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インタビュー「新しい旅人文化としてのオフ会 〜インターネット以後に直接会うことの位置づけ〜」(short version)二宮 信平

この記事の所要時間: 341

La Paz, Bolivia

 

※本インタビューは、全体の2分の1くらいのダイジェスト版です。
フルバージョンは2013年4月28日発売の『未来回路5.0』に掲載予定。

 

―― 今まで105カ国を巡ってきたそうですが、旅を始めたきっかけみたいなものって何かありましたか?

 随分と子どもの頃に戻ってしまうんですけれども、僕の場合は幼稚園の頃くらいから始まっていますね。もちろん、その頃は海外旅行じゃないんですけれども。電車に乗るのが好きだったんですよ。だから小学生の頃には、週末にあちらこちらに電車で行ってましたね。部活で野球をやっていたこともあって、そんなに沢山は行けなかったんですけれども。
 それが自分が成長していくに連れて、移動の幅が広くなってきただけという感じです。基本的に、あまり旅行で国内と海外っていう区別はありませんね。好奇心で旅行する範囲がだんだん広がっていった感じです。

 

Brazil, Olinda―― 今まで行かれた国々の中で、印象深い場所や出来事ってありましたか?

 やはり、南米ですね。はじめて行った時に「こんな楽しいところがあるんだ!」と思いました。
 遺跡とかそういうところも楽しいんですけれども、向こうに住んでいる人たち自体が楽しい。ただ普通に道を散歩しているだけでも楽しいんですね。「世界で一番幸せそうな大陸だな」って。南米での日々は、とてもテンションの高い毎日で。それもあって、雑貨屋さんも南米から始めたし、今でも南米にはよく行くんですね。
 そして、その中でも一番好きなのは、サルバドールのカーニバルなんです。そのカーニバルには僕たち外国人も参加できてしまうんですね。日本人宿の人がみんなで太鼓の練習をして、そのまま本番にも出たりしていました。もうそのカーニバルには4回行っています。最初、人から面白いと聞いて1回行ってみたんですけれども、その後、繰り返し行くようになりましたね。

 

―― 結構、大きな規模で旅人のオフ会を主催されていますよね。参加者が毎月100人くらいとか。そういう集まりを始めた経緯って何ですか?

 最初に始めたきっかけは、旅行の話をする相手がいないってことだったんですよ。学生時代の友達とかに旅の話をしても、基本的に一方通行になるし。それはそれで楽しく聞いてもらえる人もいるんですけれども、キャッチボールがないってことでちょっと物足りなかったんですよね。
 僕が始めたのが5年くらい前になるんですけれども、その頃、とある国際交流会に行ってみたんです。でも、あまり面白くなくて。それで、「これだったら俺、出来るな」って思って実際に始めてみたって感じですね。

 最初の頃の人数は小規模だったんですよ。例えば、トルコ料理屋さんに行ったりペルシャ料理屋さんに行ったりを20人くらいでやっていました。それが少しずつ参加者の方が増えてきて。今はもう100人くらいの参加者の規模になっているので、毎回店を変えるわけにもいかず、新大久保の特定のお店に固定してやっていますね。

 

―― 旅行にとってインターネットの存在って大きくなってきましたよね。例えば、20年とか30年前とかでは、現地の情報は現地じゃないと手に入れることが出来ないような状況だった。それが今は日本にいる状態で現地のほぼリアルタイムの情報を仕入れることが出来るようになっています。

Piazza Erbe wired そういう変化には驚きますね。この前、南米に行ってきて実感したんですけれども、情報ノートの文化がもうほとんど廃れているんですよね。情報ノートがあったとしても内容はほとんどなくて。wifiがもう何処でも飛んでいるようなご時世なので、ブログなどで事足りちゃうんでしょうね。

 ただ、オフ会っていうのは、ブログだけでは分からない部分の補足的な意味合いもあります。実際会って、話した方が細かい情報が得られるし。旅についての情報共有は、ネットと実際に会って話をすることのふたつで成立しているような気がします。

(了)

 

【二宮信平(にのみや・しんぺい)】
世界105カ国を歩いた旅人。
大学生以降の人生をほとんど海外で過ごす。
月一で100人規模の海外旅行オフ会を主催。
エスニック&アジアン雑貨などを取り扱う「Copa-Cabana」代表。

インタビュー「旅によって起こる変化を旅をしていない人にも起こしてみたい 〜 イラン・パクチー・ライフスタイル 〜」(short version)佐谷 恭

この記事の所要時間: 319

Here comes Tehran

 

※本インタビューは、全体の4分の1くらいのダイジェスト版です。
フルバージョンは2013年4月28日発売の『未来回路5.0』に掲載予定。

 

—— 旅に関わるようになったのは、いつの頃からなのですか?

 もともと、大学に入ったら「旅をしよう」って考えていたんです。うちは母親がスーパーフレンドリーなので、まだ外国人が珍しかった頃から、旅人を家に連れて来てご飯を食べさせるっていうようなことをやっていたんですね。ちっちゃい頃から、実家にホームステイとかもたまに来ていたんです。だから、様々な国の人びとがちょこちょこ出入りしていました。

 そういうのをみていると、自分でも色々と旅に行きたいなと思うようになっていて。それで大学に入って一人暮らしを始めてから、時間も沢山あったので、大学1年生の時に初めて旅に出たんです。

 

—— 子どもの頃から旅人たちと接してこられたんですね。それから旅に出られるようになって、どこか思い出深い場所などありましたか?

 やはり1996年に行ったイランですね。その当時、イランに行く旅行者はほとんどいなかったんです。

 その時、大学3年生ぐらいだったんですけれども、もう色々行っていて旅に慣れてきちゃってたんです。イランに行ったのが確か20カ国目ぐらいだったと思います。

 最初の頃は例えば、韓国に行ったらハングルを覚えようとかそういうことをしていたんですれども、段々、「英語が出来ればいいや」とかそんな感じになってきていて。それがイランに行ったら全く通じないんですね。英語や日本語が片言も通じない。

 例えば、最初に行った街からケルマーンに行きたくって、バスのチケットを取りたかったんですれども、「Tomorrow」とか「明日」とかの簡単な単語さえ通じないんですね。数字もアラビア数字ではなくてペルシャ風の数字なので読めないし。それで、結構困った。でも、やり取りはしなければならない。そして、やり取りしているうちに自然に言葉を覚えていったんです。イランには1ヶ月ちょっと居たんですけれども、イランを出る頃には相手が何を言っているのか分かるようになっていましたね。

 そういう言語的な面白い体験もしたし、「一般的に言われていることと実際ってこんなに違うんだ!」って驚きもありました。そういうことがあったので、「自分の目で見ることは大事だな」って考えるようになりましたね。そういう経験があったから、大学を卒業した後も旅を続けるべきだと思ったし、今も旅に関係のある仕事をしているのかなと。

 

—— 現在、経営されている「パクチーハウス」なんですけれども、このお店のコンセプトはどのように旅と繋がっているんですか?

 まずはパクチーという食材に関していうと、日本ではほどんど食べないですよね。けれども、実は世界中で食べられている。基本的に食べない食文化は、日本と韓国くらいなんです。

 それで、旅先やエスニック料理店とかでパクチーに出会ったことのある人、そういう人を集めるためにパクチーという食材を使っているんです。パクチーを知らない人も多いから、それが旅人の印にもなるというか。知っている人っていうのは、だいたい旅の経験がある。要は話がすぐに分かる人たちですね。

 僕は、「旅人が集まるとどうなるか」とか「旅人たちが集まってどんなことが出来るのか」っていうことを事業にしようと思っているんです。

 

(了)

 

【佐谷 恭(さたに・きょう)】
株式会社「旅と平和」代表取締役。日本手食協会・理事長。「パクチーハウス東京」、及び「PAX Coworking」のファウンダー。著書に『ぱくぱく!パクチー』『みんなで作るパクチー料理』『つながりの仕事術 「コワーキング」を始めよう』(共著)がある。

photo by: farrokhi

インタビュー「終わらない旅の中を生きる 〜旅の快楽への誘いとその可能性〜」(short version) 大野哲也

この記事の所要時間: 646

Ambua Lodge in Central Highlands, PNG

 

※本インタビューは、全体の3分の1くらいのダイジェスト版です。
フルバージョンは2013年4月28日発売の『未来回路5.0』に掲載予定。

 

—— 5年1ヶ月という長い期間、旅をしておられたのですね。

 そうなんです。1993年の5月始めに出発して、1998年の5月終わりに帰ってきました。今となってはもっとやれば良かったなと思ってますけど。

 

—— 長い旅に出る動機みたいなものは何かあったのですか?

 旅に出る前に、1988年から1990年にかけてパプアニューギニアという国に行っていたんです。中学校の教員を休職して青年海外協力隊に参加して、2年1ヶ月。そこでの経験がとにかく面白かった。

 例えば、パプアニューギニアでは貝殻がお金として通用しているんです。正式名称は知らないんですけれど、私たちは桜貝と呼んでました。小指の爪くらいの大きさでピンク色をしたその貝殻が海辺に行くと山ほど落ちているんです。それに穴を開けて糸を通して20センチくらいの長さにしてマーケットに持って行ったら買い物が出来るんです。もちろん、それを銀行に持っていっても預金は出来ないんですが。正式に国が定めた通貨っていうのは別にあるんですけれども、普通の一般レベルの生活だと貝殻が貨幣として流通しているんです。そういうこととか面白いなぁ、と思っていたんです。

 

—— その貝殻の貨幣って、こちらでいうところの地域通貨の本格的なものですか?

 そうですね。貝殻って海辺で採れるから、私が住んでいた山奥ではほとんど流通していませんでした。たまに見ることはあるんですけれども、日常的には山では流通していない。

 パプアニューギニアっていう国は基本的に道路がない国なんです。だから、部族同士が孤立しているっていうか、山の部族と海の部族の交流がほとんどない。その分、部族内はすごく結束しています。大体、700くらい部族があって、言葉も部族の数と同じ700くらいあるといわれてます。それくらい多様性がある国なんです。現在、パプアニューギニアを調査している人類学者によれば、今でも貝殻の貨幣を使っているみたいです。

 それで、そういう経験をして帰ってきて、中学校の教員に復職したんですけれども、繰り返される日常がつまらなく感じました。

 そんなある日、青年海外協力隊の時の友達が遊びに来ました。彼と一緒に酒を飲んでたら「自転車で世界一周とかやったらおもろいでー」っていう話になったんです。実は彼は自転車野郎だったんです。私は自転車にはまったく興味はなかったんですが、彼のその一言に唆されて「そりゃいいな」と思ったんです。

 

—— あまり長期のバックパッカーをやられている方でその後、大学に戻るっていう人は多くないと思うのですが。

 私は元中学校の教員、公務員だったんです。つまり、はっきりいって手に職がないわけです。旅を終えて日本に帰ってきて、何の仕事をしようかと考えたら、自分にできる仕事が何もないわけです。それにそもそも仕事がやりたいわけでもない。それで自分はいったい何がやりたいんだろうって考えたら、ぶっちゃけ遊びたいんです。私にすれば、大学院は体のいい遊びでした。基本的に遊びの延長でした。

 5年間の旅の中で何が面白かったのかというと、最初は大自然を見るのが好きだったんです。自転車で移動しているから、誰にも会わない一言もしゃべらない日とかあるんです。けれども時々、人に助けてもらうこともあったんです。それでこれから何をしようって考えた時に、そういう出会いといいますか、「色んな面白い人がおったなぁ」ってすごく思い出すようになりました。結局、自然よりも人間の方が面白かった、ということでしょう。

 例えば、ロシアの北の方、北極圏の中に、ノバヤゼムリヤ島という島があります。そこに行った時には、牧畜民のおっちゃんがいて、大歓迎してくれました。「よう来た、よう来た、まぁまぁまぁ。」っていって、「ちょっと待っとけ」、というんです。「何をするんかなぁ」と思って待ってたら、自分が飼っているトナカイを一頭殺してきて、ナイフでシャシャシャと血を一滴もこぼさないようにさばいて、お腹をパカって開いて、そこにいっぱい溜まってる血をコップで掬って、「まぁまぁ、これを飲め!」というわけですよ。彼らにしたら最高のもてなし、ごちそうなんです。温かいし、栄養価は高いし。

 そういう光景が5年間の中に沢山あったので、人間って面白いなあってすごく感じたんです。それまで、私は人生で1回もまともに勉強をしたことがなかったので「一回、勉強でもしてみよう」と思いついたわけです。文化人類学や社会学という分野を専攻して人間について勉強しようと。

 

—— 著作ではバックパッカーの4つの型を提示されていますね、その中で特に「生活型」を評価されていますが、その理由はなんでしょうか?

 他の3つの類型は、どれもが分かりやすい話です。

 例えば、「移動型」だと、私もその1人ですけれども、出来るだけ沢山の国や町に行きたいというタイプです。50カ国とか60カ国とか。彼らの大多数は、旅の後は日本社会の日常に戻っていく。

 「沈潜型」っていうのは、1ヶ月も2ヶ月も同じ場所にいて、あたかもそこの住民のような生活をするのが面白いというタイプです。それも分かりやすい話です。

 それから「移住型」。現地社会が気に入ってそちらに住み着いちゃったという人たち。これもバックパッカーに限らずよくある話です。

 けれども、「生活型」っていうのは全然違います。彼らは旅をし続ける。旅をしてるその瞬間においてはどこの社会にも属してないんです。日本社会からは出ているし、現地社会の人からすればただの通行人です。そうだとすれば、旅の面白さというのは、境界線上を歩くということでもあると思うんです。

 なおかつ、バックパッカーは、基本的には自分1人でそれをやるわけです。3ヶ月したら日本に戻るっていうのは分かりやすい話ですけれど、それを30年、40年やり続けるっていうのは、全然「分かりやすくない」。彼らを突き動かす何かがあるんですね。日本には帰らない、もしかしたら帰れない、居つけないのかもしれませんけれども。

 もしかすると、それは私がパプアニューギニアから日本に戻って、「またこのつまらない日常か」と思ったのと同じ感覚がどこかにあるのかもしれない。同じだからといって、「彼らみたいに30年も40年も旅できるか」と言われると困っちゃうんですが。それができている彼らというのは相当凄いなっていうのが第一感なんです。なおかつ、彼らは金もないのにやってるんです。野宿しながら移動してたりする。よっぽど強い何かがあるに違いない。

 そこをどのように評価するのか。結局、彼らを駆動させているそのモチベーションや原動力っていうものをどう評価するのかってことだと思います。それを単なる日本社会になじめないドロップアウトとみるかアウトサイダーとみるか。彼らに寄り添ってというとおこがましいですけれども、そこに可能性を見出すっていうのが私の研究者としての立場です。

 私にはパプアニューギニアの経験や自転車旅行の経験、それに公務員になじめなかったという経験があるから、彼らの気持ちが私なりによくわかるんです。よくわかるけれども、私にはそれが出来なかった。それが出来る彼らと、それが出来なかった自分を比べてずっと羨ましく思っていました。やはり、彼らの姿をみながら自分を振り返ってますから。バックパッカーたちの話を聞きながら自分自身を振り返る、そういう作業をずっと繰り返しているんです。

(了)

【大野哲也(おおの・てつや)】
中学校教員、青年海外協力隊を経て、1993年から1998年までの5年1ヶ月の間、自転車で世界中を走り周る。帰国後、大学院に入学。現在、桐蔭横浜大学教員。専攻は、環境人間学。

photos by: petersbar & petersbar

インタビュー「『面白い!』を追求して見えてくる風景」(short version) 蔵前 仁一

この記事の所要時間: 518

バラナシ

 

※本インタビューは、全体の3分の1くらいのダイジェスト版です。
フルバージョンは2013年4月28日発売の『未来回路5.0』に掲載予定。

−− 今度、蔵前さんが最初にインドを旅行してから、雑誌『旅行人』を立ち上げ休刊するまでの30年間を単行本というかたちにされるとお聴きしました。その本を書いている中で何か新しく発見されたことなどありますか?

 そうだねぇ。まぁ、特に新しい発見というのはないんだけれど、来し方30年を振り返るなんてことは今までしたことがなかったんだよね。それで、昔のことを色々「ああ、こういうことがあったんだな」とか思い出しはしたね。

 例えば、僕は最初、漫画家になりたかったんです。子どもの頃から漫画ばっかり描いていたし、大学では漫研に入っていた。けれど、漫画家にはなれなくて。それでイラストレーターとグラフィックデザインの仕事をやっていたんですね。それを一度やめてインドに旅立った。そして、そんな旅行を繰り返してきた。その後、自分で出版社を立ち上げたんですね。

 そういう繋がり方に意味だとかは特にないんだけれども、例えば、漫画を描くということと旅することは、一般的にはほとんど関係がないでしょ。でも「旅行人」を作る時に、イラストが描けるとかグラフィックデザインができるっていうことはすごく強い武器になったんですよ。あと、小さい頃から同人誌を立ち上げたりして、そういうのが好きだったし。

 

−− この前、神楽坂でインド先住民アートの展示をされていましたが、そこに興味を持ったきっかけのようなものって何かおありですか?

※「インド先住民アートの世界
Art of Adivasi 旅行作家・蔵前仁一コレクション」
https://www.kagurazaka-kourintei.com/?p=2465

Wall Art Festival 2011

 インドを旅しだした最初の頃、カルカッタで物売りが来て、変な絵を売りつけにきたんですよ。それがすごく変な絵でね。下手なのか上手いのかよく分からない。何だかよく知らなくて、断っていたんですね。けどさ、何かずっと記憶に残っててね。

 それで、デリーに行った時にまた同じような絵を見つけたんだよ。なんなんだろうって思って、一枚買ってみた。それが最初の出会いですね。でもその時はまだインターネットとか何もない時代で、それがなんであるかは全然分からなかった。ようやくそれがミティラー画だっていうことを何かの本で調べて知って、それを『ゴーゴー・インド』に載せたんですよ。

 それから何年も何年も経つんだけれども、ミティラー画っていうものをインターネットか何かで調べた時に、それで新潟にミティラー画美術館っていうのがあるのが分かったんですよね。そこに観に行って色々教わったの。それで早速、雑誌『旅行人』でインドの民俗画の特集を組もうと思って。その取材を兼ねて行ってみたわけ。

 それで、色々な人に原稿を書いてもらった。そして、原稿をもらってそれを読んでいたら、その内容が自分の意図を遥かに超えてたんですね。

 ミティラー画っていうのはヒンドゥーなんですけれども、インドの民族の中にはヒンドゥーよりもっと古い先住民の文化があるって原稿に書いてあったんです。ミティラー画の中にも一部混在していると。それを読んでびっくりしてさ。「これは面白い!」と思って。それを現地に探しに行ったりするようになったわけですね。

 自分が人に原稿を頼んでそこから知ったんです。それ以外に日本には文献がほとんどなかったんだよね、たぶん。だから、出会いようがないんだよ。たまたま頼んだ先生たちが、そういう専門家だったので面白い原稿が揃ったんです。

 そうするとさ、今まで見てきたインドが全然違うように見えてくるんだよね。それがすごく面白かった。今はインドといえばヒンドゥーの世界だけれども、その古層にそういう文化があって、それがまだ現在でも息づいているという。

 

−− そういう隠れた古層を見つけたり探索したりとか、そういう興味の持ち方っていうのは蔵前さんの旅の基本にあるのでしょうか?

 最初の頃は旅行に出るとさ、よくわからないからガイドブックを読んで、名所・旧跡をみてさ。そういうのしか分からない。つまり、自分の視点がないわけだよ。そういう時期も随分長かったんだ。だけど、何でもいいんだけれども、例えば、農業をしている人だったら植えてある作物を見て僕たちだったら気付かないような発見をインドでするわけじゃない。そういうのが自分の視点なわけだよね。それがあるとやっぱり全然面白さが違ってくるよね。

 例えば、僕なんかグラフィックデザインをやっているから、インドでマッチのラベルとかそういうのをいっぱい集めたよ。自分はデザインとかアートに興味があるので。

 あと、何かのコレクションをしている人だったら、僕の友達に口琴が好きな人がいるだけど、彼だったらインドに口琴を探しに行ったりとか。古布をコレクションするとか。そうすると、同じインドに行くのでも全然違うところに行くようになるんだよね。そこに口琴や古布があれば行くわけだから。他の人からすれば変なところに行ったりするわけですよ。

 他の例を挙げれば、うちが出した本でアメリカの鉄道の好きな人がいて、鉄道の写真を撮りに行ってきてそれで本を作ったんだよ。それでさ、原稿に書いてある場所をGooglemapかなんかで確認するわけだよね。そうすると、本当に何にもないところなんだよ。砂漠の真ん中で、鉄道しか通ってないようなところ。絶対行かないよ、普通の人は。でも、鉄道に興味があるとそういうところに行っちゃうんだよね。そういうの、面白いなって思う。まぁ、買い物したいっていうだけでも結構違うんじゃない? ブランド物じゃダメだけど(笑)

(了)

 

【蔵前 仁一(くらまえ・じんいち)】

編集者、作家、イラストレーター、グラフィック・デザイナー。
主な著書に、『新ゴーゴー・インド』、『新ゴーゴー・アジア(上下巻)』、『わけいっても、わけいっても、インド』などがある。
2011年12月、23年続けた雑誌「旅行人」を休刊。

photos by: tnk_gn & tnk_gn

インタビュー「旅の経験をもとに居心地のいい場所を作っていく 〜日本社会の中で旅人のまま生きていく方法〜」(short version) KURATO & SACHI

この記事の所要時間: 931

A shot at Shimokitazawa station

 

※本インタビューは、全体の3分の1くらいのダイジェスト版です。
フルバージョンは2013年4月28日発売の『未来回路5.0』に掲載予定。

 

−− 旅に求めるものって人それぞれですよね。例えば、遺跡であったり、冒険であったり、食べ物であったり。

kurato:僕はあまり冒険的な旅の仕方はしたことがないんですけれども、そういう旅をしている人は多いですよね。見ていると旅っていうものを、何か形にする自分なりの方法を模索しているっていう感じはあるのかなぁと思います。

 自分自身は旅の初期の頃から、お店を開いていずれは独立しようと考えていたのですが、そうなると当然、旅で経験してきたことの匂いがするお店が出来上がるだろうと思っていました。何故なら、色んなものを見て感じてきたら、自分が変わっているだろうし、その変わっている自分は他の人とは違うだろうし。だとしたら、それだけで空気感っていうのは何か変わるのかなと思って。だから例えば、チャリダーになるとかそういうことは僕にとって必要がなかったんですね。

 

−− どんな旅のスタイルが理想的だと思いますか?

kurato:どんな旅のやり方でも自分を見つめるっていう部分は共通しているのかなと思います。そういうのを求めていない人でも、旅に出たらすぐ分かるかなっていうか。例えば、30時間もバスに乗っていれば、やっぱり自分と向き合うことになると僕らは思っているんですよ。

 でも最近気になるのは、facebookとか常に更新している人が多いこと。自分がどれだけ豊かな生活をしてるのかっていう主張をしているような気がしちゃう。

 僕らは自分に向き合う時間が贅沢にあって、それでヨガをやる人だったり、何かを横断したりする人だったり。皆、そのような状況に身を置いていく。例えば、ヴィパッサナーみたいな瞑想でもいいし、どんな方法であれ自分と向き合うことが出来た時に、今までと違う自分を発見して、より素直により自然に生活が出来るようになっていく。

 そういうことが旅を通じて気付けることの大きなひとつだと思うんだけれども、それが最近は変わりつつあるのかもしれないですね。

 

−− そうですよね。すごくカジュアルな感じで。日本社会と接続されたまま旅に出る、というか。

kurato:そうですよね。ずっと線がくっ付いてますよね。

sachi:この間も今度南米に行くっていう子が「facebookをアップしていくので、それが途切れたら私に何かあったと思ってください」と言っていて。でも、私は「普通は途切れるものでしょ?」って思いましたね。

kurato:例えば、海外で困った時には現地からfacebookで僕に質問してきたり。常に繋がっている感覚。

sachi:折角、切り離されてやっと旅を感じられるのに。それはお店をやり始めてすごく疑問に感じているところです。

kurato:僕らが最初に旅に出た頃って、旅の話を聴ける人って周りにいなかったですよ。誰もいなくて。誰もいないけど、その場所に惹かれて足を運んだら、同じような仲間がそこにいて。情報交換が出来るし仲良くもなれて。それが今は、何かあったら日本にいる人を頼りにしているというか。

 僕自身はそういうしがらみを全部取って、完全にフリーになる為に結構苦労しながら旅立ったんですけれども。最近はその逆のことをしてるなっていう。ちょっとびっくりしちゃいますね。

 

−− 最近の旅行作家の方々も日本社会の延長線上として、旅を描いていく人が増えているように思います。

kurato:それだけ、孤独というものを求めていないということなのかな。現在、社会が不安定というか未来が見えない時代じゃないですか。だからこそ完全に独立するっていうことが本当に怖い。僕らの世代は「高度成長期があってバブルがあって」っていう時代で、いろいろ経済的な面でも落ち着く場所がまだまだあったのかなって。

 

−− 何とかなるだろうっていう心理的な余裕があった、と。

kurato:今、それがあまりないのかもしれないですね。それが「繋がる」っていう意識になってきているのかもしれない。特に震災後、そういう流れが大きかったと思うし。そういう意味では良いんだか悪いんだかなぁと思っていたけれども、なるべくしてなっているって部分はあるのかなと思いますね。

 

−− 特に大学生とかだと、旅に出て戻ってきた時に活かせる経験として旅してる感覚の影響もあるのかなぁと思います。

kurato:最近、大学生の旅サークルがいっぱいあるらしくて。チラシを置きにきたりとかイベントの告知とかに来たりするんだけれども、若い子たちがビビットに反応する部分としては、例えば、高橋歩さんとかの「好きなことをやれよ」っていうメッセージがあると思うんですよね。それが今の10代の子たちにとって何が好きなことに色々な選択肢があって、その中に「旅」っていうものがあったりとか。

 その次あたりにあるのが、たぶん自己表現というもののように思うんだよね。堅実性ということよりは、やっぱり「夢」っていう美しいものに目指していく。「夢」を追いかけるためにどーんと行くっていく印象を20歳くらいの子から受けたりする。まだ社会にまだ出てないから、ある意味、汚されていない。汚されてないから美しい「夢」に飛びついていくっていうスタイルなのかなと。だからすごく競争的に人が沢山集まる。そういう感じがあります。

 

−− 例えば、小林紀晴さんの『アジアン・ジャパニーズ』みたいな何となくふわっとした感じとか、日本に生きていて何となくなじめないとか違和感を感じるとか。そういうところから旅に出るって人たちは今、少なくなっているような印象を受けます。例えばニートや引きこもりの人たちが一時期のバックパッカーの中の勢力としてあったと思うことがあるのですが。それは家の中が充実しているってこともあるんでしょうけれども。

kurato:そうかもしれないですね。今は外に出なくなっちゃってるから、ニート的な人たちは。まぁ、昔のバックパッカーには普通にコミュニケーション能力の欠けた人も沢山いましたからね。

 

−− 今の若いバックパッカーたちはコミュニケーション能力がむしろ高い。

kurato:長けてますね。バックパッカーの総数が増えたことは間違いないと思います。世界一周ブログなんてのを見ると何千人っていう人数が今現在、世界一周してるし。それから考えると僕が世界一周していた頃と同じように一周した人って二、三人くらいしか会わなかったし。今、世界一周したら、たぶん100人以上に会うだろうし。それくらい変わってきている。バックパッカースタイルの旅が、「陰」じゃなくて「陽」になったっていうか。コミュニケーションを色々な人と取りながら色々な経験をして、それを何かに活かそうかなってくらい。やっぱり、後にビジネスまで活かそうとして旅してる人が多いようですね。

 

−− 旅って一般的には物理的な空間を移動することを言うと思うのですが、現在、定住していてこの場所で旅を続行している感覚ってありますか?

kurato:僕は今、ここに定点として立っているわけですけれども、前は自分がグルグル回っていたんですよね。それがこの下北沢っていう場所で急にパッと立ち止まった。だけど、ここに来る人が逆に周っているんですよね。むしろ、ここにいた方が出会いが多いんじゃないかって思えるくらい。世界で会った友達がここに会いにきたり、その人がもう1人連れてきたり。もしくは、旅にあまり関係のない人が何かこの空気感に惹かれてやってきて話をする。普通の飲食店ではありえないくらい僕らはお客さんとコミュニケーションを取っているんですよね。そもそも旅でのコミュニケーションを都会で実現しようかなっていうことで始まったカフェなので。それが普通にできているってことかなって思います。だから、ストレスを全然感じていないし、毎日が楽しい。だから、気持ち的には旅をしている時と何も変わっていないですね。

 だからよく旅をしてきて日本に帰ってきた友達が、お店に来て話した時に、「なんかあの時のものを忘れてないよね。」っていうようなことを言ってくれるんですよね。まぁ、このことなのかなって。

 「×」を付けない。普通は組織に入るとみんなと違うことにどちらかというと「×」を付けたがる。そういうのがちょっと働くんですけれども、「あっ、それもいいんじゃない?」とか「これもいいよね」とか。そういう許容範囲の広さって、結構、旅の中では日常茶飯事で。こういう都会でそういうのが同じようにあると、「その緩さ、いいね」っていう感じになる。たぶん僕は、一生そんな感じなんじゃないですかね。

 

−− 今後の展開について、何か企画していることはありますか?

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kurato:これは初期の段階から考えていたことなのだけれども、次は宿をやりたいと思っています。というのは、僕らが発信したいことや都会のカオスの中にオアシスを作りたいっていう気持ちでこの場所を持っていますけれども、やっぱり日本の自然の良い空間というかそういう場所で宿をやりたいと思っていまして。そこにはちょっと此処みたいにカフェを作ってみたり。そのカフェも地元の人たちが来れるような場所にしたい。そんな感じで僕らはその自然の中で宿をやりながら生活して、たまに下北沢に来る、と。

 そして、宿である以上、シーズンオフっていうのが存在しちゃうので、そのシーズンオフに世界を旅しようと。年の一ヶ月か二ヶ月、世界を周っていて、残りの10ヶ月くらいその宿にいて、月に一回か二ヶ月に1回くらい下北沢に来るっていう1年のサイクルで。そういうスタイルを最初のパッケージとして考えてスタートしたんですよ。その第一弾として、ここのカフェがスタートしたんですね。

(了)

 

【KURATO】
19歳の時に旅をはじめる。
30歳になって仕事を辞めて旅に出た。アジアから西へ西へ中東を越え、ヨーロッパへ渡り、お金が減ってきたんでロンドンで1年働いた。そしてアフリカへ南下して2000年のミレニアムを喜望峰で過ごした。南米に飛んで、今度はひたすら北上して北米を目指した。そしたら3年半が過ぎていた。それでも西へ行こうと太平洋を渡ったら、どこかで見た見慣れた風景があった。
気がついたらまたあの東京の街で俺達は友達の作った家に住むことになった。セトルダウンするつもりはなかった。またいつか行く為にどうしたらいいんだろう、、。独立しようと思った。そうだ!カフェをつくろう!
旅カフェ「Stay happy」https://cafestayhappy.com/

【SACHI】
大学4年の時、初めてヨーロッパを一人旅して旅の面白さを知る。就職先は決まってたけど、絶対3年以内に辞めてあてのない旅に出ようと決心。そうこうしてるうちに、今の旦那と知り合い「じゃ一緒に旅に出ようか」と言う事に。二人旅の面白さも知る。結婚したら旦那が「カフェをやりたい」と。

インタビュー「世界の『果て』の探し方 ~ 好奇心から2万人規模の生活共同体の構想へ~」(short version) 田原 千

この記事の所要時間: 76

Waseda Street Walk from Takadanobaba to Kagurazaka
※本インタビューは、全体の4分の1くらいのダイジェスト版です。
フルバージョンは2013年4月28日発売の『未来回路5.0』に掲載予定。

 

—— はじめての海外旅行ってどんな感じだったんですか?

 1990年くらいの時、俺が19歳ではじめて海外で中国に行ったんだ。そのキッカケはヨーロッパまで行く、誰かの本だったかなー、「10万円くらいで日本からパリまでいける」みたいな本だったね。

—— 下川裕治さんの『12万円で世界を歩く』ですかね。

 多分そうだね。それを買って読んで、「おっ、10万円くらいで陸路で行けるんだ」と。そう思って出発したんだけど、当時は湾岸戦争が始まった頃で。それで1、2ヶ月くらいで1度日本に戻ってきたんだ。

 その1度目の旅では、中国の人って戦争の関係もあるんだろうけれども日本のことを知っている人が多かったんだよね。でも、俺は知らないじゃん。日本国内を全部行ったわけでもないし。それで、1年くらいかけて日本を一周しようと思った。結局、3年くらいかかったわけだけれどもね、日本一周するのに。

 そして、その後、1994年にまた中国に渡って陸路で世界を周り、2000年くらいに戻ってくることになる。正確には1999年の12月に日本に帰国した。

 

—— その時は6年間くらい。

 うん。6年くらい周ってたね。

 

—— 場所はどの辺りで終了したんですか?

 最後の地はハンガリーだったね。

 

—— ハンガリーで帰ろうと思ったきっかけは何かあったんですか?

【Hungary】ブタペストのクリスマスマーケット♪

 もともとアジアを周って金がなくなったらちょこちょこ現地で働いてたんだけど、トルコで日本に帰る金がなくなったのね。3万円くらいしか手元になかった。それで、チケットが当時80ドルくらいだったかなぁ。片道でイギリスのロンドン行きのチケットを買ったわけ。ロンドンで働くつもりで。

 で、ロンドンで働いた。そこである程度稼いだあと、中近東に戻ってアフリカに入って、その後でヨーロッパを自転車で回ろうと思って。それで周ってたんだけれども、当時、モスクワで爆弾テロがあったんだよな。確か1999年だね。本当はそこからシベリア鉄道に乗って、中国で降りて、船で日本に帰ろうと思ったんだけれども。

 当時、ハンガリーが最後っていうよりも、スロバキアに行った時にある日突然、「もういいかな」、と思ったんだよね(笑)。何かきっかけがあったわけじゃないんだけど。何か、お腹いっぱいになったんだよ。要するに飯食うのと一緒だね。飯食って、お腹いっぱいになる時ってあるじゃん。どんなにごちそうがあっても。そんな感じ。

 

—— 日本に帰ってきてからゲストハウスを経営するに至る道筋ってどんな感じだったんですか?

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 うちに不登校児の男の子がいたのね。その子の両親から子どもをちょっと預かってくれないかと言われて。

 預かるっていっても、うちにも泊まっていいよくらいな感じで。そんな感じでやってたんだけれども、泊まれるだけのスペースがちょっとあったんだよね。はじめ借りた物件は、子どもを泊めさせるだけの場所を親が借りたんだよ。高田馬場にね。当然、子どもは毎日は来ないからさ、俺の周りの金のない連中が続々と集まってきて、うちに泊まったわけよ。一番多い時で、十数人くらい一緒に住んでたかなぁ。

 で、それはそれで良かったんだけれども、ある時、俺に子どもが出来たからね。それでちょっと考えて、「じゃあ、黙って10年間働こうかな」と。その時に作ったのが「BAR 軍艦島」だったりとか、陶芸教室だったりとか。俺が陶芸をやっていたからさ。それと同時にゲストハウスを作った、と。それで当時うちに泊まっていた連中をそこに移した。まっ、自然の成り行きだな。

 

—— 沖縄にも運営しているゲストハウスがあるんですよね?

沖繩 Okinawa

 うん、あるよ。沖縄はもともと俺が花粉症なのと、しばらく西表島でパイナップル畑で働いていたとかそういう縁もあってね。店を出しているのは本島なんだけれども。

 俺、花粉症が酷くてさ。一ヶ月とか二ヶ月とか普通に仕事できない。突然発症したんだよね。ほんとに重度で。まともに呼吸が出来ないくらい。こんなに酷かったら仕事にならないから、北海道か沖縄に仕事場を作ろうと。それで、その時はたまたま沖縄に作った。花粉症の季節だけ沖縄で仕事をしようと思ってさ。

 

—— では、沖縄に特に強い思い入れがあったわけではなく。

 そうだね。思い入れがあったというよりも仕事を楽しくするためにっていうのが先かな。東京に本社があって、支社が沖縄や北海道にあったり大阪にあったり。そうすると、いわゆる出張ができるじゃん。来月1ヶ月沖縄に出張、とか。そういうの、楽しくない?うちのスタッフは楽しがるわけ。他のスタッフとも会えるし。うちは基本的に出勤時間もなければやることだけやっておいてくれれば、あとは自分でスケジュール組んでって感じだから、仕事はもちろんするんだけれども、現地のスタッフと飲みに行ったりとかできるし。

 人間って同じ人たちでずっといると、どんなにいいメンツでも若干淀んでくるんだよね。でも、そこに新しい人が1ヶ月とか2ヶ月とか来たら、それはそれでまた盛り上がるじゃん。東京から来るらしいから歓迎パーティとかやろうぜ、とか。で、楽しく仕事をしてまた東京に戻ってくると。そういうのが俺は、楽しい。

 だから、沖縄に思い入れがあるっていうよりも、まっ、多少はあるんだけども、色んなところに仕事場があって、それにかこつけてあちこちに行けるのが楽しいってことだね。

 

—— 現在、考えている今後の展開とかってありますか?

 あるある。それは始めから考えてたことなんだけれども、うちの目標は衣食住を押さえるってことだね。うちの法人の看板は「貨幣経済に一撃を」なんだよ。結局ね、お金っていうのは便利なんだけれども、そこには使用料が発生しているんだよね。例えば、千円で千円のものは買えないから。お金っていう媒体を使って便利なんだけれども、間が抜かれている。それは当然なんだよ。それは当然なんだけれども、必要以上にピンハネされていると俺は思っている。

 だからそれよりも今、円高とか円安とかやってるけど、そこに直結するような仕事をしていたら当然、影響を受けるじゃん。あんまり、そういうのに影響を受けない生活をしたいわけ。昔から農業がやりたいと思ってるんだけど、そこにゲストハウスを作ったりして。あと、陶芸とかそういうの全部できるから、生活を半自給自足にしたい。

 で、自給自足っていうのは大変なのよ。いろんなところにヒッピー・コミューンとかあるんだけれども、ほんとに大変だから、あれは。農業とか素人がやっても、なかなか続かない。だから、もともとやっている人とコラボをする。

 んで、要するにそれはコミュニケーションの拡大なわけよ。例えば俺は今、ブラッディマリーを飲んでいるんだけれども、このガラスを作ってるやつ、このトマトジュースを作ってるやつ、ウォッカを作ってるやつ、と会ったことがないわけね。俺はそういう連中と会いたいの。

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 例えば、俺の友達が「頑張ってウォッカを作ったんだけれども」って言ったら当然仕入れるよ。そして、それを飲む時に「このウォッカの味はあいつが作ったんだな」とかそういうことを考える。そういう距離感が好きなんだよね。

 何か訳の分からないものを飲んでたり食べてたり触ってたりするのが、あまり面白くない。それは面白いか面白くないかの違いだね。「だめだ」、とかじゃなくて。知ってる方が面白いな、と。ちゃんと見えた方がさらに面白い。そういう生活を一生続けたいんだよ。なるべく、見えてるほうがいい。んで、「今年のトマトジュース、超美味かったよ!」とかそういう会話をしたい。

 

【田原 千(たはら・せん)】
6年間の海外放浪の後、2003年に陶芸教室「からくり粘土」を開講。同年、「BAR GUNKAN島」と「てんてんゲストハウス」を早稲田にオープン。その後、順次ゲストハウスをオープンし、現在は全体で数店舗のゲストハウスを展開中。「株式会社からくり粘土の遊園地社」代表。