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「生まれる場所さえ違えば意外と名君だった?カリオストロ伯爵の再評価について」、『ルパン三世 カリオストロの城』(監督:宮崎駿)

この記事の所要時間: 346

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【注意】この話は「ルパン三世 カリオストロの城」のストーリーを知っていることを前提にしています。
当然のようにネタバレが含まれますので、見たくない方はすぐにこのページを閉じてください。
また、録画したものなどを確認して書いているわけではないので、うろ覚えの点についてはご容赦願います

1.

金曜ロードショーで放送されていた「ルパン三世 カリオストロの城」を見た。
もう何度も繰り返して見たので、正直見飽きた作品ではあるが、それでもテンポが良く見られるのは、それだけ作品構成が優れている証拠だろう。

で、今回なんとなく気づいたのが、敵役であるカリオストロ伯爵の目的である。

普通にぼーっと見ている限りでは、伯爵はクラリスを妻とすることによって、国の正式な大公となることであるかのように思える。もちろんそれも当然目的の1つではあるが、ならばなぜ伯爵はクラリスと同時に、あの指輪と財宝の謎に執着したのであろうか。僕は今まで、それを「まぁ悪役だし」と思って見ていた。でも、今回ちょっと違うのかなと考えた。

2.

ヒントになるのは劇中で、峰不二子が盗み聞きをする、伯爵と偽札技師の会話だ。

伯爵は「このところ質が落ちていくばかりだ」と嘆き、技師は「今のような大量生産を続けては」と言い訳をする。伯爵は「やり直せ、納期も遅らせるな」と突き返す。
この短い会話の中に、かつては世界中を裏で牛耳る力を持っていた偽札であるゴート札の凋落が見える。つまり各国の紙幣製造技術の進化に対し、ゴート札は少々遅れを取りつつあったのではないかと思われる。
ボトルネックが贋作師にあるのか、印刷機などの設備にあるのかは分からないが、公爵はカリオストロ公国の裏側を担ってきただけに、この国の権力の源がゴート札にあることを誰よりもハッキリ理解している。だからこそ技術の僅かな遅れをクリティカルに感じ取っていたのではないか。
そこで伯爵は、城に伝わる財宝を手に入れさえすれば、印刷技術の革新を推し進められると考え、財宝に執着したのではないか。

もし、伯爵が凡庸な人間であれば、遅かれ早かれゴート札の威信は地に落ち、あっさりと他国に潰されていただろう。これまでの歴史を考えれば他国からかっている恨みは相当なものに違いないのだから。
そうした意味で、もし国をクラリスが継いでいたとしても、その末路は悲惨なものでしか無かっただろう。国の暗部を負うには、お姫様は純粋すぎたのだ。
しかし、伯爵は才能のある人間であったから、先手先手を打って活路を見出そうとした。その結果として、自分の国を水没させてしまう結果にはなったのだが。

3.

あと、伯爵関係で気づいたこと1つ。

伯爵は、女たらしで卑怯な手を使う人物であるが、決して卑劣ではない。
その証拠としては、部下が幾度と無くルパン相手に失態を晒しているにもかかわらず、彼らを役職から追放したり排除していないからだ。
ルパンに騙されたジョドーとグスタフが落とし穴に落ちかけるシーンがあるが、カリオストロ伯爵はこれを笑って許している。仮に彼らを粛清したところで、事態は好転せず、自分の手駒が減るだけのことを理解しているからこそだろう。

ちなみに、落とし穴といえば、カリオストロの城では、アニメの悪役には欠かせない例の「突然開く落とし穴」が多用されているが、用いられるのは必ず、侵入者の排除においてのみである。アニメの悪役は、失敗した部下を粛清するためにこの穴を利用するが、カリオストロ伯爵はそうした用い方をしていない。

生まれる場所さえ違えば、カリオストロ伯爵は名君として讃えられた人物かもしれない。そう思えるほどに良い悪役だと、今更ながら気づいた次第である。

 

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【赤木智弘(あかぎ・ともひろ)】(@T_akagi
1975年8月生まれ フリーライター。長きにわたるアルバイト経験を土台に、非正規労働者でも安心して生活できる社会を実現するために提言を続けている。『若者を見殺しにする国』(朝日文庫)。『当たり前をひっぱたく』(河出書房新社)。

「〈島〉の住民たちに〈海面下〉のことを伝える人びと」、『コミュニティ難民のススメ』(アサダワタル 著)

この記事の所要時間: 54

コミュニティ難民のススメ ― 表現と仕事のハザマにあること ―

1.リスクヘッジとアイデンティティの喪失

 

著者のアサダワタルさんは、フワッと何かに護られいるような印象を受ける人だ。もちろん、それは僕の主観にすぎないわけだが、本書を読んで何故自分がそう思うのかが分かったような気がする。

それはつまり、ひとつの業界、コミュニティといったものに依存しなくても何とかやっていける人だということなのだ。まだちょっと、わかりにくいと思うのでもう少し説明してみよう。

複数の場所に足場があって、たとえ、その中のひとつが何らかの理由で失われたとしても、とりあえず、致命的な結果にはならない、ということなのだ。そのような強さは、Web上の情報ネットワークに似てるところがあるかもしれない。

それはリスクヘッジとしても非常に理に叶っている。けれども、本書で「コミュニティ難民」と称されるこのような依り処が複数化したような状態は、リスクヘッジとだけでなく、アイデンティティの喪失というかそういう不安と隣り合わせでもあるということなのだ。

 

2.「コミュニティ難民」というイメージのありか

 

けれども、そんな心理的な苦悩もここではとりあえず、横に置いておこう。なぜならば本書は、そのよく分からなさを少しわかるように説明することがひとつの目的でもあるからだ。ということで、この「コミュニティ難民」という概念の内実に移ってみよう。

ここではコミュニティというものをひとつの〈島〉としてイメージしている。そして、「コミュニティ難民」とは、その〈島〉の住人にならずに、海上に舟に乗ってフラフラしているような存在なのだ。そして、その舟で様々な〈島〉を行き来している。言ってみれば、健全な海賊みたいなものなのだ。

〈島〉の住人たちにとっては、この「コミュニティ難民」が何者なのかよく分からない。警戒すらするだろう。ていうか、本人も自分のことをよく分かっていなかったりもする。

けれど、〈島〉の端っこにいたりする〈島〉の住民の中でも変わり者のような人は、この「コミュニティ難民」が海上を漂っている様子が見えるのだ。それで、彼らを〈島〉に呼んでみたりする。このことにより、「コミュニティ難民」はその〈島〉の住民たちと交流を持つことになるのである。

 

3.〈島〉の住人たちに〈海面下〉の様子を伝える

 

「コミュニティ難民」は、〈島〉の住人たちに声をかけてもらったりして、そこで生活の糧を得ることもできるわけだ。けれども〈島〉の住人からしたら、「コミュニティ難民」は何をもたらす存在なのだろうか?

そのひとつは、〈島〉をちょっと距離をおいて眺めることができているので、「マレビト」としての効果も望める、というのがあるだろう。

「マレビト」とは、他の世界から一時的に来訪する存在のことをいう。これは民俗学者の折口信夫の思想体系を語る上でも重要な役割を果たす概念であり、彼らは外からの風として、コミュニティ内の代謝やバランス感覚の維持に貢献したりもする。

彼らが重要なのは、コミュニティの〈島〉と〈島〉が海面下で緩やかに繋がっていることを知っているからだ。そのつながり方は、海上にいないと見ることが難しかったりする。けれども、それらが〈島〉から見えにくいといっても、海面下で起こっている変化はやがて〈島〉の日常にも及んでいく。

その海面下の変化、海面下の絶景を〈島〉の住民たちに伝えること。それが「コミュニティ難民」たちが持つ重要な社会的機能なのだ。コミュニティとコミュニティの間にある境界線上にいることによって、そんな機能を担うことができたりもする。

 

4.より多くの人びとに〈海上〉の様子を伝える

 

本書はそんな風に、「コミュニティ難民」という概念をあれやこれやと説明していくという内容になっている。例えば、小説家・平野啓一郎氏の「分人主義」などのアクチュアルな話題とも重ね合わせられながら、快調にその輪郭を露わにしていくのだ。

今でも「コミュニティ難民」としての実存を抱えるアサダさん。そして、そんな彼だからこそ、見えてくる風景や人があり、それがこの本の中で可視化されているのだ。

この本では、「コミュニティ難民」としての度合いが強いと思われる具体的な人びとの紹介に多くの紙面が割かれている。その人びとを点とすると、その点と点を結んで、ひとつの星座を描き出しているのだ。だから、ここで著者は〈海面上〉の様子を読者に伝えている、と言えるかもしれない。

〈海上〉の漂ったり、〈島〉と〈島〉を移動し続ける舟「アサダ丸」。しかし、その舟もまた、結構立派な舟なのかもしれない。他に例えば、今にも穴が空きそうな舟とか、もうすでに舟は沈んでしまって海を泳いでいる人といるかもしれないし、海底を歩いているかもしれない。そういう人たちは海中で狩猟採取生活をしているわけだから、〈島〉との交流はほとんどないだろう。

その意味で、本書で紹介されている「コミュニティ難民」たちは、ひとつのコミュニティを生成しつつある過程にある人たち、とも言えるのかもしれない。そしてまた、そこには新たな「外部」が生まれるのである。

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(了)

【中川康雄(なかがわ・やすお)】
旅とWebとCultureと。もともとは現代思想やアンダーグラウンドカルチャーといった比較的抽象度の高いジャンルにいたり。関心領域は、Philosophy、Sociology、Media、Art、海外放浪、ソーシャルグッドなど。
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個人ブログ:https://insiderivers.com

「政治の領域まで浸透した『ファスト文化』に熟慮の種を撒いていく」、『啓蒙思想2.0』(ジョセフ・ヒース 著)

この記事の所要時間: 247

啓蒙思想2.0―政治・経済・生活を正気に戻すために

1.スピードが私たちを在らぬ場所へ連れ去っていく時代

「理想は、私たちをもっとバカにではなく、もっと利口にする環境を生み出すための操作の対象のみならず、相互に作用しあう制度ともに協働していく、そういう世界である。」p.378

現代はハイスピードであることが前提となっている社会だ。そして、そこにはとても危険な罠がある。

なぜなら、それは人間の「理性」という能力を鈍らせたり麻痺させてしまうからだ。多くの人が、このスピードのとりこになり、同じような狡猾なウィルスに感染している。それは「ファストライフ」というウィルスだと言えるだろう。

そして、その状況は消費の現場だけの話ではない。政治的決定においても、そのウィルスは影響を与えている。「ファスト・ポリティクス」へと移行し浸透してきているのだ。それが本書における現状認識といえるだろう。

その「ファスト・ポリティクス」に対抗し、「理性」の能力を社会に活かす回路を強めること。それが本書における「啓蒙」というものになる。つまり、失われてしまった「理性」の社会的地位を、現代版にアップデイトした形で再起動する、ということなのだ。

2.本書が提唱する「スロー・ポリティクス宣言」とは?

そのためには、どうしたらいいのか。著者は、本書の最後の方で「スロー・ポリティクス宣言」なるものを掲げている。

そこで「理性」の地位の復活のために3つのステップが書かれている。

1つ目は、それを可能にする条件をよく理解すること。2つ目は、その条件を改善する方法を熟慮すること。そして3つ目は、改善をもたらすための集団行動に取り組むこと。

このようなステップを踏むことでしか、スピードに連れ去られることによって起こる「理性」の劣化効果を払いのけることはできない、というのが本書の主張なのだ。

3.消費と政治の場で起こっていることの共通点

つまりは「ファスト文化」という視点から、現代に消費と政治の場で起こっていることの共通点をみることができるのではないだろうか?

消費の場では、その商品が並ぶまでの過程が見えずらくなる。その商品を作り出すための産業のあり方や現場の痕跡は極力排除される。政治の場では、例えば10秒間でキャッチーなフレーズを連呼し、政策の内容ではなくイメージが支持される上での最重要なファクターになっている。

つまりは、市場で起きていることが、政治の世界にも起こり始めている、といえるのかもしれない。そして、その行き過ぎを食い止めることは、どうも並大抵のことではないようである。それほど根深い問題なのだ。

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(了)

【中川康雄(なかがわ・やすお)】
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「その読後感の変化に驚く。『スピード』が支配する社会がたどり着く場所」、『自由からの逃走』(エーリッヒ・フロム 著)

この記事の所要時間: 325

自由からの逃走 新版

1.私たちの「自由」は今、どのような道をたどっているのか?

「自由の追求は形而上学的な力ではなく、自然法によって説明することはできない。それは個性化の過程と文化の成長の必然的結果である。権威主義的組織は、自由の追求を生み出す根本的条件をとり除くことはできない。またこれらの条件から生ずる自由の追求を、根絶させることもできない。」p.260

考えることや自分の権利を放棄することが、結局、自由を放棄することになる、という話。現在の日本の中で読み返してみると、なんだか特別な読後感が訪れてくるのではなだろうか?学生時代に基礎テクストとして読んでいた頃とは全く感覚が異なっていることに驚いた。

もちろん、それは私自身が変化しているということもある。しかし、それだけではないことは明白だ。つまり、本書で分析され警告された状況が、もうすでにここに訪れ始めているからだ。もうすでにその内部を生きている、とも言えるだろう。いや、この時はむしろ、ずっと前から準備されたものでもある。

2.「スピード」に支配される社会

現代という時代は、「スピード」というものが支配を可能にするために、とても重要な位置を占めていると言っていいだろう。「スピード」が支配権を得る文化、つまり「ファスト文化」は、政治の世界にだって大きな影響を与えている。例えば、10秒間で語れるようなキャッチャーな主張を繰り返すなどの方法は、現代が「スピード」によって支配されていることを、フルに活用している例だといえるのではないだろうか?

けれどもそこには、ただ直感的に心地が良いなどの判断基準くらいしか存在しない。つまりそれらは、熟考することに寄与するような方法ではないのだ。しかし、考えることの負荷と閉塞感や焦燥感が相まって、多くの人々は直感的にそれらのキャッチャーな主張に吸い込まれ同化していく。

3.そのような状況にどうアプローチが適切なのか?

「思想が強力なものとなりうるのは、それがある一定の社会的性格にいちじるしくみられる、ある特殊な人間的欲求に応える限りにおいてである。」p.310

そのような状況を危惧し変化させなければと考えるのなら、そのために何ができるだろうか?

私個人の関心事はメディアに寄っているのでその観点からいうと、内容の濃厚さに特化したメディアと、売れることや見られることに特化したメディアの良いところを昇華したようなメディアが必要なのではないか、と思うところがある。

つまり、届ける内容が重要なのはもちろんのことだが、それを広く届けるためのテクノロジーをもっと磨くことを意識する、ということだ。本書は、学問の場からの警鐘であるが、日本においては、それを大衆化し浸透するためのテクノロジーを磨くことを軽視してきたところがあるのではないだろうか?

それらの努力を軽蔑し、象牙の塔の中でコミュティを築き、その中で世を嘆いているような振る舞い。おそらくは、そのような振る舞いが「自由」を次々と手放している状況に加担すらしているのではないだろうか?何故ならそれらは、「ガス抜き」であり「免罪符」としか社会の中で機能していないように見えるからだ。

そのような振る舞いの蓄積が、現在の日本のような状況を作り上げてきたこと。そのことに、私たちはそろそろ気付かなくてはならないのかもしれない。

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(了)

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「この世は三十路女のための教科書を沢山つくってくれている」、『ピスタチオ』(梨木香歩 著) 評者:北原しずく

この記事の所要時間: 312

ピスタチオ (ちくま文庫)

 久々の梨木香歩さんの新刊。「西の魔女が死んだ」で有名な、優しい物語を紡ぐのが上手な作家さんのひとりです。
 が、今回の梨木本はこわかったです。凄味があります。あらすじは書店に行って裏表紙を読みましょう。笑
 彼女の作品は、全体的にふわふわおっとりしているけれど、とても冷静で、動じるところがなく、まるで鍋を吹き溢してしまった自分を3メートル上空から他人事のように観察している書味です。ここまではいつもの梨木節なのですが、今作品は、接合しているはずの運命が拒まれているような、そんな感覚がします。こわい感じはこの違和感からだと思いました。
 文体が優しく、小さな感情を丁寧に拾い、かつ分かりやすい言葉で率直に表現をしていたのは救いです。ああいつもの梨木さんだ、と、ほっとします。少し心が荒んでいるとき「こうして棚ボタでも慰められることが起きたとしたら、人類捨てきれないなあ」と、ゆるゆると元気を取り戻せる癒し作家さんだったので、不吉な予感がしようが人が死のうが、未知との遭遇があろうが、嫌な感じをそのまま書くことはあまり無かったように思うのですが、随分と暗がりを書くのが上手になった、の、ね……。

 女性の作家さんは筆の変化が分かりやすいので、年月を追って読んでいくのが面白いです。よく「女の曲がり角」といいますでしょ? アレがねえ、本当に出る。笑
 変わり方について、先人の佳き表現として「三十路女のハマる三つの闇」っていうのがあります。では声に出して読みましょう。

不倫! 宗教! 占い!

 はいこれがお手元の教科書に太文字で書かれている重要な単語です。ここはテストにでるところです。人生の歯車を音立て狂わす魔法の落とし穴です。これからハマる人も、ハマった後の人も、よく学びましょう。大丈夫です。この世は三十路女の行く先を憂いて沢山の教科書を作ってくれました。癒し系と看做していた梨木さんですら、です。この世は純粋無垢である事が難しく、エロかオカルトかノータリンに至るのですね。さよなら少女性。私は安心して道を踏み外す(29歳)。
 という訳で、梨木さんはどこへ向かったかと言いますと「オカルト」ルートを選択したようです。判断は単純に、素材です。呪術、医療、運命(ワードだけを取り出したら田口ランディさんみたいですが、底意地の悪い猥雑な描写はなかったです)。
 主人公の飼っている犬の名前が「マーサ」というのもあざといなと思いました。マーサってマルタの英語形でしょ。思い浮かんだのがマルタ騎士団でした(簡単に説明すると医療活動をしているカトリック信徒組織のことです。アフリカ全土に出向いていました。国レベルの力を持っていました。バチカンみたいな感じかな)。やりすぎだろ〜と茶化してしまいました。

何だか長くなってしまいました。
まとめると「梨木さん変わりましたね?」という感じです。是非、デビュー作から追って読んでみましょう。

完読時間:2〜3時間(通勤80分×2日分。)
コスパ:一気読みがおすすめなので、新刊で買うと損した気分。が、ちくま文庫でこのお値段は余り見ないお安さ。ちくま文庫を棚に増やしたいならいいかも知れない。笑
星:★★★☆☆(2.5くらいかなぁ……)

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(了)

【北原しずく(きたはら・しずく)】(@cuww)
東京女子大学現代文化学部卒。20代独身メス負けそう組。広告会社を皮切りに、ころころ職を変え続け、現在は毛糸業界に身を潜める一方で、金の稼げない物書き業を営む。

「いつの間にか聴こえなくなってしまった声の元へ」、『棄国子女』(片岡恭子 著)

この記事の所要時間: 21

棄国子女: 転がる石という生き方

「命よりも大切なものなんてない。人生は一度しかない。刷り込まれた幻想に振り回されるのはやめよう。」(p.11)

「旅」という行為には、人それぞれ、様々な意味合いがある。それは人生そのものと考える人もいるだろうし、また、日常から離れてリフレッシュする手段のように考えている人もいるだろう。

本書の著者、片岡さんにとって、それは生きづらい日本社会のしがらみから離れるための方法だったのではないだろうか。そして、その心理的にも空間的にも離れた場所で生きることが、「棄国子女」になる、ということなのだ。

この「生きづらい」という言葉。この言葉を最近、耳にすることが少なくなったのは何故だろう。

例えば、1990年代半ばあたりから2000年代のある時期まで、この言葉は、その時代を生きる若者たちの心理を象徴するような響きを持っていた。その頃に、多くの自助グループが生まれていたし、その中の一部は自己啓発や新興宗教といったものに吸い寄せられたりもしていたように記憶している。

その軋みというか呻きのようなものが、いつの間にか公共空間の中からほとんど聴こえなくなってしまっていた。いつの間にかサバイバルが恒常化し、それぞれの所属するトライブの中で生息するスキルを持つことが前提になっていた。おそらく、その中からこぼれ落ちたものたちは、それまで以上に目につきにくい存在になっているのではないだろうか。

本書は、「こうであらねばならない」という多くのしがらみに憑り殺されそうになった著者が、そこから抜け出していく過程が描かれている。そして、その少し離れた場所から、そっと他者に手を伸ばしているのだ。

「一人でも多くの同志を『ここではないどこか』へ逃がすために、生きづらい日本を生きるあなたに向けて書こうと思う。」(p.11)

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片岡恭子
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(了)

【中川康雄(なかがわ・やすお)】
表象・メディア論、及びコミュニティ観察。インディーズメディア「未来回路」。
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「人類と娘、あるいはトウモロコシ畑と宇宙の話。」、映画『インターステラー』(監督:クリストファー・ノーラン)

この記事の所要時間: 452

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※SF的な要素の分析はネット上にも散見されるので、ここでは備忘録的なレビューを書いておきます。ちなみに、ネタバレありまくるので、まだ観ていない人はご注意を。

1.黄昏時の人類、その最後の希望を乗せて

本作品は、理論物理学者キップ・ソーンを製作総指揮に迎えている。そのことにより最新の理論に基づく形で、「ワームホール」や「ブラックホール」、相対性理論における時間の理論や宇宙論などが展開されている。また、ノーラン監督がフィルムなどのアナログを好むためか、どこか懐かしい印象を与える映像の作品だ。この二重性がこの作品を奥行きのあるものにもしているのではないだろうか。「インターステラー」(Interstellar)とは『星間航法』のことを意味している。

舞台は劇的な環境変化が起きている未来の地球。そこで、人類は滅亡の危機を迎えている。そんな世界での話だ。主人公・クーパーは、NASAの元パイロットでエンジニアだった。けれども、その職を失ってからは農業を営む2児のお父さんだ。作品中の世界では、一次産業が再びとても重要なポジションについている。

環境の変化によって、このままでは全ての植物が死滅する。そうしたら、食糧難になるのはあたり前だし、これまで植物たちが出していた酸素も欠乏していくので、酸素を必要とする生き物が住めない星になってしまうのだ。ゆっくりと、終末の黄昏れ時の中にある、そんな地球が始まりの舞台となっている。ちなみに、この環境の変化は人類の活動が原因っぽい。

また、小説版も存在している。

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2.「ラザロ計画」の真相

そんな中、一度は解体されながらも再建されたNASAが秘密裏に人類を救うために進めていたのが「ラザロ計画」だ。これは、宇宙船で土星の軌道上にある「ワームホール」を通って新たな銀河系に移動し、そこにある惑星に地球人が移民するというもの。この計画には、さらに「プランA」と「プランB」という2つの計画がある。

「プランA」とは、大規模なスペースコロニーによって現人類を移住させる計画。けれどもこれを実現するために大きな困難があった。それは、理論の要となる重要な方程式が完成していないのだ。けれども、この理論には致命的な欠陥があった。完成させるためには、ブラックホールのコアである特異点の観測データが欠かせない。光すらも逃れられない超強力な重力の底から、人間がデータを持ち帰ることは不可能のように思われた。つまり、この「プランA」は最初から実現不可能であることが分かっていたのだ。

そして、その代案として出されたのが「プランB」。これは「プランA」が失敗した時の策として用意された計画で、受精して間もない卵子を保存して移住先の星で人工培養するというもの。つまり、この「プランB」は、地球にいる今の人類をあきらめることを前提としたものなのだ。クーパーをはじめとする宇宙船に乗って旅立った関係者たちは、宇宙に飛び立った目的を「プランA」だと教えられていた。けれども、この旅の途中で、「プランB」のほうが最初から「ラザロ計画」の目的であったことが明らかになる。

3.人類を救う旅と父と娘の物語

この「プランB」が、クーパーたちの目的であることが分かるあたりから、この作品が「父と娘の物語」であることが、さらに色濃くでているのではないだろうか。もう、地球には戻れないことを知り、そして、娘に会うこともできなくなってしまう。その事実を知った時、父親の胸に迫ってくる感情。それがこの作品の人間ドラマの中心になっているといってもいいだろう。

喧嘩の仲直りもまともにできない状態でも出発したのは、また帰ってくることができるという思いのためでもあったし、自分が使命を果たすことで娘を救うことができると考えていたからだ。出発時、「プランA」がフェイクにしか過ぎないという事実を知った時、クーパーにはその2つの目的を果たすことができないということを知るのである。ここで、人類を救う旅と父と娘の関係修復の物語が濃厚に混ざり合ってくる。

4.トウモロコシ畑を疾走する車と宇宙の話

私にとって特に印象的だったところは、トウモロコシ畑の中を車で走っていくシーンだ。これはもしかしたら、既存の映画からの引用かもしれない。トウモロコシをなぎ倒しながら車は疾走していく。この舞台の中の地球における食糧問題や、けれどもそれらは結局枯れていってしまうという思い。そこに、登場人物たちの感情と混ざり合っているような。様々な目に見えない個人的状況とか社会的状況とかがそこに集約されているように見えた。1つの世界観、というか。何か胸に迫ってくるものがあるシーンだった。

あと、作品には直接関係ないことだけれども、気のせいかもしれないが、最近、天体とか宇宙とか、そういうのが流行ってきているような気がする。もしそれが錯覚でないのなら、その傾向はどうして生まれているのか。とか、考えてみると面白いかもしれない。その延長線上に、哲学とかそういった抽象度が高いものに関心が集まることもあるのかな、とか。

この映画の公開に先立ってゲームも公開されている。それについては以下のwiredさんの記事が詳しい。

映画『インターステラー』の「自分の宇宙」を創造して探索できるゲーム

以下は予告編の動画だ。

(了)

【中川康雄(なかがわ・やすお)】
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「境界線のこちら側から芸術ができること」、『透明な隣人 ~8 -エイト-によせて~』作・演出: 西尾佳織(鳥公園)/ドラマトゥルク: 岸本佳子(空[utsubo])

この記事の所要時間: 39

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1.

『8ーエイトー』。この戯曲はアメリカ・カルフォルニア州で実際に起きた同性間の婚姻の合憲性を問う裁判を題材にしている。とあるゲイの政治家の生涯を描いた映画『ミルク』の脚本を担当したダスティン・ランス・ブラックによって書かれたものだ。ブラック自身もまた、同性愛の当事者でもある。

当初、演出家の西尾佳織さんはこの原作に基づいた形で上演する予定だったという。けれども実際には、この戯曲を「モチーフ」としながらも、新たに書き下ろす形となった。

その理由は、この『8 -エイト-』という戯曲を元に演劇をおこしていく中で、演出家が根本的な違和感を抱いたからだ。

2.

この『8』は「同性婚を法律上で認めさせる」というはっきりとした目的を持って生み出された作品だ。つまりそれは、芸術というものを、人や社会を動かすためのツールとして使用することが明確に意識されていることを意味している。その感覚を上手く「善意」に結び付けることができなかったと、演出家は述べいる。

新たに戯曲を書き下ろすにあたり、舞台もカルフォルニアから日本へと移された。また、モチーフとして同性婚を扱いながらもワンイシューな焦点を絞るのではなく、淡々と日常生活やそこに起こる綻びを描いていく形が中心となっている。

3.

確かにそこに存在している。けれど日々の暮らしの中で、見えにくくなっているもの。ゆっくりと進行している情勢の変化。自分からは死角になってみえない人びとの日常。

それらの話を「非当事者」の人たちに如何に届けていくのかということ。それは日本では特に難しいことなのではないだろうか。なぜなら、個人の多様性を前提とした社会設計と、自らの住む社会を自分たちで作っていくという意識。その2つが日本において、リアリティを帯びて形ではあまり感じることができないからだ。

そのような状況の中で、芸術はどのようなスタンスで人びとに作品を届けていけばいいのか。そのひとつの問いが、本公演を形作っている。

立ち止まる時間を作ったり、様々な人と人との関係を露わにしたり、「わかりあえなさ」に立ち会う場所を用意したりすること。それが本公演の中で、この問いへの暫定的な解答として提示されていた。

4.

ただひとつ、1人の観客として受け取ったのは、その解答が境界線の内側にあったように感じられたことだ。もう一歩、踏み込むことも可能だったのではないかという思いもある。

それはたぶん、作家自身が今いる場所を示しているようにも思える。そして、葛藤の痕跡が公演の中では、ほとんど消えているようにも見えたのだ。何も壊さないこと。それが徹底されている。

境界線のこちら側にいること、そして、境界線のあちら側にいる存在。それはマイノリティを考える、もっと言えば「他者」を考える上で、とても重要なことのように思えるのだ。

また、映像の使用や既存のイメージの借用による空間の異化、突然のSF設定など、演劇としての遊びごころも随所に散りばめられていて、さまざまな刺激を用いることによってシリアス路線からのカタルシスへの没入という流れの予防線も引かれていて、心地良かった。

この日本という場所における科学と法律の変化速度の違いとか、個々人の日常を超えるスケールへと想像力を広げていくシーンもあって、演劇という場に身を置くことの快楽を味わうことが出来たことも、また確かなことである。

(了)

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「生活の場に根ざし、触感のある本を」、『失われた感覚を求めて』(三島邦弘 著)

この記事の所要時間: 133

失われた感覚を求めて

1.本の中での出会い

「読み手の想像力に結び付いたとき、たった一文字であってもとてつもない広大な世界を与えることだってできる。」(p.2)

本の中で特別な出来事を経験することがある。

それは、ただ本の中の物語に出会う、ということだけではない。そうではなく、もっと直接的な経験として、文字の世界が自分に干渉してくる瞬間があるのだ。

2.消費されない出版業

この本の舞台になっているミシマ社は、たぶん、もっとも理想的な出版社のひとつだと思われる。

なぜなら、ただ消費されるだけでない言葉たちを、意識的に丁寧にパッケージングして、世の中に放流している数少ない出版社だからだ。

もちろん他の出版社だって、丁寧に作ってはいる。けれども、大きな会社では、専門化し市井の人々の生活から遊離してしまう部分もあるのではないだろうか。

3.触感のある本を

生活の地に根を下ろし、触感のある本を。本書には、その試行錯誤の現場の息吹きを感じることができる。

そのような現場で、文字とそれを読む人々を繋ぐ仕事をすること。

それは、出版という行為を生業にするものにとって、アルファでありオメガのような気がしてならない。

失われた感覚を求めて
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三島邦弘
朝日新聞出版
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(了)

【中川康雄(なかがわ・やすお)】
表象・メディア論、及びコミュニティ観察。インディーズメディア「未来回路」。
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「柳田民俗学を『社会をつくるツール』として読む」、『社会をつくれなかったこの国がそれでもソーシャルであるための柳田国男入門』(大塚英志 著)

この記事の所要時間: 228

社会をつくれなかったこの国がそれでもソーシャルであるための柳田國男入門 (角川EPUB選書)

1.日本における「近代 未完のプロジェクト」

日本の近代は社会を作り損なっている。

そのことは、SNSが当たり前のように使用され、多くの人がつながっている情報環境にある現在、これまで以上に際立っているのかもしれない。それは「ソーシャル社会」という言い方が成立することにも現れているのかもしれないし、SNSが「空気」を読み合う場所になっていることにも関係があるのかもしれない。

しかも、その「空気」は「世間」ではない。例えば、柳田国男は「世間」というものを、「空気」に代表されるような「ムラ」社会よりも大きな枠組みとして捉えていた。つまり、現在の日本の状況は、「社会」もなければ「世間」も上手く機能していない「ムラ」社会の集合体ということなのかもしれない。

本書では、「社会」とは生存競争がもたらす問題を解決する主体である、としている。それは今の日本には充分な形で存在していないだろう。つまり、私たちの「社会」には、未だ主体がないのである。私たちは未だに、柳田が語った当時と同じように「公民として病みかつ貧しい」ままなのだ。

2.柳田国男の再評価

柳田という人は、この日本という国が「社会的」になるためにはどうしたら良いのかをずっと考え続けた人だ、と著者はいう。その方策として、自分の学問を作り続けていた人なのだ。

だから、彼の民俗学は、「社会をつくるツール」として一貫して設計されている。その遺産の重要性を再評価し活用していくこと。そのことが日本が「社会」に向き合おうとする時の手掛かりになるのではないか、というのだ。

私たちは今、さまざまな文化的な水脈を眠らせたままでいる。それらを覚醒させ育てていくことが出来れば、もしかしたら、未来は今とは大きく変わっていくのかもしれない。そして、それが出来るのは、その可能性を少しも疑うこともなく向き合うことのできる人たちなのかもしれない。

柳田国男全集〈1〉 (ちくま文庫)
柳田 国男
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(了)

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「そこにあるのに見えないものを、見えるようにする魔法」、『ソーシャルストリップ』(作・演出:大道寺梨乃)

この記事の所要時間: 57

ソーシャルストリップ

1. 記憶とモノ

「人は見た目で判断しちゃいけない」とか「した方がいい」とか、身に付けていたり持っているモノだとかで、そのヒトトナリというか、そんなのがひょっこり顔を出してたりするのだけれども、そのモノたちにどんな物語や関係がくっ付いているのかということは、他人からはなかなか見えてこない。けれども、それは確かに「ある」のだ。

そのモノと人との間にある物語とか関係とか、そんなのがすぐに分かってしまうというのは、経験によって大量のデータベースを脳に蓄えてるとか、探偵みたいな知識と鋭い洞察力があるとか、はたまたエスパー的な何かであるとか、そういう特殊ともいえる条件が整っている場合であって、だいたいの場合、通俗的な常識とか知識とか思い込みとかで表面的にみているだけに過ぎない。

いや、その表面すら、ちゃんと見ているかどうかはあやしかったりするし、つまりは人は、見ているようで見てないし、でも見えてるつもりになってしまっているのだ。

普段、そんな人とモノに付随する物語や関係というものは、無数の襞のように異次元ともいえる空間の中に折りたたまれていて、外部からそれを観察することは難しい。けれども、それらのモノは、そこに存在していることで何らかのメッセージを発し続けていて、それを私たちはほとんど受け取ることができていないだけなのだ。このような世界の仕組みの中で、誤読や散種ばかりの中で、私たちはほとんど他人からのフルボッコ状態で暮らしている。

モノと人の間にある物語や関係というのは、ただ物理的な「事実」に基づいたものだけではない。もしそういった「事実」だけであるとしたら、人が演劇によって表現することの必要が特にないからだ。

ここに何故、演じる必要性が生まれているのかというと、その人に直接聞かないと確認することができないものがそこにあり、モノの原材料とか産地とか買った場所とか、そのような条件だけをいくら分析しても導き出すことのできない情報がそこにあるからなのである。

2. 演劇とおしゃべり

おしゃべりをすることは、最近はそうでもないかもだけれども、男の子よりは女の子が好むというか、そういう傾向があると思うのだけれども、たとえば、男の子だと大体話の目的というかそういうのが明確にあって、その目的に沿って話すものだけれども、女の子の場合は、どちらかというと話すこと自体が目的というか、話すことで何かをあれするとか、そういう発想はあまりないように思われる。

今回のこの作品は、その女の子のおしゃべりの特徴というかそんなのと上手く演劇という表現形式を重ね合わせていて、「これは一つの発明なのでは」と思えた。しかもこれ、確実に人によって全く異なる物語が召喚される仕組みになっているので、ステレオタイプな物語に当てはめることの方が困難だ。モノから物語を立ち上げていくと、その人の固有性に物語が依存するので、ありきたりな物語からはみ出して、どこまでも固有のものになっていく。その感覚が心地いい。

もちろん、ただ女の子のおしゃべりを聴きにいくという感じでもなく、ちゃんと観客の想像力を遠くの方へ誘ってくれて、宇宙とか世界とか、時代で変わるものとか変わらないものだとか、これ間違いなく演劇だといえるもので、それでいて友人の部屋でお呼ばれしておしゃべりを聴いた後のような感覚も残っていて、私たちの日常において無自覚に引かれた様々な境界線を心地よく越境していく。

3. 記憶を引き連れて旅をする

公演後、観客の感想を聞く時間があって、その中の一人が、その舞台、つまり、部屋のありようが「ディスクトップみたいだ」と述べていたのだけれども、これは私の主観なのだが、部屋というもの自体がもともとディスクトップ的な性質のものなのではないかと思った。でも確かに、部屋の中の可愛い、素敵なアイテムたちが華やかで印象深くて、その効果もあってアイコン的に見えるなーとか。

この作品は、部屋にある様々なものには、物語があって、それをスーツケースに詰め込むことは、その物語ごと、つまり、つながりつつ次にいく感じになってて。その詰め込んでいるものは、たしかにモノなんだけれども、ただのモノにはみえなくなっている。痛くても、切なくても、様々な思い出をモノに詰め込みながらそれを携えて生きていくことは、自分の思い出をキャンセルせずに、つまり、過去の自分を引き連れて生きていくということなのだろう。

次の公演の会場は今回の2倍くらいのキャパがあるらしくて、部屋に招待された感じみたいなのが、どうなるのかは気になるところ。こじまんりとした会場だからできる演出もあったから。広い部屋という感じになるのだろうけど、そうなると、何かセレブ感のようなものとかでるのかな、それは冗談だけれども(笑)。

悪いことはいわないから、この作品は観たほうがいいと思います!

ーーーーーーー

・《演劇センターF》公演

☆日時
10月4日 19:00~
10月5日 19:00~
☆会場
演劇センターF
横浜市中区初音町2-43-6 Kogane-X Lab.


・《Art Center Ongoing》公演
☆日時
10月24日 20:00~
10月25日 20:00~
☆会場
Art Center Ongoing
東京都武蔵野市吉祥寺東町1-8-7

☆スタッフ
きゃくほんきょうりょく:セバスチャン・ブロイ(FAIFAI)
だんすふりつけ:菅尾なぎさ(クリウィムバアニー)
えんしゅつじょしゅ:加藤和也
せんでんびじゅつ:小林剛
しゃしんさつえい:小林由美子
きょうさい:演劇センターF/Art Center Ongoing
きょうりょく:FAIFAI

ーーーーーーー

(了)

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「読者と作家とパラフィクションと。」、『あなたは今、この文章を読んでいる。』(佐々木敦 著)

この記事の所要時間: 216

あなたは今、この文章を読んでいる。:パラフィクションの誕生

「メタフィクション」から「パラフィクション」へ。なんて言い方をすると、もしかしたら読者は、新しい時代の萌芽のようなものを言い当てることが、本書の趣旨のように思うかもしれない。「〜から〜へ」という表現は、新しい時代の到来とその特徴を記述する際の煽り文句として使用されることが多いからだ。

確かに著者は、本書の目的を「メタ」と「パラ」の境界を画定することだと述べているし、近年の特徴的なテクストを解読することに多くの紙面を割いてもいる。けれども、ここで探り当てようとされているのは、新旧をシャープに切り分けるような時系列に基づいた単純な物差しではない。

2つのフィクションのジャンル、「メタ」と「パラ」は、いつの時代においても、あらかじめテクストの内部に、ともに存在しているものなのである。この2つは同根なのであり、テクストの発生と同時に生まれた「読者」と「作者」との関係のあり方のことなのだ。だから、本書の記述が扱うのは、一過性のブームのようなものではないと言っていいだろう。

その分、スッキリした見取り図を求める読者にとっては、モヤモヤ感を残す内容でもあるかもしれない。なぜならば、著者は、分かりやすい形での図式を明示することを、注意深く避けているようにみえるからである。

何故、図式化を避けるのだろうか。その理由は、本書の採用している「作品分析」という手法とも深く関わっている。

「環境分析」ではなく、敢えて「作品分析」という手法をとることで、テクストにおける「読者」と「作者」の関係が、よりクリアに像を結ぶのだ。読むことを記述していく中で、「パラフィクション」を批評によって演じていくのである。その中で、「パラ」の側面が表立ってきた環境要因も匂わされてもいる。

本書のタイトルである「あなたは今、この文章を読んでいる」というフレーズは、読者において、常に「今この時」に更新され続けるものである。つまり、このフレーズ自体が、「読者の力を借りるフィクション」の端的な「パラ」フレーズとなっているのである。

あなたは今、この文章を読んでいる。:パラフィクションの誕生
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(了)

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「現在進行形で紡ぎ出される古典の香り」、『現実脱出論』(坂口恭平 著)

この記事の所要時間: 453

現実脱出論 (講談社現代新書)

1.

坂口恭平さんの本からは、新しいのに古典の香りがする。古典とは、その著者が生きた時代に限定されずに輝きを放つものだ。坂口さんが触れようとしているのは、そのようなものなのではないだろうか。

けれども、だからといって、抽象的な話を延々と続けるといったようなものではなく、一般的に日本で「哲学的」と思われているイメージとは異なり、とても平易な日常言語をもってして、思考が見える化され、パッケージ化されている。

本書のタイトルになっている「現実脱出」。そのために必要となるのは、 「ここではないどこか」へと物理的に移動することではない。そうではなくて、必要なのは「現実」を「他者」化することなのだ。「現実」というものを定義し直して、自分との関係を結び直すこと。それが、ここでいうところの「脱出」の方法論となってくる。

本書では、「現実」の再定義も行われているが、必然的に、自分という存在、つまり、「個人」の再定義も行われている。ここで「個人」とは、思考によって個別の「巣」を作っている存在であり、そういう意味で、人間はみな本来的に、「巣作り職人」であり、「建築家」であるのではないか、と展開されていくのだ。

2.

「思考が建築物を作る」、というと、ドイツの哲学者ハイデガーの「言語は存在の家である」という命題が思い出される。これを坂口さん流に言い換えると、「思考は存在の巣である」となるかもしれない。

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そして、ここには大きな違いがある。その違いの1つは、坂口さんは「個人」が住まう空間を形作るのは、「言語」ではなく「思考」である、と考えるというところだ。

つまり、〈存在-思考-言語〉という三者関係が構築されるわけだけれども、人間は「思考」によって作り上げた「巣」に住んでいるが、それは必ずしも言語化されているとは限らないということなのだ。むしろ、「言語」化、つまり、表現されて「現実」に接続されていることの方が、圧倒的に少ない。

だからといって、その「巣」の中だけで完結することはできず、人間が暮らしていくためには、「現実」が必要になってくる。本書において、「現実」を「集団にとってのみ実体のある空間である」であり、「個人にとっては仮想空間に過ぎない」と定義し眺めることによって、「巣」を壊すことなく、「現実」に取り組むための思索を可能にしている。

3.

「現実の他者化」とともに大事だと思われるのは、この「思考の巣」が、当事者本人にしか分からない、ということだ。他の人からは、それを直接的にみることができない。それはどんなに親しくてもそうなのである。

ここでフランスの哲学者レヴィナスの思想のことを思い出す。レヴィナスはその他者論において、他者は、その痕跡でしか、確認をすることができない存在であるという。つまり、私たちは他者をみていると思っていても、他者の痕跡しかみることができないのだ。

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つまり、人間は「思考の巣」に住みながら、その「巣」は他の誰にもみることはできない。それは、言葉などの表象によってはじめて、その存在を確認をすることができるのである。

4.

先ほど、「現実」とは集団の中だけで立ち現れるものだと書いたが、集団の中で立ち現れるものとして、頭に浮かぶのは「公共」という言葉である。この「公共」と「現実」はどのような関係にあるのだろうか。

まず思い浮かぶのは、「公共」とは西洋文明の中で培われてきた概念であるということだ。だとするならば、「現実」とは、日本的にしっくりくる言い方をすると、「世間」ということになるのかもしれない。

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ここでちょっと整理してみよう。

〈言葉-思考〉
〈家-巣〉
〈公共-現実〉

西洋の伝統的な概念と坂口さんが本書で展開した概念を、このように対置することができるのかもしれない。

5.

本書では、「個人」と「現実」のふたつの空間を言語化し再定義しているが、そのふたつの間に生まれる別の空間も、最後の方で、触れられているのではないだろうか。それが「ダンダール(精霊)」だ。

この「個人」でもなく「現実」でもない空間に住まうもの。これがもしかしたら、人が「現実」を作り上げてきた力の源であるのかもしれない。

シンプルに、そして高い解像度を保ちながら、日常を思考することによって、「個人」と「現実」との間に生まれている新たな空間を発見する。

「現実さん、こんにちわ。」

ここで、本書のはじめに書かれた一文に立ち戻るのである。

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劇評「アジア的価値の生み出す秩序と応援歌としての物語」、『マハーバーラタ~ナラ王の冒険~』(SPAC-静岡県舞台芸術センター)

この記事の所要時間: 525

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1.

今年の7月にフランスで開かれた演劇の祭典「アヴィニョン演劇祭」。そこで公演した宮城聰さん率いる劇団「SPAC-静岡県舞台芸術センター」が、この9月に神奈川県芸術劇場で凱旋公演を行いました。

そこで披露されたのは、劇団の代表作である「マハーバーラタ~ナラ王の冒険~」。世界三大叙事詩のひとつに数えられる古代インドの叙事詩の多くのエピソードの中から、抽出された物語です。

その物語を基に、日本や他のアジア地域の表現手法を取り入れ、独自の世界観を作り出しています。舞台の形状も特徴的で、円形の舞台の内側に観客席が設置されるようになっていて、観客は舞台に360度ぐるりの囲まれる格好になっていました。

私は千秋楽の公演を観たのですが、その後にちょっと気になって、Twitterで「マハーバーラタ」とキーワード検索をしてみました。するとどうでしょう、一点の曇りもないほどの絶賛の嵐が、スマホのタイムラインに表示されていました。

私自身、とても幸せな時間を過ごすことができたし、感想も絶賛以外の何ものでもないのですが、ここではその感動から少し距離をとって、この絶賛の嵐の理由について考えてみたいと思います。

2.

ここでは、その理由を1つの観点に絞って眺めてみます。それは「物語」という観点です。たぶん、「分析」というよりは「感想」に違いレビューになる予定です。「音楽」「演出」など、語り口は多くありますが、それは他の見識のある方々にお任せします。

「その美しさで神々をも虜にするダマヤンティ姫が夫に選んだのは人間の子・ナラ王だった。その結婚を妬んだ悪魔カリの呪いによって、ナラ王は弟との賭博に負け国を手放すことになる。落ちのびていく夫に連れ添おうとしたダマヤンティ。だが疲れて眠っている間に、彼女の衣の切れ端を持ってナラは去る。夫を捜して森をさまようダマヤンティを様々な困難が襲う。行く先々で危機を乗り越えた彼女はやがて父親の治める国へ。一方、ナラも数奇な運命を経てその国にたどり着く。果たして夫婦は再会し、国を取り戻すことが出来るのか。」(https://www.spac.or.jp/f14mahabharata.html

この物語のあらすじは、以上のようになっています。もちろん、ラストでは夫婦は再会するし、国も取り戻すことができるわけですが、ここで面白いと思うのは、物語に通底する世界観です。

まず気付くのは、神々という存在が、世界で最も外郭に位置するというわけではない、ということです。では、最も上位にある存在は何か。抽象的な表現になりますが、ここではそれを「徳」ということができるのではないでしょうか。

人間の身であるナラ王が神々でさえ虜にされるダマヤンティ姫と結婚できたのも、このナラ王が「徳」という概念に沿った存在であったからだし、そそのかした悪魔カリも、ナラ王の「徳」を下げるように導くことによって、貶めていくのです。

つまり、「徳」がこの世界観を支配している。この「徳」によって世界が秩序付けられており、神々もその法則に抗いきることはできません。それは上位の「自然」として位置付けられるのです。

この作品は、いわゆる勧善懲悪ものに近い物語であるのですが、日本において、そのような物語といえば、例えば『水戸黄門』のような物語が、多くの人の頭に浮かぶのではないでしょうか。けれども、日本の勧善懲悪ものは、人間と神々の世界が渾然一体としたものではありません。あくまでも、人の世にまつわる物語なのです。

「自然-神々-人間」の関係が、インドの『マハーバーラタ』とは異なります。つまり、世界観が異なっている。けれども、共通して浮かび上がるところもあります。それが「徳」です。この演劇作品で浮かび上がっているものの一つはこの東洋思想の概念である「徳」というものが、インドにおいても日本においても共通する価値として浮かび上がっている、というふうに仮定することが可能かもしれません。

3.

さて、この「ナラ王の物語」というお話を、今の日本の置かれている状況と重ねて考えてみたいと思います。それはかなり強引なことだとは思いますが、そこに絶賛の嵐の理由のひとつを読み込んでみたいのです。

現在の日本において、例えば、政治の領域などは分かり易いですが、「能力」と「徳」を比べたとき、「能力」を選択する方が理知的で正しいと考える傾向が強いのではないでしょうか。例えば、いくら私腹を肥やしても、結果を出してくれさえすれば、優れた政治家である、というように。

確かにそうであるのだけれども、今現在、そのことによる理性と感情との間に生まれるギャップによって生まれるフラストレーションが、徐々に育てられている時代なのかもしれません。

本作品の絶賛の嵐をみた時に、「あっ、みんなやっぱり、高潔な人が指導的立場にいるほうが好きなんやん」って思ったところがあります。「能力」って言ったって、結果的に現在、それで行き詰まっているわけで。だから観客はこの作品に、隠れた希望のようなものを読み込んでいるところがあるのではないでしょうか。

「人格はどうあれ、能力が第一だ」、というのは、言うなれば、政教分離という政策と親和性の高い考え方だと思います。けれども日本では、建前上では政教分離を実践しているとはいえ、結果的に少なくない宗教団体が政治に直接的に乗り出していて、それが是とされています。ここに、そのような能力主義とは違う政治への感性が、日本では強いことを読み取ることもできるのではないでしょうか。

『ナラ王の冒険』は、賭けに負けて落胆している王子を慰めるために語られる、いわゆる「物語の中の物語」です。だとするならば、この作品は、今の私たちに対する応援歌である、と捉えることも可能なのかもしれません。

(了)

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「先端技術と地域が交わるところ」、「MEDIA/ART KITCHEN YAMAGUCHI―地域に潜るアジア:参加するオープン・ラボラトリー」(山口情報芸術センター)

この記事の所要時間: 542

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1.

先日、一年ぶりくらいに、山口にある実家に帰っていたのだが、その時に、私が勝手に「山口の二大アート拠点」と名付けている「秋吉台国際芸術村」と「山口情報芸術センター(YCAM)」という2つのアート施設にも、久々に足を運んでみた。

前者の方は、山の中にあるということもあり、以前と同じようにひっそりとしていて、施設の敷地内で出会うのは、ほとんど清掃業者の人とかそんな感じ。まぁ、会場を貸したり、クラシックなどのライブなどを行ったり、メインと言える事業であろう「アーティスト・イン・レジデンス」は継続的に行なっているようだった。

しかし、この静けさは、確かに1つの価値であるとは思うものの、やっぱり、この建物はその事業内容と比べてあまりに勿体ない、と改めて思うなど。維持費や人件費も結構かかってるだろうし、何だかとてもアンバランスな場所だ。その壮大な「無駄」もまた、素晴らしくはあるが、どうしたら有効活用できて面白くなるか考えてみた。

※秋吉台国際芸術村の画像。
https://chikyu-travel.com/archives/814

2.

まず気になったのは、併設されている宿泊施設の稼働率がとても低いことだ。レジデンスしているアーティストのための部屋を確保するのは当然だが、もっと一般に広く宿泊場所として解放した方が良いのではないだろうか。例えば、ゲストハウスとして運営するとか。そういえば、最近、山口の萩に県内初のゲストハウスが誕生している。

※萩ゲストハウス ruco
https://guesthouse-ruco.com

そこから定期の観光バスを出すとか。これは、オーストラリアのバイロンベイにあるアーツファクトリーでやっていたのだが、街から少し離れた場所に施設がある場合は、やはり定期バスなどの足が必要になってくる。そして、宿泊施設や文化施設、観光産業とかを交通で繋いで、多様な要素をミックスすることによって、1つの文化シーンを形成していくのだ。

観光のインフラを充実させれば、来客者たちは、日本国内にとどまらず、海外からも多く訪れるようになるだろう。観光のリソースはふんだんにあるのだから、例えば、観光名所と充実したインフラがあることを世界のバックパッカーの情報網に載せたりすれば、世界中から人が訪れる。これで世界における山口の存在感は増していくであろうし、場所の開き方を調整すれば、アート施設としての役割も阻害することはないだろう。

あと、もうひとつ。やはり、地域と施設を緩やかに繋いで、お互いにフィードバックする仕組みを作るということ。これは包括的な芸術史を語る上で、現在、とても重要なテーマになっている。地域に根差すことが決して「ヌルく」なることではなく、むしろ「先鋭的」であることが可能な時代なのだ。

3.

その点において、後者、つまり、「山口情報芸術センター(YCAM
)」は、ドラスティックな変化をみせていた。

今やってる「MEDIA/ART KITCHEN YAMAGUCHI―地域に潜るアジア:参加するオープン・ラボラトリー」は、素晴らしい試みだ。私がよく通っていた数年前までの同施設とは、明らかに方向性自体が大きく変化している。

「YCAM」は元々、地域を大切にするアート施設ではなかった。メディアアート、パフォーマンスアートの拠点であるのだが、地域性ではなく、国際性や先端性を重視していた施設だったのだ。一応、市民を対象にしたワークショップなどはあったが、それらは、ほとんどアリバイ作りというか、申し訳程度のものだった。介入しすぎる地域性は、基本的にノイズとみなされカットされる、と言えば何となく伝わるだろうか。

地元のアーティストたちとは明らかに対立していたし、その対立の点は、もちろん、予算の配分っていうのが大きかったのだけれども、それだけでなく、「YCAM」が地元の人たちを軽んじていた、というはあったように思う。人材の配置の仕方や立ち回りからも、そのことはうかがえた。少し過激なことを言うように思うかもしれないが、これはある程度の関係者だったら大体知っている話のはずだ。

だから、今回の展示の内容にはとても驚かされた。「数年前と全然、方向性が違うやん!」って感じ。禁止されてたはずの、館内における手書きの掲示まであるやんけ。。

※ 現在の「YCAM」の画像。
https://chikyu-travel.com/archives/862

4.

展示会場にいたスタッフの人にちょっと話を聞いてみると、色々と丁寧に説明をしてくれた。このような展示の方向性が生まれた流れなど。「地域に潜る」、「繋がる」、という流れは、ある出来事から端を発して生まれた、とおっしゃっていた。

それは、目の動きでコンピュータ端末を操作する技術をネットで公開したら、障害を持つ人たちから多くの反響があったというのだ。そこから、施設の持つ技術を外部に活かしていく、という流れが生まれてきたという。

そこから、地域にもその技術を還元して、街づくりとか問題解決に役立てようと流れになってきたと。これは素晴らしいことだと思う。施設での研究レベルを下げるのではない形で地域や歴史と結び付いている。これだと対立など、基本的に無用なものになるだろう。つまり、巻き込みつつ巻き込まれていくのだ。地域に潜ることが先進性に繋がること。それがここで結実している。

金沢21世紀美術館や仙台メディアテークにあって、YCAMになかったと感じられたものが、もともとの良さを損なうこともなく生まれていた。今後の公営のアート施設における文化政策に大きな可能性を感じさせる。もし、行けるのであれば、是非とも足を運んでみて欲しい。

YCAM「Creativity Seen/Unseen in Art and Technology A compendium of media art and performance from YCAM: 2003-2008」
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「知のあり方の根幹に立ち帰る」、フリーペーパー『パラ人』(吉岡洋 他)

この記事の所要時間: 319

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今回は、珍しく商業誌でない作品について書いてみたいと思います。

この場所は、インディーズとかメジャーとか、特に隔てなく並べてみることも目的のひとつだったので、その意味では、原点回帰とも言えるかもしれません。って、今思い付きました。

『パラ人』は、京都で2015年に開催される国際現代芸術祭「parasophia(パラソフィア)」をきっかけに誕生したフリーペーパーです。「parasophia」の「magazine」だから、「parazine」。その発音に「パラ人」という日本語の表記を与えたのは、そこでは「人」が中心にいるから、と編集長(パラ集長?)の吉岡洋さんはおっしゃっています。

このフリーペーパーで多くの誌面が割り振られているのは、『パラ人』とはそもそもどういう媒体なのか、「parasophia」という言葉をどのように理解するか、という自己言及的な「雑談」です。その内容は、一見すると、苦し紛れというか、あれな感じのする人もいるかもしれません。しかし、これは、「知」というものを探究するにあたって、とてもオーソドックスな方法を使用しているのです。

この「雑談」を読んで、すぐに思い出されたのは、「哲学」という学問の存在です。具体的に個人名を言えば、ソクラテスのことを想起しました。ソクラテスは、「雑談」の中から、「philosophy」(知を愛すること)を見つけていきましたが、ここでは、「雑談」の中から、「parasophia」とは何かを見つけようとしている、わけですね。

何故、そのようなスタイルをとっているのでしょうか。

それは、現代の日本社会において支配的な「知」のあり方が、ソクラテスが批判したソフィストの「知」のあり方に重ね合わされているからだ、と推測することが出来ます。

本文中にも登場していますが、ソフィストとは、ペルシア戦争の後からペロポネソス戦争の頃まで、主にギリシアのアテナイを中心に活動していた、金銭を受け取って徳を教えるとされた弁論家・教育家のことです。
(wikipedia参照:https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ソフィスト)

ソフィストにとっては、問答競技の方法に過ぎなかった弁証法を、ソクラテスは、「無知の知」の自覚のために、真理の探求に向かわせるために使用したのです。

この「雑談」がどこに着陸するのか、はたまた、さらにどこか天高く舞い上がっていくかは分かりません。けれどもこれは、ちょっと大げさに言えば、現代における正統な「哲学」の再起動の試みと言えるのではないでしょうか。

あと、最後のページの「パラ人の歩み」と称する年表が面白かった。「京都国際現代芸術祭組織委員会設立総会」の日から現在に到るまでの歴史が書かれているのですが、そこには、このフリーペーパーの製作に携わっている人たちの生活が、大小の歴史の合間で、ちょこちょこと頭を出しているように見えます。

プロタゴラス―あるソフィストとの対話 (光文社古典新訳文庫)
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※現在、『パラ人』PDF版のダウンロードはこちらで可能です。
https://www.parasophia.jp/publications/

(了)

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「2つの時間と終わらせることの困難さ」、『小林秀雄とその戦争の時』(山城むつみ 著)

この記事の所要時間: 158

小林秀雄とその戦争の時: 『ドストエフスキイの文学』の空白

「恐ろしい」のは、決して悪魔でない人間でも、いや「心の清らかな単純な人間」でも、つまり「厭ふべき人間に堕落しないでも厭ふべき行為」を、日常茶飯事と横並びに特別な「意味」もなく行なってしまうということなのだ。
(p.43)

批評家の小林秀雄には、敗戦以前から『ドストエフスキーの文学』という作品論集成の腹案があったという。けれどもそれは、小林の満足のいく形には成らずに終わった。それは何故なのか。本書は、その問いをめぐって書かれている。

小林は戦時中に従軍記者を経験しているのだが、それは押し付けられたものではなく、志願という形での参加である。そして、小林が『ドストエフスキーの文学』を書き切ることが出来なかったことと、その時の体験は深く関係していると著者は考える。

それはどういうことか。

それは、ドストエフスキーが『悪霊』以後に書いた1870年代の諸問題を、小林自身の「戦争の時」において、反復的に生きることになったからである。

その体験によって、『悪霊』以後を論じるという行為が、過去として1870年代を参照するという次元を超えてしまい、自分自身の実存的な歴史と重なって融合していったのである。つまり、それを書くことの困難さは、持続する「戦争の時」を終わらせることの困難さでもあったというわけなのである。

誰もが認めるであろう希代の批評家であった小林秀雄が、終わらせることの出来なかった「戦争の時」。それはどのような構造によって形作られているものなのか。本書は、その構造が誰にも無関係でいられないようなものであることを、精緻な言葉運びで露わにしていく。今の日本の状況の中において、より強い光を放つ論考であろう。

小林秀雄とその戦争の時: 『ドストエフスキイの文学』の空白
山城 むつみ
新潮社
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(了)

【中川康雄(なかがわ・やすお)】
表象・メディア論、及びコミュニティ研究。インディーズメディア「未来回路」。
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