 それこそが、本書のクリティカル・ポイントということができるだろう。そして重要なのは、それらを指し示していくなかで、著者自身が決して安全圏にいないということだ。自らの実存を、その痛みや弱さを、言葉のなかで晒すことで語りを紡いでいく。このようなアティチュードこそ、今、多くの言葉を失った、巨大な時代の波風にさらされている人びとにとって、必要なもののように思われた。

4. ゼロ年代に止まった時間が再び動きだす

 しかしその可能性の追求こそ、ゼロ年代の「非モテ論壇」の登場とリンクしていた。異なるのはおそらくコミュニケーション指向型であるかどうかという点と、もはや実存の問題を「ネタ」としてではなく「ベタ」でしか扱えなくなってしまったという点なのだろう。さらにはここに、「非モテ論壇」と「ロスジェネ論壇」の当時の交わらなさも横たわっているのかもしれない。

 もし「批評」というものが再生する可能性があるとすれば、この世に存在するすべての言説を味わい尽くして、その先にあるものなのではないだろうか。食い食われることによって、世界を回していくこと、豊かにしていくこと。しかしそこにも、否定していたはずの残酷さが伴われている。その残酷さのビジョンは、杉田さんの著作に繰り返し現れるものだ。なぜ世界はこうなっているのか?どこに救いは存在するのか?人の営みをはるかに超越してしまっている因果、そこに祈りが生まれる。

 違うことによる分断ではなく、新しい課題を設定することによる統合。ゼロ年代に止まってしまった時計が、今、ゆっくりと動き始めている。その胎動のようなものを、本書から感じ取れる人もいるのではないだろうか。まだ杉田さんの思想の総体はうっすらと描き出されているにすぎない。本書は続編を予定しているそうだが、その登場を心待ちにしたいと思う。

 ちなみに余談だが私は現在、グアテマラのサンペドロ・ラ・ラグーナという中米にある小さな田舎町にいる。それでも、新刊がKindle版で読めるのはとても嬉しかった。さすがにアンリミテッドにするのは難しいかもしれないけれど、書籍へのアスセスの容易さは確実に次世代を育てていく糧になるゆえ、どんどん電子化してほしい。現状、電子化されている書籍の傾向はそうとう偏りがあるので(それしかアクセスできないからわかる)、いわゆる「リベラル派」のひとたちは、経済状況が許すのであれば積極的に電子化(アンリミテッド化)をしていったほうがいいです。

 現状は一般的に思われているよりもずっと深刻。もし現状のままなら、おそらく20、30年くらいは負け続けますよ。まぁ、それでもいたくもかゆくもないのが現在の日本の「リベラル」層でもあるという問題もあるのですが。。

(了)

非モテの品格 男にとって「弱さ」とは何か (集英社新書)
杉田 俊介
集英社 (2016-10-14)
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「出来事化する演劇、あるいは神の住まう場所について」、『目と手/Occhi e Mani』(大道寺梨乃/福留麻里)

この記事の所要時間: 1117

「目と手/わたしとあなた/二重人格と恐竜の歯/動物の鳴き声とピアノ/拳を握ると戦うことができ、ほどくと甘えることができる/夜と昼/眠ることと起きていること/左目と左手/脳ミソからできた目と脳ミソの命令で動く指/死んでいることと生きていること/悪魔と神/神を信じないわたしが魔除けのために踊る、しかし神を信じないわたしにとって魔除けの魔はどこにいるのか?/ううん、やっぱり神はいる。アメーバみたいに伸び縮みして形を変えて、からだを分裂させてどんどん増えて、空気に溶けてここにもあそこにも。/そんなことないやっぱりいない。魔除けの魔はどこにいる?/今から探しに行くことにしよう!わたしの目と手を使って」(「目と手/Occhi e Mani」)

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1. 「作品」と「出来事」のあいだ

あの上演が終わって、もう2ヶ月半という時間が流れている。つまり、このレビューは「遅い」反応ということができるかもしれないが、作品の印象の残りかたというものはじつに面白いもので、観終わった直後にピークが訪れゆっくりと記憶から遠ざかるものもあれば、時間をかけて観客のなかでゆっくりと大きく育っていくものもある。その意味でレビューというものは、その性質上、ただその場にいた直後だけでなく、「遅れた時間」「遠く離れた場所」で、繰り返し更新され続けるものだといえるだろう。私はここで、そのことについて間接的に語ることになるかもしれない。

イタリア・フィレンチェの、とある公園でみた「目と手/Occhi e Mani」という作品は、この印象の育ちかたや変化という点で後者にあたる。そして今、この作品の特徴を私が述べるのであれば、「出来事」として経験されるパフォーマンスだということができるだろう。「出来事」の記憶は、時を経るごとにどんどんそのかたちを変えていく。作品として、「」にくくりきることができないもの、そこからこぼれ落ちてしまうもの。その存在が「作品」を「出来事」へと変貌させていく。その成分が、この作品にはたっぷりと含まれていた。

日本語タイトルの「目と手」は、ローマ字表記「Me to Te」にすると、イタリア語で「わたしとあなた」という意味になるという。それで思い出されるのは、宗教哲学者マルティン・ブーバーの「対話の哲学」だ。「我と汝」が語り合うことで世界が拓けてくるというその哲学は、人間が世界と対峙するときの態度として、この「我と汝」というものの重要性を説いていた。その態度には対話が伴い、また単純に「/」でイメージされるような区切りのようなものではなく、お互いに混じり合い確かめ合いながら、それぞれの存在のありかがそこはかとなく知らされる、そういった種のものだ。

2. 二重文節と視覚の帝国

また、日本語の「目と手」はいうまでもなく、人間が持つ視覚と触覚をつかさどる2つの器官であるが、その間にも対話の関係は存在している。

人間が外部から得る情報のかなりの部分は、「視覚」によるものだと言われている。今、キーボードで文字を叩けているのも、視覚情報によるところが大きいし、この文章を読んでいるあなたもまた、その多くは「視覚」によって知覚しているだろう。とくに近代は「視覚」優先の時代と言われ、その理由のひとつは、近代が観察・制御する「観察者の空間」であることによる。つまり、視覚をエビデンスとして空間形成がなされ、そのなかで観察・制御が繰り返されることによって、近代のシステムが作り上げられているのだ。そして、そこから視覚文化の発展も生み出され続けている。たとえば、遠近法の認識形式が自然科学の認識形式と深く関わりあっているように、「知る」ことは、「みること」「観察すること」にどんどん近づいていった。

しかし「視覚」に特権を与え、その枠のなかで思考することだけでは、探し出すことのできない答えもあることは、容易に想像できる。視覚文化において影の部分になっているもの、「視覚の死角」になっているもの。けれども、そこに確実にあるもの。直感的にその見えないものの気配に気づいているなら、〈視覚の帝国〉が世界のすべてではないことを体感的に知っている。自分が求めている、探している答えが、その帝国のレイヤーからは見ることができないとき、その答えはまるで幻想世界の妖精のように、眺める角度をドラスティックに変えないとその影を見つけることすら叶わない。そこに、「視覚」とは違う別の器官が登場して、対話の空間が出現する。

「作品」と「出来事」は、複数の二重分節の上を踊りながら、その答えを「手探り」で探しだそうと、舞台の上で軽やかに踊り続けている。混じり合いながら、その境界線を無効化したり引き直したりし続けている。〈視覚の帝国〉において、視覚は盲目の潜在性なのだ。開き始めた空間においては、他の器官が視覚の手を引いて導いていく。幻視されるその姿は、太古の昔、生物界に起きたことの反転でもあるのかもしれない。

3. 「/」のなかに住まうもの

イタリアのフィレンツェという街のなかで、私たちにとって見慣れた、東洋人の姿を探し出すことはそんなに難しいことではない。たくさんの旅行者たちはもちろん、働いている移民たちの姿を、そこでは散見することができる。けれども、そんな異郷人が、日々、どんな体験をしていて、どんな思いを抱いて暮らしているのかを知っている現地の人間は、そう多くないのではないだろうか。

この街に流れている旋律とコードは、さまざまな背景がインプリントされた視線とともに、その直接的な姿かたちや声、匂いなどといった感覚器官が知覚しえる特徴に憑依した語りで、「他なるもの」を無意識に規定し、街の中に組み込み、ノイズを排除した専制的な音楽を奏でている。つまり、異郷人(私たち!)が放つその「言葉」の意味内容によって、心境が開示される機会はあまりないのだ。もともと街のなかで沈黙のなかにあった異郷人たちが、自らの声で、自らの体験や思いを語りだすとしたら、その場所には大きな摩擦がおこる。複数の音楽がそこに立ち現れ干渉しあい、お互いの感情が激しく揺さぶられることになり、その摩擦に耐えきれなくなる人もでるだろう。

日本でいえば、たとえば京都のような歴史の古い街では、「うち」と「そと」の扱いには大きな違いがあるもので、どこに住んでいるのかとか、この地で何代目なのかとか、そういった人に付随するというよりは、土地に付随する情報によって、その場の社会構造を生成・維持する、安定した秩序を形成する力学が働いている。これは世界中にある歴史の古い街ではよく見られることであり、また、力の大小はあれ、真新しい空間においても存在している力学だ。けれども一般的に、古い都に住んでいる人びとは、よそものからの秩序構造の決定権へのアクセスには、とても敏感にできていて、その地に関連付けされていない、ネットワーク化されていない「声」たちは、容易にかき消されうるし、上書きされ、別の意味が付与されることすらもある。

しかし、そのような無数の声が、今、この瞬間にも、あなたの住む街にも間違いなくささやかれ、響き渡っていること自体は、ほとんどの人びとが認めることだろう。その「声」のありかを探すことは、まるで妖精でも探すかのような、そんな身振りが必要となってくる。また、偶然に出会ったとしても、それを受容する作法のようなものが必要となってくる。しかも、その出会いの先に何が待ち受けているかのは、本当は誰にもわからない。そこには大きな飛躍が存在するが、ただそのさきには、新たな出会いだけが待っている。「/」のなかには、あらかじめその可能性だけが内包されて、何か飛躍しなければ届かないものを結びつける何者かが住まっている。

4. 共有の脱臼と孤独の色

すでに起きてしまったことを、再演すること、反復しようとすること、憑依し、またはされること。人格と思考・行動を規定してしまうような、トラウマ的な体験を原動力にしてしまうがごとく、観客たちの間に共通の物語を設定しようとし、何度も繰り返し、共有されることが放つ存在感。それによって、その出来事は受肉し、遥かなる復讐を誓う。克服可能なものとして、あるいはそのまま、克服不可能なものとして。それが古来より演劇の持っていた機能のひとつともいえるが、ある固有の体験を物語として共有する段階において、それが脱臼してしまうようなことがある。その脱臼によって、もともと個別的な経験が、さらに個別的な経験へと反復される、そんな瞬間がある。その瞬間において、作品の「」はゆっくりと消滅し、「出来事」そのものに姿を変えていく。

portBの高山明さんは、演劇の起源を「観客席」に読み取り、その可能性を拡張する方法として「ツアーパフォーマンス」というスタイルを採用してきたわけだが、その結果、作品中では、個別的な体験がその演劇体験の中心を占めるにもかかわらず、反対に非常に大きな枠組みの物語を観客の側に設定することに成功している。本作『目と手』は、いわゆるツアーパフォーマンスではないが、ただ、劇場ではなく公園という野外で上演されている点、「借景」を使用しているという点、そして、上演中に移動すると点では共通しているといえるだろう。つまり、劇場で行われる演劇とツアーパフォーマンスで行われる演劇の間にある、マージナルな作品だった、といえる。その結果、現れては消えていく「脱臼」そのものが、表現者が置かれた日常生活の内面性を、意図してか意図せずしてか再現されていたようにみえた。

そこで起きている「脱臼」は、間違いなく、私たちがこの世界のなかに住まうことの痛みの一部であり、同時に、連帯の可能性でもある、といえるかもしれない。しかしその連帯も、福音というよりもむしろ絶望への諦念という形をとっている。しかしその絶望のありかにも、「/」がうっすらと表象しているのを見落としてはならない。

5. 旅とドラゴン、あるいはその先にみえる風景

本作品で印象的だったことのひとつに、演者のふたりがスマホでの自撮りという行為がある。近年、旅をすることと自撮りすることの間には、強い関係が結ばれているようにみえる。もちろん昔から、旅先での自撮りは多く撮られていたが、スマホなどで手軽に写真が撮れるようになってから、さらに欲求と行為がダイレクトにつながり、まるで拡張された身体機能かのようになっている。旅で訪れた場所、出会った人々と、自分の間にある距離を縮め関係を確かめようとする行為。もはや自撮りという行為は、現代における旅の文化の一部となっているが、はたから見るとそれはいまだに不思議な行為のようにもみえてしまう。その不思議さは、どこから生まれるのだろうか。

その問いもまた、演劇における観客席の設定と響き合っている。自撮りでは、その撮り手が、スマホのカメラによって写真のレイアウトなどを設定する。つまり、舞台を設定するというわけだが、その時、設定された舞台の外部には、なんとなく不思議な空気が流れるのだ。これは、現実に見えている全体の範囲と舞台として切り分けられた範囲の違いに由来するもので、探しているものにフォーカスする視線と、距離を置いて眺めている視線、その絡まらなさによって引き起こされるシュールさだ。つまり、「旅」することには、常にある滑稽さが含まれているのだが、その滑稽さは、たとえばお猿の未熟児として生まれたという、原初の人間における姿のような、原初的人間の姿とも言える行為を、演者が観客席の人びとと共有すること。そこには、個別的な経験の象徴のような自撮りという行為を、集団的なものとして共有し拡張しようとするような、そんな試みが見て取れる。それは、妖精が住まう場所に誘う儀式のようでもある。そんなシチュエーションが、フィレンツェの公園で、ずっと遠くを見つめているドラゴンのイメージに重ねられる。東洋と西洋、そのどちらにも存在する幻想世界の生き物、ドラゴン。

静寂ともいえる時間のなかで空は青く、その視界をさえぎるものは何もない。もちろん、その空は、日本という地ともつながっていて、私たちがその五感を駆使してもみることのできない世界では、たくさんの想いが飛び交っているのかもしれない。言葉はそのみえないものの存在を微かに示すのみである。おそらくは、さまざまなかたちをした「喜び」や「哀しみ」、そして「怒り」や「痛み」といったものが空間を満たしている。そのなかで、私たちはその一部を受け取り、届いてしまったものにしたがって日々を暮らしている。けれども、届かなかったものに対して、私たちは、思惟することのできる存在でもあるのだ。届いてしまったものと届かなかったもの、その非対称的な二重文節の狭間に、神は(悪魔は)身を宿しているのかもしれない。

数を数えること、その鎮静効果は、無限に数えられるその先に超越的な存在(「神/悪魔」)を感じさせることに由来する、というと、それはあまりに観念的すぎると思うだろうか。ただいえることは、奇跡というものは、たしかに可能性として常にいつでもどこでも、そこに佇んでいる、ということだ。ただ姿を隠して待つものとしてのイマージュだけが、この世界の深いところを満たしている。そのなかをたゆたう私たちは、その一時的なパルス、波のようなもので、すべては最初からすでに許されていて、すべてはすでに祝福されている。そのことが、私たち人間が生きていくことの痛みの根源であり、また、癒しの根源でもある。そのなかに抱かれながら、誰もが踊り続けているのだ。

(了)

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「AI研究の歴史と現状、そして未来をシンプルに概略化」、『人工知能は人間を超えるか』(松尾豊 著)

この記事の所要時間: 246

人工知能は人間を超えるか ディープラーニングの先にあるもの (角川EPUB選書)

世の中に溢れている人工知能(AI)をめぐる情報は、正確に把握されたものではないからこそ、根拠のはっきりとしない期待や不安に満ちている。隠されたものが隠されているが故に、無限の創造力をかきたてるがごとく、時に「人類の最後の発明」のように扱われたり、時にはまるで悪魔でも召還するかのような話にもなってくる。

けれども、現場の研究者たちから直接的に伝えられるその実態を知ってみると、それは案外あっさりとしたものだったりする。むしろ、その実態に基づいて話が展開するのではなく、ファンタジーに基づいたイメージが世の中に溢れるようになるのは、そこが人びとの欲望の依り代になっているようにすら、感じられる。

ならばその欲望とはなんだろうか。まずそこには、フィクションの持つ想像力の快楽が入り込んでいるのは確かなことだろう。具体的な内容が分かってしまうと、それをどのようにツールとして使いこなすかという現実的で日常的な話になる。そうなると、ファンタジーの快楽がその時点で減少してしまう。つまり人間は、現在自分がいる地点との切断や飛躍というものを想像する時に、快楽を感じる生き物なのかもしれない。

これは未来を予測し先読みしたりすることによって、生き残ってきた結果なのもしれない。できるだけ未来を想像し、予測し、対処すること。その想像の先との距離が現状からとおければ遠いほど、けれども確かに現状の変化から考えると演繹的に導かれるような未来像に強い関心を抱くのだ。もしかしたら、人間にとって生殖行為と快楽が分離可能になったのと同じように、未来予測能力の持つ機能と快楽が分離したというこもなのかもしれない。

AIを研究していると、認知するために身体という存在が重要になってくることが分かってくるという。人間の認知はすべて身体に基づいて構築されているからだ。そのため、本書でも述べられているように、AIもまた他のジャンル、例えば生命科学などと合流することによって、はじめて到達しうる点を探ることが可能になる。AI研究は人間の認知に総合的に近づくことが目指されているが、その人間の認知というものが極めて種の進化の過程とシンクロしていて、そこに難点も存在している。

しかし、そのような人間の認知に近い自立したAIを作りあげることは、現状ではまだ全く糸口すら見つかっていないらしい。本書は、人類のAI研究の歴史と現状がとても分かりやすくまとめられていて、読後、読者の中にあるAIへの過剰なファンタジーは後景化するだろう。けれどもその代わりに立ち上がってくるのは、例えバグだらけであっても機能している、私たちの脳の奥深さだ。もしその総体をAIで作りあげることができるようになったら、それは新しい生命をつくることと同義といっていい。つまり最終的に人工知能は、知的な人工生命を作り出すことが目指されているように見える。それは確かに、人間のDNAを継承し、より進化した「上位」になるのかもしれない。そこにはやはり「賭け」も存在している。

人工知能は人間を超えるか (角川EPUB選書)
KADOKAWA / 中経出版 (2015-03-10)
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「ヨーロッパの普遍的なものの衰退と限界について」、『21世紀の自由論』(佐々木俊尚 著)

この記事の所要時間: 330

21世紀の自由論―「優しいリアリズム」の時代へ (NHK出版新書 459)

本書で前提になっている認識のひとつは、私たちが現在、世界システムの長きに渡る移行期の中で暮らしているということだ。もちろん、そのことに異論を挟む人は少ないだろう。各国家間の経済や軍事のパワーバランスの変化にその潮流をみてとることができるし、また、本書の中に述べられているように、ヨーロッパにおける「普遍的なもの」の衰退と限界というところにも読み取ることができるかもしれない。

しかし、私はここでいわれている「普遍的なもの」の衰退と限界というものを、新たな世界システムへの移行期におけるその精神性(使い古された言い方をすると「上部構造」)の変化と単純に重ね合わせることに対しては、少なくない違和感を覚えた。その理由は、その理念を先進国の国内事情に合わせる必要はないように思われたからだ。

まず、ヨーロッパにおける「普遍なもの」、つまり、個人の「自由」や「平等」といった理念が通じるエリアはもともと極めて限定的だったわけで、その意味でこの議論は、とてもヨーロッパ中心主義的なもののように思えた。それらの理念が、これまで世界中を席巻していたかというとそんなことはない。それが衰退し限界に達したように見えるのは、いわゆる第三世界の人びとがヨーロッパ諸国の内部システムにモザイク状に組み込まれはじめたからだ。

もともと「外部」だったものを「内部」に入り込むことで起きた拒絶反応は、それをして限界というのには少し説得力がかけるように思われた。たしかに、そこに経済的な理由が重なって、それらの理念が限界を迎えたかのようにもみえるし、それが排外主義などの反応につながっているということも事実だろう。けれどもそれらは、最初から認めてなどいなかった「外部」の人びとを「内部」において認めていく過程において起きている現象であるという側面がないだろうか。

そしてもうひとつ気になったのは、ここでの議論は市民社会における階層性があまり意識されてない点だ。つまり、最初からフラットであることが前提となって議論がスタートしている。そして、この「普遍的なもの」の衰退と限界とみられる現象は、主に経済的弱者や承認欲求が満たされない人のところで可視化されているのようにみえるだ。つまり、ここでの議論では、富の分布が二極化しそれがアノミーを引き起こしているという点が省かれてしまっているように感じられる。世界がフラットに見えるのはその一部においてだ。レイヤー化は移動が容易なものだけではなく、経済や軍事、教育などによって、強固で移動が困難なものも多く含まれている。

理念と現実のコンフリクトの中で矛盾を抱えながらも悩みながら進んでいくこと。それによって生まれる変化の差異というものもあるのではないか。本書の最初に掲げられている「生存は保証されていないが、自由」か「自由ではないが、生存が保証されている」というどちらの選択肢にも私は乗ることができなかった。なぜなら、そのふたつが矛盾したり両立しないのは、今にはじまったことではないから。

もちろん著者は、その地点を通過して本書の結論に至っているだろう。しかし私が受けた印象は、あまりにそこに闘った痕跡が省かれてしまっているということだ。それはフラット化に通じるところでもあるが、私が問いとして捨ててはならないと考えているのは、「あなたはどんな世界に生きたいですか?」という極めてシンプルな問いなのだ。著者はすでに先に進まれているが、その点はまだ議論が尽くされていないのではないだろうか。

もちろん、世界システムはどんどん組変わっていく。けれども、もしヨーロッパの「普遍的なもの」が衰退していくとするならば、特定の歴史や社会だけに適応可能なものではなく、もちろんそれをただ破棄するわけでもなく、もう一段階ほど抽象度を上げた「普遍的なもの」の構築を目指すべきではないか。もちろん、それもまたいつかは衰退していくものではあるけれど。

21世紀の自由論: 「優しいリアリズム」の時代へ (佐々木俊尚)
佐々木俊尚 (2015-06-09)
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「2つの問いが交差する場所で」、『持たない幸福論』(pha 著)

この記事の所要時間: 231

持たない幸福論 働きたくない、家族を作らない、お金に縛られない

人間の行動を形作る価値観や、それに基づく習慣の総体としてのライフスタイルは、時代や場所による環境によって変化するものだということに、異論を唱えるものは少ないだろう。例えば、経済や政治の状況によってその生活が規定されることもあるだろし、また、テクノロジーの進化も様々な制約を解除したり作り上げたりしていくことは、特にインターネットの出現などを目の当たりにした世代にとっては、実感があるのではないだろうか。

しかしそのような変化の多くは、生き物としての人間すべてがすぐに適応できるほど緩やかでゆったりとしたスピードの変化ではない。その急激な変化についていけるものとついていけないものが生まれることは、簡単に想像することができる。生物の物理的な進化のスピードを、(本書でも言及されている)文化的遺伝子「ミーム」は遥かに凌駕していく。また、一人の人間の認知限界を超えたスピードで、情報やシステムは膨張していく。

そして、その環境の急激な変化との個々の人びとの間に生まれる摩擦や、またはその適応の現場において、種としての人間の比較的ロングスパンなライフスタイルのあり方というものがみえてくることがある。そんなライフスタイルが、本書で描かれていると言っていいだろう。それは人類史上、脈々と受け継がれている「文化」にも接続されている。

「無理をしない」ということの正当性をロジックで示そうとする時、そこに言葉が注ぎ込まれ、「文化」に接続される。つまりそこに、「普遍性」のようなものが浮かび上がってくるわけだが、本書はそれにしっかりと触っているのだ。また、先行している研究やその成果などから生まれる言語のみによる思想や理論ではなく、実践と実感(「実存」といってもいいかもしれない)に基づいた体験談でもあることが、本書の重要なポイントのひとつといえるだろう。

その意味で、本書は結論というよりも、経過報告のようなものだ。現代の生きることがつらそうな人たちの戦果のようなものということができるのかもしれない。これがひとつのライフモデルとして社会における選択肢のひとつとなるには、あと20〜30年くらいかかるのかもしれない。それは少し残酷な見方をすると、炭鉱のカナリアのような役割を結果的に果たすのかもしれない。

「普通」から外れてしまった人々の民間におけるセーフティネットをどのように考えるのか、という問いの中を本書は生きている。そのような現代的な問いと、人類の文明の進化とそれを享受するはずの人々の持つ苦との間にある矛盾に対する問い。この2つの問いがクロスするところに、本書は位置付けられるのではないだろうか。

「母国語を外国語のように書き、どこにいても異邦人のようであること」、『ニッポン発見記』(池上紀 著)

この記事の所要時間: 145

ニッポン発見記 (講談社現代新書)

母国語をまるで外国語のように書くこと。私が「文学」というものの特性を考えた時、それはとても重要なエッセンスとなる。しかし、それは「小説」などの特定のジャンルに拘束されることのないものでもあるだろう。例えば、エッセイのようなものでもその「文学」性というものは露呈する。そのエッセンスはメディアによって表象され、痕跡としてその姿を表すのだ。

言葉というものは呪術的なものでもある。その言葉を読んだり聞いたりした以前と以後では徹底的に何かが変わってしまう。目に見えないはずの他人の思考の痕跡や道筋がそこに見えてしまうことで、言葉が読み手を支えている有機的な情報空間に関与しだす。そこには、人間の認識には複数の立脚点が可能であることを直感的に知ることのできる空間がうっすらと口を開けている。

その複数の立脚点の存在とそれを成り立たせている複数のロジックを捉えることは、ちょっとレトロな言い方をすれば「教養」というものと昔呼ばれていたものを手に入れるということでもあるだろう。その言葉はまた、今風に言い換えると「他者への想像力」と言い換えることもできるものかもしれない。

その想像力は、「スピード」を至上命令とする社会において、とてもゆっくりとした速度しかもたないようにみえるものだ。けれども、その速度の違いというものを複数化していくことの中に豊かさをみつけていく作業。その中に、機能というものを捉われない「自由」も存立しているのではないか。そして、そこから新たな空間が芽吹いていく。

本書を私は、ベトナムのホーチミンという街のとある本棚で読むことになったのだが、読みながら異邦人としての自分と書き手の旅がシンクロしてしまっていた。どこにいても異邦人であること。それはおそらく、これからもずっと続いていくのだろうという覚悟のようなものでもある。

ニッポン発見記 (講談社現代新書)
池内 紀
講談社
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「そのようにしか生きることのできない人々の姿が映し出すもの」、『「生き場」を探す日本人』(下川裕治 著)

この記事の所要時間: 134

「生き場」を探す日本人 (平凡社新書)

「ここじゃないどこかへ」。

なんて言葉が孕んでいる感情は、すでにレトロで懐古主義な印象すら人々に与える。それは、「いまここ」や「マインドフルネス」といった思考傾向が、現代の日本が行き着いた歴史・社会的構造の帰結のようにみえるのと、おそらくはシンクロしているのだろう。そんな中、自分の「生き場」を探して放浪するなんていうあり方も、一見、ロマンティックな幻想に取り憑かれているように思われるのも無理もないことだ。

けれども、本書で紹介されている海外で暮らす日本人たちは、偶然に偶然が重なった結果とはいえ、すでにもう「そうでしかありえなかった」ような人たちだ。そこには憧れや幻想といったものがあるのではなく、そうではなくて、「そうならざるをえなかった」という断念や諦念を自らの「生き場」として繋げていく姿がある。

本書は、発売からすでに約5年の月日が経っている。しかし、ここで描かれている海外で生活を送っていく日本人たちの姿から透けて見えてくる日本の姿は、今も変わっていない。いや、むしろ、状況は加速度的に進んでいるといえるだろう。

彼らと日本社会は、どんなに遠くに離れたとしても、コインの裏表のように引き裂けない関係にある。そこに鳴り響いているのは、日本社会が置き忘れていったものの存在の痕跡だ。それを回収していくのか、更に忘却の淵へと追いやるのか。その先は知る由もないが、ただ、その存在を感じ取ることなくしては、その重要度を精査することもままならないということはだけは、確かなことなのではないだろうか。

「生き場」を探す日本人 (平凡社新書)
下川 裕治
平凡社
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「3つの物語が交差する点で、揺さぶられ呼び覚まされる」、(『鳥の歌』川村麻純 @京都芸術センター)

この記事の所要時間: 217

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「パラソフィア」。昨日は2つまわってみて、今日一通りみてきたのだが、京都芸術センターで公開していた映像作品が妙に心に残った。それは台湾人の男性に嫁いだ日本人女性の3つのモノローグを組み合わせた映像作品。川村麻純さんの作品だ。国家とか戦争とか植民地とか、国籍とか国境とか家族とか、その延長戦上にある民族というもの「血」というものの根深さだとか。

去年の「横浜トリエンナーレ」でみた移民がテーマになっていた作品の多くは、主にアジアの国々から日本に移り住んだ人々にフォーカスしていたが、ここ京都でみたこの作品は、日本人が台湾に移民し、そして、台湾の国籍になることを選んだ人たちの話だ。

他のアジア地域より比較的近代化が先に進んだこの日本は、多くのアジアの人たちからすれば出稼ぎに向かう場所であり、何らかの理由から祖国から逃走する場所であり、その反対に、日本からアジア地域にその生活の場を移すことは、どちらかというとマイナーなイメージが専制しているのではないだろうか。もちろん、戦争直後に日本が貧困状態にある時に多くの移民が生まれたということはあるし、高度経済成長期やその後でも、例えば、駐在員だとかで生活の場をアジアに構えている日本人もいる。また、バックパッカーのような旅行者がその土地に「沈没」することもあっただろう。

しかしそれらは結局、日本人という法的に有効な国籍があってのことで、その国籍を他のアジア圏の国籍へと変更することは、まれなことだったのではないだろうか。しかしこの作品で、そのレアかもしれないケースの道筋を具体的に踏み込んだ人たちの話を聞いているうちに、自分の中の国家や国籍、家族や民族についての身体的な経験が呼び覚まされていくことがわかる。

それらの呼び覚まされた感覚は、普段当たり前のように日本国籍である私たちが無意識に前提としている基盤を露わにしていく。さらに、それらの基盤をロジックによって切開していくのではなくて、情動を伴って開示していくのだ。その情動に対する自分の心の反応、それがこの作品の本体ともいえるものだとするならば、この作品はおそろしい装置なのではないだろうか。3つの映像だけがあるそのホワイトキューブは、まるで何かを呼び覚ますためのイニシエーションの場のように感じられた。

その場では、3人の語りによって生み出される厚みのある物語(フィクションなのかどうかは分からない)の線が交差し、その交差する点に自らの身体が配置されるのだ。その状態は人によっては「拷問」のようにも感じさせるものでもあるかもしれない。所属する国家やその国籍というものと、人間という生物であることの間に生まれた溝のようなものに落ちたような感覚が身体に残っていた。

(了)

「もうひとつの巨大なネット空間の出現」、『中国のインターネット史』(山谷剛史 著)

この記事の所要時間: 149

中国のインターネット史 ワールドワイドウェブからの独立 (星海社新書)

本書は、はじめての中国におけるインターネットに関する通史だ。また、インターネット普及以前と以後で、「文化」がキチンとつながっていることも明らかにされている。そして、その通史が至る現在とは、西側のインターネットから生まれた世界的サービスからほぼ完全に別の生態系を築いた、もうひとつの巨大なネット空間の出現だ。

現在、中国のインターネット利用者数は6億人突破しているという。つまり、インターネット人口だけで、日本の総人口の約5倍にもなっているということだ。インターネットは中国の情勢を大きく変えている。けれどもその変化は、民主化を推し進めるものではなく、政府による検閲によって飼いならされた空間となっていることが、本書では指摘されている。

大陸の広い国土における情報戦において、インターネットは主戦場とも言える場所であろう。そしてその場所は、すでに国家による情報統制下にある。「Twitter」、「Facebook」、「Google」、「YouTube」といった民主化の広がりに寄与しそうなツールは、中国国内では遮断され正式には使用できない。そのかわりに同種の国内企業のサービスが使用されているわけだが、そこでの情報統制も徹底したものになっているという。

それは一種のディストピアすら彷彿とさせられる状況だ。しかし、その状況と同時に、その中で生きる人びとの自由な息づかいも本書からは感じとることができた。「上に政策があれば、下に対策あり」。それは国境線をも越えて、これからも続いていく「文化」なのだろう。例えば、日本での電化製品の「爆買」や、子どもを海外で生み育てるなども、そのような「文化」ともどこかでつながってるのかもしれない。そんな国内外での「ノイズ」が、如何にもうひとつの巨大なインターネット空間に介入し、変化を生み出していくのか。その未来にも関心を持つことができた。

「今も鳴り響いている音色。」、『岡崎京子展 戦場のガールズ・ライフ』in 世田谷文学館(2015.01.24~3.31)

この記事の所要時間: 211

岡崎京子 戦場のガールズ・ライフ

個別の女の子のことが描かれているはずなのに、どうしてもそれが「世界」のことのように思えてしまう。いわゆる「セカイ系」というものは、「君と僕」の関係が家族や社会などを介在させず「世界」の運命と接続してしまう物語群をいうわけだから、岡崎京子の作品はその対極にあるとも言えるはずだ。なのに、多くある「セカイ系」の物語以上に、「世界」そのものを感じずにはいられない。

時代の変わり目だとかその世の中で、どのような反応が一人一人に訪れるのか。その痛みや快楽を描く中でみえてくるのは、果たしえない救済のようでもあった。いつまでたっても到来することのない大きな救いの不在の中で、生きることのパッションがそこにはある。特定の社会に生きながらも、それが刻印される身体を維持したまま、「社会」を超えた「世界」に常に接続され続けている。

決して満たされることのない、多くはお金に紐付けされた小さな救済の積み重ねで形作られる自分。しかし、その自分も微妙なバランスの上に成り立っている。それは他人の欲望にも同時に紐付けされているのだ。そのような日常は今も終わってはいない。つまり、岡崎京子の作品に感じとることのできる「エグさ」は思われている以上に一過性のものではないのだ。欲望や摩擦、それに付随する感情。その点において、はじめて「みんな」が存立しているのかもしれない。それは新宿駅西口の托鉢僧の鈴の音のように、現在進行形で今も鳴り響いているのだ。

———————–

岡崎京子展 戦場のガールズ・ライフ
2015年1月24日(土)~3月31日(火)
世田谷文学館

会場:世田谷文学館2階展示室(東京都世田谷区南烏山1-10-10)
休館日:月曜日
料金:一般=800(640)円、高校・大学生、65歳以上=600(480)円、小・中学生=300(240)円、障害者手帳をお持ちの方=400(320)円 ※( )内は20名以上の団体料金
※「せたがやアーツカード」割引あり
※障害者手帳をお持ちの方の介添者(1名まで)は無料
主催:公益財団法人せたがや文化財団 世田谷文学館
後援:世田谷区
助成:芸術文化振興基金

公式HP:https://www.setabun.or.jp/

岡崎京子 戦場のガールズ・ライフ
岡崎 京子
平凡社
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「『マオ・レゾルビーダ』だからこそ放てる鮮烈な『エモさ』」、『傷口から人生』(小野 美由紀 著)

この記事の所要時間: 233

傷口から人生。 メンヘラが就活して失敗したら生きるのが面白くなった (幻冬舎文庫)

最近、少し「エモさ」というものが、インフレを起こしているように見える。マーケティングとか、キャラ作りとか、仲間との共有するネタとして、とか。つまり、「エモさ」が一種の消費財のようになっているように感じられるのだ。

それらの意識的に作られた、正直ちょっと虚しさを感じる「エモさ」。それが溢れかえった激動の荒波の中にある日本社会。そんな中、天然の「エモさ」との出会いを求めるのなら、私は本書をお勧めることができるだろう。

著者の小野さんには何度かお会いしたことがある。一番はじめに出会ったのは、田端にあるシェアハウス「まれびとハウス」だったと思う。なんか遠距離恋愛の話をしてた記憶がある。

そしてその後、私が企画したイベント「ソーシャルネットワーク時代のシェアハウス」(2011年2月17日)で、まれびとハウス代表で登壇者として出演していただいた。あの時の坂口恭平さんとの衝突も今思うと、とても懐かしい。あの衝突もいつか解消できれば良いなと、個人的には思っている。

その何度かの面識の中で出来上がっていた著者へのイメージは、「ちょっと我が強いけど、仕事のできる人なのだろうなぁ」というもの。まぁ確かに、Twitterなどでたまに見かけると、「あれっ?また職場が変わったのかな。」ということはあったのだけれども、基本的にサバイバルには強いタイプという印象を持っていたのだ。

しかしその著者が、穴に落ちるマリオのような状態に陥り、パニック障害にもなっていたとは。本書を読むまではまるで知らなかったことだった。

そこで分かったことは、巷に溢れ返る「エモさ」と著者の「エモさ」の違いだ。それは自分の家族や人生の問題に直結しているかどうか、というところにある。その取り替え不可能な物語や課題を中心に据えて生きること。それが「エモさ」の源泉となっているのではないだろうか。さらにそのただでさえ「エモい物語」に、「メンヘラ」ゆえの爆発的なエネルギーが注ぎ込まれている。それで面白くない訳がない。

著者がスペイン巡礼の旅の中で出会った言葉「マオ・レゾルビーダ(未解決の人間)」。この「自分の家族や人生の悩みを解決していない人間」という意味を持つ言葉は、多くの人たちに突き刺さるのではないだろうか。

読み終わってしまうことが、少し寂しくなるような本だ。

傷口から人生。 メンヘラが就活して失敗したら生きるのが面白くなった (幻冬舎文庫)
小野 美由紀
幻冬舎 (2015-02-10)
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(了)

【中川康雄(なかがわ・やすお)】
旅とWebとCultureと。関心領域は、Philosophy、Sociology、Media、Art、海外放浪、ソーシャルグッドなど。
Twitter:insiderivers
個人ブログ:https://insiderivers.com

「まるで居心地の良い居酒屋でも探すかのような。」、『メモリースティック』(九龍ジョー 著)

この記事の所要時間: 237

メモリースティック  ポップカルチャーと社会をつなぐやり方

「あっ、昨日は九龍ジョーさんの著作の発売日だったな」。午前中の用事を終えた僕は16時に北千住で行われる演劇を観る前に、新宿の本屋に向かうことにした。

最初に行ったのは、よく新刊本を買いに行くブックファースト。西口の地下にあり、夜遅くまで開いているのでよく利用する本屋だ。いくつかの本棚をめぐり、目視では見つけられなかったため、店内においてある検索用の機械で本のタイトル名を入力してみるが、出てこない。続いて、著者名で検索したけれども結果は同じだった。仕方ないので、東口にある紀伊国屋書店へ。ここでは、新刊本のコーナーで平積みになっているこの本すぐに見つけることができた。

新宿からJR山手線で西日暮里まで行き、そこから千代田線に乗り換えて北千住へ。公演までに小一時間の余裕があったので、近くに居心地な良さそうなカフェがないか、食べログやRettyを参照してみる。少し繁華街から離れたところにある一軒家を改装したパンケーキが有名なカフェがあることを確認し、そこにGoogle MAPに導かれながら到着。パンケーキとコーヒーを注文し、カバンの中にしまったさっき買ったばかりの本を取り出して読み出した。数人しかお客のいない、古い木造の店の裸電球の明かりの下で。

読みながら、この書き手の置かれている心理状態などが気になってくる。この放浪感はディアスポラともいえるものなのか、本の構成上のゆえなのか。ゆっくりと、体験と思考の痕跡の糸をたどりながら、「ああ、これはあの感覚に似てるなぁ」と思いだす。

そうだ、これは隠れ家みたいな居心地の良い居酒屋やBARでも探しにいく時の、あの感覚に近いのだ。アティチュードとか熱量といったものの他に、何か貫くような直観めいたものがそこにあって、そこに勝手に身体がフォーカスしていく。なにか目に見えない源流のようなものを嗅ぎ取り、吸い寄せられていく。ここで重要なのは、それを自分の理論のようなものに、事物を落とし込むのではない、ということ。

これは、自らも動きながら読む本なのかもしれない。著者と読者の動く点同士が交差する場所としての本、チラッと横の人の様子を見るような、そのような感想を抱く本。16時から5分遅れて始まった演劇は、とある団地の一階の古びたテナント部分で行われた、旅と記憶に関するものだった。さて僕は、これから横浜中華街の鍋パーティに向かおう。

メモリースティック  ポップカルチャーと社会をつなぐやり方
九龍 ジョー
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(了)

【中川康雄(なかがわ・やすお)】
旅とWebとCultureと。もともとは現代思想やアンダーグラウンドカルチャーといった比較的抽象度の高いジャンルにいたり。関心領域は、Philosophy、Sociology、Media、Art、海外放浪、ソーシャルグッドなど。
Twitter:insiderivers
個人ブログ:https://insiderivers.com