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「インターネットとデジタル工作機の融合が可能にする世界」、『SFを実現する』(田中浩也 著)

この記事の所要時間: 420

SFを実現する 3Dプリンタの想像力 (講談社現代新書 2265)

1. 「SF」のイメージをハッキングする

タイトルにある「SF」という言葉は、一般的には「サイエンス・フィクション」という意味を想起させるのではないでしょうか。けれども本書では、この「SF」という言葉に別の意味が付与されています。本書を読む前と後では、この「SF」という言葉を見た時に浮かぶイメージが変化していることを、読者は経験することができるでしょう。

本書におけるSFとは、「ソーシャル・ファブリケーション」の略語です。「ソーシャル・ファブリケーション」とは何か。それはインターネットと3Dプリンタに代表されるデジタル工作機械がつながったことによって可能になる社会状況のことを指しています。

3Dプリンタというと、最近は銃の密造のようなネガティブなニュースでも注目を集めていて、国内世論においてはメリットの部分が具体的に示されていないこともあり、注意すべき危険な技術と考える人も多いかもしれません。そのような人にも本書は、その技術革新が可能にする様々な変化について肯定的に、且つ、具体的に捉える視点を提示する内容になっています。

インターネットの存在が人と人とのつながりを促すプラットフォームになったり、様々なアイディアが生まれる胎盤にもなるということは今更説明する必要もないことでしょう。本書における「SF」とは、そのつながりやアイディアをモノをつくる行為へと結び付けることなのです。

つまり、フィクションを描くだけではなくて、それを社会的に実現していく過程までを含んでるということ。「フィクション」が「ファブリケーション」へ転じるということ。ここにおいて、従来の「SF」のイメージはハッキングされ更新されることになります。

2. 「デジタル」と「フィジカル」の等価性

「デジタル」なものと「フィジカル」なものが対等に扱われるようになるということ。それが本書における「SF」が描く未来像となっています。そのような話を聞くと、もしかしたら違和感を持つ人もいるかもしれません。情報と物質を同列に扱うことには無理があることなのではないかと。

けれども、私たち自身の身体もそのメカニズムの根幹にはDNAというデジタル情報に類似する設計図を元に形作られています。その原理を身体の外にそっくり取り出したかのような技術が、「ファブリケーション」というものなのです。生物の起源にも通底する情報から物質への変換装置。それが著者の「3Dプリンタ」観だと述べられています。

「鶏が先か卵が先か」ではないですが、情報と物質は相互に移行する状態の違いのようなものであるということなのです。そこでは「デジタル」と「フィジカル」は2つで1つと言っていいでしょう。この2つはグルグルとループしながら生成変化を生んでいきます。

3. コピーによる進化や分化

「デジタル」なデータをもとに「フィジカル」なモノを作るというと、同じものがどこにいても生産されるというイメージが強いかもしれません。けれども、この「SF」の世界においては、地域性というものがモノに強く影響を与えるのです。

例えば、地域によって必要とされるモノの形は変化するわけですから、元のデータをそのまま出力するのではなく現地でアレンジする必要あります。それに「フィジカル」なモノにするためにはそのための素材が必要になってくるわけで、その素材はその地域で調達する必要も出てきます。

陶芸などでもその地域の土の特徴が大きなファクターとなったりしますが、この「デジタル」から「フィジカル」への変換においても、地域性というものが重要になってくる可能性があるわけですね。

つまり、「コピーによる進化(分化)」とでも呼ぶべき、新しい文化現象が生まれ始めているのです。それは例えば、「リバース・イノベーション」という現象を生み出すファクターにもなっている。「土着性」から立ち上がる文化が、これまで以上にイノベーションを生み出す大きな要素になっていくということですね。

「世界の周縁の地ほど、最先端技術を必要としている」。本書ではそのことも指摘されています。重要なことは、現地で使用者自身が目的に合うように再編集すること。そのための拠点として、各地に「ファブラボ」という「施設」を作っていく取り組みがあります。この「ファブラボ」が「SF」を社会に実装するための拠点となるのです。

日本でもすでに多くの「ファブラボ」が存在していますね。
https://fablabjapan.org/

SFを実現する 3Dプリンタの想像力 (講談社現代新書 2265)
田中 浩也
講談社
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(了)

【中川康雄(なかがわ・やすお)】
表象・メディア論、及びコミュニティ観察。インディーズメディア「未来回路」。
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「別の価値を持つ場所を繋ぎ合わせて、豊かな生活をつくる。」、『フルサトをつくる』(伊藤洋志 × pha 著)

この記事の所要時間: 347

フルサトをつくる: 帰れば食うに困らない場所を持つ暮らし方

当たり前のことであるが、「故郷」(ふるさと)という言葉は「生まれ育った土地」のことを指す。けれども、本書では「フルサト」とカタカナ表示にすることで、その「故郷」の中にある機能を指す言葉として使用しているのだ。

つまり、「フルサト」は必ずしも「生まれ育った土地」である必要はないということなのだ。その機能こそが「フルサト」なのである。それはどのような機能なのか。それは本書を読み進むことで確認することができるだろう。

近年、田舎暮らしと都会暮らしを組み合わせるライフスタイルの流れは徐々に強まっている。それはどのような潮流として位置付けることが可能だろうか。その位置付けをここでは2つの観点から行ってみよう。

1つは、歴史的な観点。

近代化は、田舎から都市に、ヒト・モノ・カネが移動させつつ、一つの国家システムを構築するに至る。言ってみれば、役割が分担されたわけだ。そして、ここに「田舎<都市」という図式が成り立つ。つまり、単純な優劣が構築されたのである。

けれども、この「フルサト」という言葉には、この単純な優劣の意味合いを含んでいない。人類の発明品である「都市」を使いこなすための「田舎」でもあり、また、閉鎖することで起こりやすい硬直化を緩和し、変化を続けるための「田舎」なのである。

つまり、この「都市」と「田舎」を優劣としてではなく、別の価値を持つ場所として有機的に再構築するという歴史的な流れの中でこの「フルサト」作りを捉えることが可能なのではないだろうか。

もう1つは、セーフティネットという観点。

同じく近代化以降、いわゆるセーフティネットの場所は大きく変化している。例えば、日本が経済的にだった頃は、「田舎」から「都市」へと流入した人々のセーフティネットは会社であった。

「年功序列」や「終身雇用」、充実した福利厚生など、セーフティネットとしての機能を会社が果たしていた。けれども、経済成長が緩やかになりグローバルな競争も激化してくると、会社はセーフティネットとしての役割を果たすことが難しくなってくる。

そのため、セーフティネットは行政における制度に重点が移ることになるわけだが、どうもその制度も現在は万全な体制とは言える状態にはない。社会状況の変化に合わせた制度のようにも見えないし、財政難と言われる中で、その分野が充実していくことも困難なことのようにも思われる。

けれども、人間にはその生涯設計においてセイフティネットは必要だろう。そして、残るセイフティネットは現在、日本社会の中では「家族」となっているわけだ。これがあるのとないのとでは生涯設計の安全性に大きく違いが現れる。

しかし、この「家族」は全ての人々に平等に備わっているものではない。そこには本人ではどうしようもない偶然が支配する世界もある。つまり、この「家族」はセイフティネットとして有効ではあるが、全ての人を包括することができるものではないということなのだ。

そのコンテクストの中に「シェアハウス」の流行を配置することも可能だろう。血縁関係の「家族」に恵まれていないのならば、「家族」を作ればいい、という発想だ。

さらにその延長線上に「フルサト」をつくるということを配置することもできるのではないか。後天的に「家族」をつくり、さらに「フルサト」もつくってしまおう、ということなのである。

以上のように、歴史とセイフティネットの変化の中で、本書の「フルサト」を意味付けることが可能なのではないだろうか。

私的なことであるが「フルサト」と聴くと、ネパールのカトマンドゥにある日本料理屋「ふる里」を思い出す。そこは、日本人の駐在員や年金暮らしの老人、旅人などが日本料理を懐かしく思い集まる場所だった。もしかしたら、「田舎」に「都市」を懐かしく思う「フルサト」ができる日も来るのかもしれない。そんな気もしている。

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(了)

【中川康雄(なかがわ・やすお)】
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「様々な境界線を突破し、幸せとは何かを問う眼差し」、『世界「比較貧困学」入門』(石井光太 著)

この記事の所要時間: 440

世界「比較貧困学」入門 (PHP新書)

1. 日本は世界第3位の「相対貧困」大国

本書の目的のひとつは、日本の「貧困」がいかなる特徴を持つのかを浮き彫りにすること。そのために、世界の「貧困」との比較がなされています。

けれども、先進国と途上国の「貧困」を1つの基準では語ることは難しい。そこで本書は、2つの軸によってそれぞれの「貧困」の姿を描くという手法を取り、両者を同じテーブルの上に載せていく。その2つの基準は以下の通り。

「絶対貧困」=1日1.25ドル以下での暮らし。
「相対貧困」=等価可処分所得が全人口の中央値の半分未満の暮らし。

先進国とされる日本の「貧困」は、後者の「相対貧困」という基準により可視化される。この基準に照らしてみると、現在の日本の場合、単身所得が約150万円以下である人が「相対貧困」状態となるのです。

現在、この基準以下の所得で暮らしている人は、日本全体で約2000万人。これはすでにマイノリティとは言えない人数と言っていいのではないでしょうか。この人数は国民の約16%にあたります。つまり、6人に1人が「貧困」状態にあるということなのです。例えば学校だったら、30人いる学級のうち5人が「貧困」という現状ですね。

偶然だとは思いますが日本におけるこの「相対貧困」の割合は、世界における「絶対貧困」の割合とほぼ同じとのこと。つまり、世界の「貧困」と日本の「貧困」の問題は、人口比の上では同程度ということになるのです。

日本がよく貧困大国だといわれる理由は、他の先進国に比べて、この「相対貧困」の人口比率が高いため。先進国の中では、イスラエル、アメリカに次いで第3位というデータがあります。

つまり日本は、世界第3位の「相対貧困」大国ということですね。他の先進国であるフランスやハンガリーやノルウェーといった国々の「相対貧困」率は、日本の半分ほどしかない。

2. 日本における「貧困」の特徴としての「孤立」

本書では世界と日本の「貧困」の現場を取材し比較していく中で、日本における「貧困」の特徴が浮かび上がってきます。

まず、途上国では、貧困層の人たちは一所に集まっているという特徴を持っており、彼らはいわゆるスラムなどの分かりやすい形で生活圏が形成しているのです。

そして、そこにはコミュニティが形成されている。住民たちはそのコミュニティの存在によって、アイデンティティや身の安全を守っているという現実があります。

一方、現代の日本では、そのようなはっきりとした棲み分けはありません。けれども、その代わりにコミュニティというものが希薄になっていきます。

元々、日本でコミュニティがなかったわけではありません。近代化の過程で、日本各地からコミュニティが消えていったという歴史があります。

その過程の中で、コミュニティの代わりに社会的弱者がよりどころとしたのが、福祉制度であったことを本書は指摘しています。

また、このセイフティネットとしてのコミュニティから福祉制度への切り替えは、手放しで賞賛できることではないと著者は言います。

なぜならば、その切り替えが低所得者たちに「孤立」をもたらす結果にも繋がっているからです。それが新たな問題を生み出している。

日本の「貧困」の悲劇は、人間同士のつながりが切れて制度に依存しているところからも発生している。そのことも本書は描き出しています。

3. 同じテーブルの上で比較しながら考える

ただ著者は、「だから日本にはコミュニティが必要なのだ」という答えに安易には進みません。

「コミュニティか、孤立か」という問いに簡単には答えられないことを、本書の中でも取材を通じて読者にみせていきます。コミュニティにはメリットもあればデメリットもあり、同時に孤立にもデメリットとメリットがある。その両方を同じテーブルにのせてみせるのです。

けれども、両方をテーブルにのせた上で、著者はコミュニティの役割というものを日本で再評価しようとしている。その理由は、コミュニティというものが生活のためだけでなく、広い意味で人々の尊厳を成り立たせるためにも機能しているからです。

「貧困」問題をテーマに活動されている方は、この日本でも多く存在します。けれども、本書のように、日本や世界の貧困を広く見つめる視線は少ないのではないでしょうか。先進国と後進国の問題を切り分けたり、国内の問題としてしかみることがなかったり。

それぞれに専門分野や業界があり、その中で問題解決に取り組むということはもちろん必要で、現場ではそのような人が要になると思います。しかし、そこから離れて国内外を幅広く現場に足を運ぶことによって、はじめて見えてくる風景もあるように思います。

本書はその方法論としても、重要な視点を提示しているのではないでしょうか。その意味で「比較貧困学入門」というタイトルもしっくりきます。幅広い視野を持ち、無意識化している様々な境界線を突破することの重要性を、本書で再認識することができました。

そして、その眼差しは、何が幸せかという問いに向けられているのです。

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(了)

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「タモリを語ることの豊かさ、その入り口として」、『タモリ論』(樋口毅宏 著)

この記事の所要時間: 240

タモリ論 (新潮新書)

タモリの凄さについて「よくわからない」という「タモリ不感症」の人たちも、いつか必ず、タモリの圧倒的なスケール、達人ぶり、その絶望の深さを知るときがきます。
僕はそれを「タモリブレイク」と呼んでいます。
(p.34)

新宿駅の東口出口。その正面に『笑っていいとも!』の収録場所であるスタジオアルタがある。その存在は、新宿に辿り着いた多くの人たちがはじめに意識するもののひとつだろう。

待ち合わせや歌舞伎町方面へ遊びに行く時、仕事関係や区役所に行く時など、新宿東口に行く目的は様々だ。けれども、街に来た目的は何であれ、皆、横断歩道の信号が青に変わるまで、何となくアルタの街頭ビジョンを眺めた経験があるのではないだろうか。

そのように、スタジオアルタは新宿のシンボルのひとつとして機能している。そして、スタジオアルタと言えば、『笑っていいとも!』であり、『笑っていいとも!』といえば、「タモリ」だ。つまり、新宿東口方面の街には、潜在的にタモリのパブリックイメージが織り込まれていると言えるのではないだろうか。

本書の著者はタモリを「絶望大王」と呼ぶ。自分にも他人にもまったく期待しておらず、だからこそ、30年以上も空虚な番組をやり続けて発狂しないでいれたのだと。新宿という街もまた、狂いそうな状態でありながら、またどこか達観し冷めた街なのではないだろうか。

考えてみたら、私の個人的な経験にしても、タモリのパブリックイメージと新宿東口のイメージはシンクロしている。新宿東口は様々な出来事とのエンカウント率が増大する街なのだが、それが何かしらの生産性につながるという期待のようなものが、全くと言っていいほどない。つまり、新宿東口方面をかなり純度の高い「娯楽」の街として認識しているのである。そして、私が東京で過ごした時間の中で、一番長い時間過ごした街は、間違いなくこの新宿という街であろう。

新宿という街は、これから、タモリというパブリックイメージと共に歩んでいくことをやめた街と言えるかもしれない。その変化が意味するものは何なのか。新宿にいる時にはその何かについて、しばらく頭の片隅で考えてみたい。

また、『笑っていいとも!』は終了したが、深夜の人気番組『タモリ倶楽部』は現在も継続している。この場所に囚われない番組が、タモリが新宿東口という歓楽街に果たした役割を探し出すための手掛かりになるかもしれない。

現在、タモリについて沢山の書籍や論考が生まれている。それらは私たちを、表象の奥深さに誘ってくれるのではないだろうか。本書はその入り口としてお勧めすることができる。

タモリ論 (新潮新書)
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(了)

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「自己啓発と現代哲学、その二つの間をつなぐもの」、『嫌われる勇気』(岸見一郎・古賀史健 著)

この記事の所要時間: 554

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

1. アドラーと自己啓発

本書は自己啓発の源流にあるアルフレッド・アドラーの個人心理学の全体像を、青年と哲人の対話という形式で描き出している。

もしかしたら、自己啓発という言葉を聞いて、ある一定の人たちは本書を敬遠してしまうかもしれない。なぜならば、この自己啓発という言葉は、一般的にあまり良い意味で使わないことも多いからだ。例えば、スピリチュアルとかマインドコントロールなどと同様に、客観性と分析的思考を重視しようとするタイプには敬遠されがちなワードなのではないだろうか。人を一種の陶酔状態にすることによって、ある特定の方向へと誘導するようなイメージがあるやうにも感じられる。

しかし、本書で描き出されている内容は、そのような自己陶酔や思考停止を誘発するようなイデオロギーではない。むしろ、他者との間に一定の距離を取り、自分自身の課題と他者の課題を分離することの必要性が説かれるところから始まる思想なのである。その点において、一般的に自己啓発に付きまとうネガティブイメージの持つ前提とは、異なるといえるのではないだろうか。

自分と他者の課題を区別するといっても「自己中心的であれ」と言っているわけではない。むしろ、他者から視線を過剰に気にかける生き方こそが、自己中心的なあり方なのだとアドラーは説くのだ。つまり、他者の視線を過剰に気にかけることは、自分を守るという目的において為されるものであり、自分のことしか考えていない態度であるということなのである。

2. 個人心理学と共同体

以上のように、アドラー心理学はまず「切断」を基本に置く。けれども、それは孤独になることを意味しているのではない。その根拠となるものが「共同体」というものに非常に価値をおいているところだ。

ここでいう「共同体」というのは、人間の集団に留まらない、というところも特徴的だろう。他の動植物や無生物にまで、その「共同体」意識は広がっていく。この特徴はアドラー心理学をスピリチュアルなものとして解釈させるかもしれない。けれども、それもまた個人心理学をシステム化する上で必然的な帰結であるのだ。

アドラーの個人心理学において、私たちが何かしらの困難に直面した時にまず考えるべきことは、「より大きな共同体の声を聴け」ということになる。そして、その広がりは人間社会に留まらないことによって、人間社会の外部を意識することができるようになる、ということなのだ。

そして、アドラーは、人は共同体にとって自分が有益だと思えた時、自らの価値を実感できるとし、「幸福とは、貢献感である」とまで言い切るのである。つまり、共同体へのコミットメントと幸福というものが分かち難く結びつき合っているのだ。

3. フロイトとアドラー

アドラーは、フロイトやユングと並ぶパーソナリティ理論や心理療法を確立した人物だ。けれども、日本においてそれほど知られてはいない。日本ではやはりフロイトの言説に親しみのある人たちが多いだろうが、そのフロイトの精神分析の理論とアドラーの理論は鋭く対立している。

その理論において、人の言動などを規定するものを、フロイトは過去の原因に目を向け現在を説明しようとするが、アドラーは現在の「目的」に目を向けることによって説明しようとするのである。前者は「原因論」、後者は「目的論」と現状分析をする手法が全く異なっているだ。

その違いが顕著に出るのがトラウマに対する議論だろう。アドラーにおいて、トラウマの存在は明確に否定されるのである。そして、フロイトの「原因論」はその帰結として運命決定論へと向かうとし、人を過剰に過去に縛り付けることによって、自由を奪っているとして批判する。

「いかなる経験も、それ自体では成功の原因でも失敗の原因でもない。われわれは自分の経験によるショックーいわゆるトラウマーに苦しむのではなく、経験の中から目的にかなうものを見つけ出す。自分の経験によって決定されるのではなく、経験に与える意味によって自らを決定するのである」(p.29-30)

「大切なのはなにが与えられているかではなく、与えられたものをどう使うかである」(p.44)

私たちは「いま、ここ」にしか生きることができず、過去にどんなことがあったかは「いま、ここ」になんの関係もなく、未来がどうであるかなど「いま、ここ」で考える問題ではないとするのだ。このことによって、過去に囚われ身動きの取れなくなった人の持つポテンシャルを解放しようとするのである。

4. アドラーと現代哲学

アドラーの個人心理学は、いわゆる現代哲学というジャンルと重ね合わせながら語ることも可能かもしれない。

例えば、自らの属する「共同体」を認識するにあたって、無生物にまでその範囲を拡張するあり方は、ドゥルーズ=ガタリの『千のプラトー』のそれに近しいものがある。また、「いま、ここ」を最重要視することは、「強度」という概念とも関係がありそうだ。そういえば、ドゥルーズ=ガタリは『アンチ・オイディプス』においては、精神分析の持つ物語を批判している。また、まず自己と他者の課題の分離を意識するところなどは、ポストポスト構造主義における「切断」とも関係しそうだ。過去の価値決定を宙吊りにしそこから無限の可能世界を紡ぎだすそのあり方は、ジャック・デリダの脱構築のそれに近しいものがあるかもしれない。

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もちろんその言説のスタイルは全く異なるように見えるが、機能として考えると実は近しい効果を持っている側面があるのではないだろうか。

ただ、それらと異なるところは「幸福」とは何かということに具体的に踏み込み、そこへ人を誘う方法論を検討したところだろう。その是非については、本書を読んで確認してみるといいかもしれない。

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え
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(了)

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「東京を目指す全ての地方出身者のために」、『戦略的上京論』(長谷川高 著)

この記事の所要時間: 136

戦略的上京論 (星海社新書)

僕は地方出身者が好きだ。なんでかというと、まず自分自身がそうだからなのだが、それだけでもない。彼らの中にある種のレイヤー構造をみてとることができるからだ。生まれ育った土地と都会での生活の二重構造が、地方出身者の中で有機的に絡まり合いアイデンティティを構成している。

もちろん、東京出身者にそれがないわけではない。東京にも地元は存在する。けれども、「ふるさとは遠きにありて思ふもの」という言葉が意味しているように、その距離が作り出すものは、やはりあるのだと思う。それは弱さであったり強さであったりもする。

本書はそのタイトル通り、地方出身者が戦略的に上京するための指南書である。近年は、地方から出てこない傾向があるというものの、今だって多くの人たちが様々な思いを胸に地方から上京している。

本書はビジネス書っぽいし、また現在のトレンドとは異なるかもしれない。けれども、やはり必要な仕事であるだろう。そこには過去の自分に語りかけるような視線が存在している。

以下の記事では綺麗にまとまった要約が読める。

学生のうちに知っておくべき『戦略的上京論』のこと:マインドマップ的読書感想文 https://smoothfoxxx.livedoor.biz/archives/52121803.html

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(了)

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「『第三の場』としての居酒屋文化のポテンシャル」、『日本の居酒屋文化』(マイク・モラスキー 著)

この記事の所要時間: 34

日本の居酒屋文化 赤提灯の魅力を探る (光文社新書)

著者のマイク・モラスキー氏は、アメリカ出身で日本在住の研究者だ。研究テーマは、日本の戦後文化や音楽文化論、東京論などを通して、現代日本社会を捉えなおすことであるという。現在、早稲田大学で教鞭を執られているが、エッセイスト、ジャズ・ピアニストという顔も持っている多才な方である。

本書でも述べられているが、私にとっても居酒屋はトライ&エラーの場所のひとつだ。だから、「上手くいったなぁ」とか「失敗したなぁ」とか思う経験も無数にある。店自体のセレクトもそうだし、席の確保の仕方や会話の仕方や話題など、ひとつひとつの選択や対応がダイレクトにその場の空気に影響し、すぐに自分の身にその結果が反映される。

つまり、お店の人や多くのお客さんによって培われてきた雰囲気を壊さずに如何にその場に溶け込むか。そして、それを如何に楽しむかが重要なテーマになるわけだ。上手くその流れに身を任せることが出来ることもあるし、まだ雰囲気を掴み切れていない店で沢山の自分のことを話したりすると、あとで自己嫌悪に陥ってしまったりもする。ある意味で私は居酒屋を、音楽のセッションの場所みたいに捉えているところがあると言えるだろう。

著者は居酒屋という場所を、単なる消費の場としてではなく、いわゆる「第三の場」として捉えている。ちなみに、「第一の場」は家、「第二の場」は仕事場だ。今日における「第三の場」という概念の重要性は、社会学者レイ・オルデンバーグの著作『サードプレイス』の中で詳しく定義されているので、関心のある方は読んでみるといいもしれない。

サードプレイス―― コミュニティの核になる「とびきり居心地よい場所」
レイ・オルデンバーグ
みすず書房
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本書では、自分好みの居酒屋の探し方から、その空間の人間関係やそこにどのように馴染んでいけばいいのかなどが具体的に記されており、大いに参考になる。また、はじめは理論的な語りが多いのだが、読み進めていくにつれて文体もくだけてくる、という展開もまた、著者の居酒屋での時間の過ごし方を追体験するような工夫になっているということも特筆すべきところだろう。その追体験の流れは居酒屋において、お客さんが常連になっていく過程である〈顧客〉→〈個人〉→〈自我忘却〉という流れにも沿うものでもあるのかもしれない。

本書で大事にされていることのひとつは、「居酒屋観光」ではなく「居酒屋探訪」を、ということである。私たちの住むこの地の根の深いところで脈々と受け継がれていると言える「居酒屋文化」。様々なところで「第三の場」の重要性がうたわれているが、私たちは「居酒屋文化」の持つポテンシャルを充分に活かせていないのかもしれない。

もし、「居酒屋探訪」をしている時に著者に居合わせたら、なんて楽しい空想しながら読むことができた。

日本の居酒屋文化 赤提灯の魅力を探る (光文社新書)
マイク・モラスキー
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「グローバル化した政治と日本の現状と未来について」、『国際メディア情報戦』(高木徹 著)

この記事の所要時間: 355

国際メディア情報戦 (講談社現代新書)

グローバル化する政治活動

今の日本は国際世論というものを、過小評価しているのかもしれない。

経済活動においては、日本の労働市場や商品流通の現場をみれば、グローバル化している現状を確認することはそれほど難しいことではないはずだ。しかし、政治活動におけるグローバル化においては、多くの人たちはその現状を上手く把握できていないのではないだろうか。

本書のタイトルでもある「国際メディア情報戦」とは、グローバルな情報空間の中で形作られるイメージを巡る戦いのことをいう。そのイメージをどのように形作り、誘導するのか。それがグローバル化した政治の現場で、最も重要なファクターとなる。

国際世論における暗黙のルール

グローバルな情報戦で不適切な対応をすれば、あっという間にネガティブなイメージが世界中に流布される。そして、それは当然のごとく国益を大きく失うこととダイレクトに繋がっているのだ。そして著者は、このグローバル化した情報戦に「参戦」することが、今後、日本が生き残る唯一の道になると主張している。

このような現在のグローバルな情報戦には、重要なルールがある。それは、自らの倫理的優位性をメディアを通じて世界に広める、ということだ。

もう少し具体的にいえば、民主主義、基本的人権の尊重、人道主義、表現や報道、思想や信教の自由、社会のあらゆる面での透明性の重視、差別との訣別といった価値観。これらの国際社会のルールを自分たちが共有していることをアピールすること。それがこの情報戦を制するためのポイントとなっている。

このルールの形成において最も影響を与えた出来事は、第二次世界大戦における惨劇だ。特にナチスドイツの残した傷跡は非常に大きい。国際社会の中枢にいるのは米国や欧州であり、彼らのトラウマを連想させるイメージは、まず避けなければならないものとして横たわっている。それは一種のタブーと化しているともいえるものだろう。

国際世論の中の日本

さて、そのような前提を確認した後で、国際世論は今の日本の政治をどのようにみているのだろうか。例えば、このような記事がある。

「報道の自由、日本後退59位 福島事故と秘密法響く」
https://www.47news.jp/smp/CN/201402/CN2014021201001249.html

国際世論では、報道の自由を法的に規制することは民主主義の原理に反しているものだと考えられるだろう。なぜなら、民主主義国家では行政の持つ情報は基本的に国民のものであるはずだからだ。

これから日本国内の情報統制は、より強いものになっていくことが予想さらる。その理由の一つは、やはり2020年に行われる東京オリンピックだ。例えば、福島の原発に関しても、一国の首相が「完全にコントロールしている」と言えば、コントロールされていないことを示す情報が公になることが難しくなってくることは容易に想像できるだろう。しかし、そのような辻褄合わせのようなことをしていては、結局、日本の信頼を失うリスクも負いかねないのではないだろうか。

さらに近年、東アジア諸国や米国との関係も不安定なものになってきている。その理由のひとつは、やはり、この国際世論というものを過小評価しているから、ということもあるのではないだろうか。

先日、こんな報道もあった。

「中国と台湾、担当閣僚が正式会談 1949年の分断後初めて」
https://m.huffpost.com/jp/entry/4770892/

おそらく中国もこの国際世論の重要性と不可避性を認識し始めている。

このような現状の中、取引先と喧嘩して帰ってきた営業担当者が評価されるような国内の政治状況は、やはり問題なのではないだろうか。そのことによって、日本は他のアジア諸国よりも多くのアドバンテージを有しているのにも関わらず、それを自ら手放そうとしているようにみえるからだ。

本書は、グローバル化した政治とその中での日本の位置という二つの現状を、多くの具体例とともに解説している。ただ国力を付けて強気に出さえすれば、国際的にも上手く立ち回れる、と思うことの危険性を理解する助けとなるのではないだろうか。

国際メディア情報戦 (講談社現代新書)
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「危機の時代にメディアとして生き残るための戦略」、『ヴァティカンの正体』(岩渕潤子 著)

この記事の所要時間: 223

ヴァティカンの正体: 究極のグローバル・メディア (ちくま新書)

カトリック教会の総本山であるヴァティカン(バチカン)は、イタリアの首都ローマ市内にある都市国家だ。その名前の由来は、元々の地名であった「ウァティカヌスの丘」 (Mons Vaticanus) 。そこに教会が建てられた理由は、その丘で聖ペトロが殉教したという伝承があったためだという。

キリスト教に限ったことではないが、宗教組織はひとつのメディアである。情報を編集し、ある価値観を発信するシステムとしての側面を有しているのだ。例えば、教会は「ハコ」であり、教義は「コンテンツ」にあたる。また、儀式では「演劇」のような演出が施されており、その世界観に没入することを助けている。

マスメディアが未発達な時代、遠方からやってくるキリスト教会の聖職者たちは知識人だった。そのため、教育を施したり、文化・芸術を提供したりと、指導する立場と見なされることになる。また、彼らが拠点とした教会はマスメディアの支局のような存在として機能していた。ヴァティカンが築いたネットワークは、世界初のグローバル・メディア・ネットワークと言って良いだろう、と本書では語られている。

さらにヴァティカンはその危機の時代において、今の日本にとっても非常に興味深い政策をとっている。宗教改革という危機に際して、赤字国債の代わりに贖宥状を大量に発行し資金調達したのだ。そして、集めた資金によって壮麗な建築物を創り、著名な芸術家を呼び集めて美術品を大量発注し、道路や広場などのインフラにも注意を払ったのである。そのことによって、ローマを不朽の都として整備した。

そしてその後、政治的な存在から中立的な文化機関へと自らをシフトさせて現在に至っている。本書では、その政策の過程とメリットについても語られている。

日本が文化立国として、そして、一つのメディアとしての未来を生きること。本書ではその可能世界を夢想させる。現在の日本の政策は、このビジョンとは反対へ向かっているようにも見えるが、その夢想の現実化は前例がないことではないのだ。ヴァティカンの歴史を概観しながら、その中に日本が向う未来の姿を読み込んでいくこと。危機の時には視野が狭くなりがちだが、そのような時期だからこそ、多様な思考実験や試行錯誤が必要なのかもしれない。

ヴァティカンの正体: 究極のグローバル・メディア (ちくま新書)
岩渕 潤子
筑摩書房
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(了)

【中川康雄(なかがわ・やすお)】
表象・メディア論、及びコミュニティ観察。インディーズメディア「未来回路」。
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「新しい保守層から未来の姿を予測する」、『ヤンキー経済』(原田曜平 著)

この記事の所要時間: 354

ヤンキー経済 消費の主役・新保守層の正体 (幻冬舎新書)

「マイルドヤンキー」の経済活動

著者の原田曜平さんは博報堂ブランドデザイン若者研究所のリーダーで、若者の消費行動やライフスタイルの研究とマーケティングを行っている方。本書はその若者研究の成果のひとつだ。

本書では、これからの日本経済において重要になると予想されるある層のライフスタイルや消費傾向が紹介されている。それは「マイルドヤンキー」と呼ばれる層である。

「マイルドヤンキー」とは、「上京志向がなく、地元で強固な人間関係と生活基盤を構築し、地元から出たがらない若者たち」のこと。この層は、地縁を大切にする保守的な意識を持っており、「新保守層」と呼ぶこともできるとされる。

「マイルドヤンキー」の上昇志向のなさと、「いま、ここで築いている生活に対する高い満足度」は、密接に結びついている。そのため、彼らが望む消費は、かつてのヤンキーたちのように「今の自分を変革し、高いステージに上るための消費」ではない。そこにあるのは「現状維持を続けるための消費」なのだ。

若者が消費しなくなったと言われるなかで、この「マイルドヤンキー」たちは「優良な若年消費者」である。そして、日本経済の未来は彼らが牽引していくのではないか、というのが本書の要旨となっている。

消費傾向から見えてくる未来像

これからの経済活動を担う可能性のある層の研究は、その社会の未来の姿を予測することでもあるのではないだろうか。なぜならば、その層のライフスタイルに合わせる形で、商品やサービスが量産されることが見込まれるからだ。

確かに、現在進行で形成されつつある若者の層は、この「マイルドヤンキー」たちだけではない。けれども、比較的旺盛な消費意欲を伴うその経済活動によって、大きな社会的なシェアを持つようになる可能性がある存在なのだ。そして、その社会への影響力は、おそらく無視できないものになるだろう。

例えば、消費行動をあまりしない若者の象徴的な本として、『ニートの歩き方』(pha 著)を挙げることができる。だが、この本で紹介されているのは、ネットや都市をひとつの自然の生態系として捉え、その幸を享受して緩やかに生活していくライフスタイルである。「マイルドヤンキー」たちに比べ、この「ニート」的な層の消費意欲は低い。なぜならばこの「ニート」的な層は、消費するというよりも、お金を使用せずに、今あるものを利用し組み合わせることによって、新たな価値を創り出すことに意味を見出す傾向が強いからだ。

しかし、本書で扱われている「マイルドヤンキー」たちは、「ニート」的な人たちよりも比較的強い消費意欲を持っている。そのため、経済を回すという意味では、これから大きな存在感を持つだろう。さらにこの層は、ライフモデルとして、保守的でスタンダードなものを持っているということも重要である。つまり、結婚して子どもを産み育てるなど、次世代をスムーズに生み出すことがナチュラルにできる層なのだ。そのことによって、サスティナブルかつ更なる消費行動の動機が生まれてくる。

この比較的旺盛な消費意欲と次世代へとつなげるサスティナブルさによって、この「マイルドヤンキー」たちはこれからの日本社会において重要な位置を獲得するのではないか。そうであるのならば、この層の理解はマーケッターのみならず、多くの人たちにとって必要になってくるはずである。

本書は、その理解のための入門書としても有効だろう。

他の議論との接続可能性

また、『フード左翼とフード右翼』(速水健朗 著)における「フード右翼」と「マイルドヤンキー」の層は、おそらく被っているのではないかと思われる。そうであるのなら、「マイルドヤンキー」の対義語は「マイルドリベラル」、ということになるのかもしれない。

そう仮定すると、現在行われている様々な議論との接点も発見できる。例えば、「新しいリベラル層の構築」や「地方での豊かな生活」などの問題系。それらの議論の中にも、本書を位置付けることが可能なのではないだろうか。

ヤンキー経済 消費の主役・新保守層の正体 (幻冬舎新書)
原田 曜平
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(了)

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「地方分権を巡る議論の大まかな概略を確認するために」、『道州制で日本はこう変わる』(田村秀 著)

この記事の所要時間: 338

道州制で日本はこう変わる ~都道府県がなくなる日~ (扶桑社新書)

都心部にいるとまだあまり実感はないかもしれませんが、現在、日本は確実に人口の減少傾向へと転じています。

日本は高度成長期に、子どもと高齢者の数に比べて働く世代の割合が多くなるという「人口ボーナス」という期間を経験しました。けれども現在、その期間に増えた人口が高齢化し、それと同時に少子化が訪れているわけですね。

もちろん、その人口分布の山になってるあたりの人びとは、あと数十年くらいでそのグラフの外部へと流れでていくはずなので、その後は安定するのかもしれません。けれどもその頃には、日本の人口はかなり減少していることが予想されます。

また国外に目を移すと、中国やインドなどのアジア諸国が経済的に台頭しつつあり、その結果、相対的に日本のポジションが低下していると言っていいのではないでしょうか。それだけが理由ではないですが、東アジア地域での領土問題や歴史認識問題の再燃していることも、その結果として生じていることなのかもしれません。やはり、国と国の間のパワーバランスが変化したことによって関係が不安定になっている、ということですね。さらに、今までの暗黙の了解ともいえた日本の外交政策である日米安保という戦後レジュームにも、徐々に亀裂が入り始めているようにも見えます。

さて、そろそろ本書の説明に入りましょう。

そのような時代の中で、これからの日本の国政や地方自治はどうあるべきなのか。本書は、その課題のひとつでもある道州制の導入について、基礎的な情報の歴史や論点が分かりやすくコンパクトにまとめています。

今、地方の状況は大きく変化してきているのですが、その変化の強力な要因は、やはり少子高齢化です。この少子化と高齢化の流れが道州制の導入を不可避にする可能性は決して小さくない、と著者は言います。そして、その導入は案外あっさりなされるかしれないとも。

例えば、明治時代の廃藩置県。その当時、旧藩士の抵抗があまり目立たなかったのは、幕末以降の多くの藩が財政破たんに近い状態になっていたことに起因するところがある。明治政府が士族の給与を保証したのです。また、平成における地方自治体の大合併も、財政難の地域が合併特例債という制度を受け入れたことによって進んだ側面がある。

地方分権、その具体的なかたちでもある道州制は、より深化した民主主義社会の実現とも重ね合わせられるものです。けれども、著者はその現状にも懸念も示しています。例えば、全て地方に任せればうまくいくとか、道州制になれば全てよくなるとかいうのは、あまりにも短絡的で根拠の薄い主張なのではないかとも投げかけています。

あと、大阪都構想と道州制の導入を同時に推進することに対しても、疑問を呈していますね。その二つは実際には相反する政策なのではないか、というのです。この二つはそれぞれ別のベクトルに向いていて、道州制はむしろ大阪を解体するのでないか、と分析しています。

去年、2020年に東京でオリンピックが開催されることが決定しました。それによって開発などは東京に集中し、道州制導入に向けた動きは鈍くなるかもしれません。けれども、民主主義の深化という側面からも、国の財政状況の側面からも、これは遅かれ早かれ実行する必要のある流れではあるのです。もちろん、そこに住む人びとの幸せに結び付くような形で、それが実現すること。財政の側面だけでなく、そのことを最優先にした上で、考えていくべき課題でもあるでしょう。

本書は、道州制によって日本がどう変わるのかという部分についてはあまり紙面が割かれていません。けれども、これまでの道州制を巡る議論の大まかな概略を確認するために、必要な情報が詰まっています。ここに示された内容を踏まえた上で、更に必要な議論を積み上げていく必要があるのではないでしょうか。

道州制で日本はこう変わる ~都道府県がなくなる日~ (扶桑社新書)
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(了)

【中川康雄(なかがわ・やすお)】
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「被災の地で文化の芽を育てていくことの切実さと可能性」、『走れ!移動図書館』(鎌倉幸子 著)

この記事の所要時間: 32

走れ!移動図書館: 本でよりそう復興支援 (ちくまプリマー新書)

著者の鎌倉さんは、現在、東日本大震災図書館事業のアドバイザーで、シャンティ国際ボランティア会(以下、シャンティ)で広報課長をされている方。本書は、そのシャンティが行う「走れ東北ー移動図書館プロジェクト」の紹介や報告が内容の中心となっています。

著者は「本書で伝えたいことは二つある」といいます。

ひとつは、移動図書館プロジェクトの立ち上げについて。企画のはじまりから実際に移動図書館が走り出すまでのプロセスが、とても分かりやすく紹介されています。もうひとつは、本の持つチカラについて。被災地でどのような本が手に取られ、なぜ読まれたのかについてが、実際のエピソードとともに語られ、本のチカラの可能性が展開されています。

本書を読んでまず感嘆させられるのは、その活動を行う上での現場への丁寧さ、繊細さです。シャンティが阪神・淡路大震災の経験をまとめて出版した『混沌からの出発』の中にある「緊急救援時における10カ条」にもすでにその繊細さは現れていて、それが多くの経験の中でゆっくりと育てられたものであることが想像されます。

あと、突飛かもしれませんが、読みながらなぜか私が思い出したのは、浦沢直樹さんの漫画『マスターキートン』のあるエピソードです。

それは主人公・キートンがオックスフォード大学の学部生時代の頃の恩師であるユーリー・スコット教授のエピソードです。スコット教授はナチスドイツがロンドンを空襲し大学が焼けたときも、「さあ、諸君、授業を始めよう。あと15分はある。」「敵の狙いはこの攻撃で英国民の向上心をくじくことだ、ここで私達が勉強を放棄したら、それこそヒトラーの思うツボだ。今こそ学び、この戦争のような殺し合い憎しみ合う人間の愚かな性を乗越え新たな文明を築くべきです。」と学生たちに語りかけ授業を続けます。

MASTERキートン 2 完全版 (ビッグコミックススペシャル)
浦沢 直樹 勝鹿 北星 長崎 尚志
小学館 (2011-08-30)

確かにこのエピソードと震災とは状況は全く違うでしょう。フィクションとノンフィクション、人災と天災という違いもある。しかし、復興というものが、衣食住の充実だけにあるのではないということが、私の中で共振したのです。人にとって、知識とは文化とは何なのか。それはただ生活に彩りを与えるだけのものではないのではないか。そのことを考えることは、震災の地から少し離れたこの東京の街でも、またもっと離れた様々な場所でも、大切なことなのではないでしょうか。

キートンはスコット教授の「人間はどんなところでも学ぶことができる。知りたいという心さえあれば……」という言葉に後押しされ人生の大きな決断をします。移動図書館もきっと、そのような言葉との出会いを運んでいる、そんな空想をしながら読みました。

走れ!移動図書館: 本でよりそう復興支援 (ちくまプリマー新書)
鎌倉 幸子
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(了)

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「本屋をプラットフォームに新たな生態系をつくる」、『本の逆襲』(内沼晋太郎 著)

この記事の所要時間: 227

本の逆襲 (ideaink 〈アイデアインク〉)

「出版業界の未来と本の未来は同じではない」、というのが本書での主張のひとつだ。確かに、紙媒体であることを前提とした書籍は売り上げが減少していたり、インターネットや電子書籍などの登場などにより、縮小再生産の道をたどっているかもしれない。けれども、本書で提唱されているのは、「本」を狭い定義の中に押し込めないということである。「あれもこれも本かもしれない」と考えることが、これから「本」の仕事をするにあたっての重要なことになってくるのだという。

「本」の定義を拡張するとは具体的にどういうことだろうか。それは本書の中で多くの事例を挙げながら説明されているが、「本」という概念をスキーマのように捉えてみるとわかりやすいかもしれない。フロイト派の精神分析家、ジャック・ラカンは「無意識は一つの言語活動として構造化されている」といったが、つまり、「本」という言葉の持つ意味のまとまりや機能の方を主体とする時、それは情報の把握の仕方と関わってくる、ということだ。その結果、紙で作られたお馴染みのあの形状から、「本」という概念が解き放たれるのである。

本書の中で紹介されているが、WIREDの創刊編集長であるケヴィン・ケリーはあるインタビューの中で、「持続して展開される論点やナラティブこそが『本』の最小単位である」と語っている。まず、本をハードとソフトに分けて考えると、現在、本を構成するソフトは様々な領域を横断して拡張していっていることがわかるだろう。そのように拡張していくさまを著者は「本の逆襲」と呼び、それが「これから本は売れなくなる」と喧伝した人々に対する「本」からの逆襲であるというのだ。

本書では、「本」の持つ可能性を様々な角度から思考・実験している様子が描かれているが、特に「本屋」というものを今の社会環境の中でアップデートすることが目指されている。「本屋」をプラットフォームにしたひとつのライフスタイルの模索。その実験はまだ始まったばかりだが、私たちは私たちの望む「本屋」の形をまだ知らないことは確かなのではないだろうか。それは新たな文化の生態系、知的インフラを形作るものになっていくことが予想される。新しい概念や市場を作り出そうとする時、多くの場合、既存のシステムからの反発が生じる。システムの形を変える可能性があるのだから、それは当然のことかもしれない。けれども、問いと実践の蓄積の中で形作られてきたのが、現在の社会であるということもまた確かなことなのである。薄目ではあるが、本書はその試行錯誤のダイナミズムを感じ取ることのできる一冊となっているといえるだろう。

(了)

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「世界の豊かさを引き出すノンフィクション」、『世界の美しさをひとつでも多く見つけたい』(石井光太 著)

この記事の所要時間: 38

(003)世界の美しさをひとつでも多くみつけたい (ポプラ新書)

小説や映画などのジャンルで、フィクションとノンフィクションの違いについて議論されることがある。その論調の多くは「両者の間にある境界線は一般的に思われている以上に曖昧である」、というものだ。私たちは様々な「現実」を解釈する時、物語などをインターフェイスとして媒介させる。その解釈された「現実」は、そのインターフェイスによって整合性を持たされているものであり、フィクションと無関係ではいられるものではない。つまり、私たちは知らないことや見えない部分をフィクションによって補い、とりあえず「そういうものだ」と思考停止して日常生活を営んでいるといえるだろう。もちろん、それは人間の認知限界に基づく最適化のための縮減機能でもあるが、そのように日常生活はフィクションとノンフィクションが入り混じっている状態で形作られている。けれども、「現場」に赴き高い解像度で当事者たちと関わっていくと、そこにはステレオタイプではない「現実」の重さや複雑さが横たわっている。

著者にとってノンフィクションの魅力は、現場に赴き当事者と会いコミュニケーションをしていく中で、その人たちを支えている「小さな神様」や「小さな物語」に出会うことであるという。ただ表面を撫でるだけでは分からない「襞」を押し広げ、その中に見出した「現実」に驚き戸惑う。心を突き動かされ、それを共有すべく文字を書き写真を撮る。

著者が出向いていく「現場」は、主として貧困や差別、大きな惨状の渦中にある人々がいる場所だ。彼らは剥き出しのまま外界に晒されており、一種の極限状態にある。だからこそ、そこに彼らを支える幸福や希望といったものが露わになるのだ。絶望的な状況の中で、何故、当事者たちは生きていくことをやめないのか。その生を支えているものは何なのか。著者はその支えているものを「小さな神様」や「小さな物語」と呼ぶ。それらは本人以外には空想や妄想のように客観性を欠いたものに見えるかもしれない。けれども当事者にとって、それは「光」そのものなのだ。その「光」の大切さを読み手に伝えること。著者はそれが自分の仕事であるとしている。

そのような仕事をしていく上で、著者が生まれ育った環境は大きな意味を帯びているように思われる。もちろん著者の繊細さによるところも大きいと思われるが、自分の育った環境と「現場」の落差があればあるほど感情の起伏が大きくなる。時には拒絶反応もあるだろう。もし、著者が当事者たちと同じ環境で生まれ育ったのなら、これほど瑞々しいルポルタージュを書くことはできないかもしれない。書けたとしても、もっと違ったものになったはずだ。

ノンフィクションは「現実」を単純化は身も蓋もない「現実」を露わにするものであり、あまり味気のないもののように思う人もいるかもしれない。しかしそうではなく、単純化ではなく複雑さの開示こそが著者にとってのノンフィクションの営みなのである。そして、それが世界を豊かにするということに繋がるという信念が、そこに息づいている。

その信念は目の前の「現実」を曇らせ捻じ曲げるものではない。その意味で、著者のノンフィクションは「弱い」とも言えるかもしれない。この「弱さ」は決してネガティブなものではなく、例えば、隈健吾氏の「負ける建築」と同様の「弱さ」である。自らの存在を消し切る参与観察は不可能だ。けれども、複雑さを単純化しないこの「弱さ」こそ著者の魅力のようにも思われる。

(了)

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「多宇宙ヴィジョンの発見と人間原理の台頭」、『宇宙はなぜこのような宇宙なのか ー 人間原理と宇宙論 ー』(青木薫 著)

この記事の所要時間: 159

宇宙はなぜこのような宇宙なのか――人間原理と宇宙論 (講談社現代新書)

「基本粒子の質量や電荷やその他もろもろの物理定数は、なぜその値になっているのだろうか?」

物理学者はながらくこの問いの解答はひとつであると考えていた。つまり、「宇宙は、ある必然性があってこのような宇宙になっている」との信念のもと、究極理論、最終理論を追求してきたのだ。しかし近年、宇宙には別のありようがある可能性が濃厚になってきている。宇宙の青写真は無数にあるというのだ。その発見によって、私たちが住むこの宇宙の研究は環境科学の様相を呈してくることとなる。つまり、巨大な宇宙の中にさまざまな地域があり、その中のひとつに私たちは存在しているにすぎないのだ。この発見によって本書のタイトルである「宇宙はなぜこのような宇宙なのか」という問いに解答が与えられることになる。「私たちは存在可能な宇宙にたまたま存在しているだけ」というのがその解答だ。

もちろん、この解答の前提になっている「多宇宙ヴィジョン」に対する疑問もある。なぜならば、今のところ私たちは他の宇宙を直接的に観測することができないからだ。確かに観測や実験は科学の根幹である。けれども、原子やクォーク、ブラックホールなども元々は数学的構築物であって実在物でないと考えられていたのだ。この多宇宙ヴィジョンに基づく世界観に関しても、論理上そうなっていないと説明の付かない事象やデータがあることは確かで、現在、物理学者たちはその検証の可能性を探り始めている。

現代宇宙論を概観することは、私たちが思考の前提としているものに向き合うために良いきっかけを与えてくれる。思考にはある種の前提のようなものが存在し、それが情報や論理を統制している。私たちの思考を統制しているものが何故そのようになっているのか。本書は「人間原理」をテーマとして宇宙論の変遷を描いている。その根拠に触れようとすることは、個々人の主体性というものの意味を考える通路でもあるだろう。主体というものは特権的な場所にないからこそ主体でありうるのかもしれない。そしてそれはこれまで哲学の問いでもあったのだ。

(了)

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「孤立の一般化が広がる背景にあるもの」、『孤立無業(SNEP)』(玄田有史 著)

この記事の所要時間: 344

孤立無業(SNEP)

「孤立無業」とは、「20歳〜59歳で未婚の人のうち、仕事をしていないだけでなく、普段ずっと1人でいるか、もしくは家族しか一緒にいる人がいない人たち」のことを言う。英語では「Solitary No-Employed Persons」と表現し、それぞれの単語の頭文字を取って「SNEP」(スネップ)と呼んでいる。この概念は世界のどこにもなく、東京大学の研究プロジェクトの中で新しく開発された国産のものだそうだ。

この「SNEP」と呼ばれる人たちは、2011年度調査で約162万人ほど存在しているとされている。2001年の調査と比較すると、10年間で約80万人近くも増加しているという。現在、誰でも無業者になれば孤立しやすくなるという「孤立の一般化」が広がりつつあるのだ。これが本書の現状分析であり問題設定となっている。

著者は本書の中で、「SNEP」の増加に歯止めをかけるために必要な支援活動として「アウトリーチ」という手法を提案している。「アウトリーチ」とは、ケアが必要であるにもかかわらず施設などに通うことができない人たちに対して、専門家が自ら出向いて支援する取り組みのことだ。「SNEP」の状態になるのは他者との接触を欠くことが大きな原因になっており、その特徴を踏まえた上での支援が必要になってくる。

さて、この「SNEP」には大きく分けて二つのタイプがある。それは家族とは一緒にいる「家族型」と完全にひとりになっている「一人型」だ。

この「家族型」の無業者で思い出す風景があった。それは僕がアジアを旅している時に泊まっていたゲストハウスで見かけた子どもたちの姿だ。アジア地域などであまり裕福でない家庭では、子どもに投資する教育費に限りがあるため、複数の子どもたちのうちで最も優秀な子どもをピックアップし、その子に集中的に投資するという。そして、優秀な子どもを出世させ教育によって獲得されたその経済力の下に家族みんながブラ下がるというのだ。これは話に聞いていただけでその子ども達がそういう状態だったのかは分からないが、あまり年齢の違わない同じ家庭の子どもたちは役割分担ははっきりしていることを見て取ることができたことは事実だ。明らかにのんびりしている子と凛々しく賢そうな感じの子との間には、全く異なる緊張感があったことを記憶している。

もちろん、投資の対象にならなかった子どもは別に社会から孤立している訳ではないし、家の手伝いくらいはしているだろう。それに社会的な背景もまったく異なるから、「SNEP」の「家族型」に重ね合わせるのは無理があることは分かっている。年齢層的にも。けれども、同じような状況下にあっても、受け取り方の違いや社会的な場所の配置による包摂もまたあるのではないかと思ったのだ。

確かに「SNEP」はケアが必要な状態である。けれども、ただ治療して労働市場に押し戻すだけでは対策として充分ではない。無業者になったら社会の目から隠れなければいけないような社会的風潮を変化させていくことが、当事者たちの「生き辛さ」への長期的な対策にもなるのではないだろうか。。つまり、制度的なアプローチと文化的なアプローチの両方を用いることによって、車の両輪のように生きやすい社会を作っていくという方向性を模索することが可能なのではないだろうか。もちろん、経済力や労働力は現代社会において必要不可欠なものだ。けれども、それに隷属され価値付けされるだけの制度や文化風土は、人の生活から多様性を奪い社会を貧しいものにしてしまう。働き始めたとしても、はじめは収入が少なくともその人の将来に繋がるスキルなどが身に付くならいい。しかしただ使い捨てられるような労働力として市場に投入されるだけであるならば、「SNEP」の人でなくても働くことに希望は見出せなくなる人たちは多く存在するだろう。

僕たちがより善い社会を志向していくのならば、まずどのような社会に住みたいのかというビジョンを描くことが必要になってくる。そうしなければ、次から次へと現れてくる問題に対処することで手一杯になってしまい、僕たちは知らぬ間に望まない場所に流れ着いてしまうかもしれない。

(了)

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「浮上するグローバル文明における二つの未来像とその選択」、『サイファーパンク』(ジュリアン・アサンジ 著)

この記事の所要時間: 235

サイファーパンク インターネットの自由と未来

本書は、ウィキリークスの編集長であるジュリアン・アサンジ氏をはじめとする思想家、活動家の3人による座談会をまとめたものだ。テーマは今後のインターネットにおける自由について。

民主主義の未来に寄与するものと思われていたインターネットという情報技術は、現在、人類史上最も危険な全体主義の尖兵へと変化しつつある。これが本書で示されている現状認識。タイトルにもなっている「サイファーパンク」とは、一般市民が強力な暗号を利用することによって、国家による検閲から個々人のプライバシーや匿名性を確保し、国家が個人に及ぼす監視やコントロールを抑制した自由でオープンな社会を目指す思想のことをいう。

本書では、私たちの進むグローバル文明の行き先について、2つの可能性が示されている。

①強者に透明性を、それ以外の者にプライバシーを促進する未来

②わけのわからない謀報機関とその一味である多国籍企業の複合体にあらゆる人々を支配する力を明け渡す未来

サイファーパンクが目指す未来とは、①ということになる。

もしかしたら、読者はこのような危機意識を過剰なもののように感じるかもしれない。しかし、その変化の最前線を闘ってきた彼らにとって、その認識はとても具体的な現実なのだ。彼らはその危険性を間近で体験してきた。だからこそ、本書はマニフェストではなく警告の書なのである。

座談会の中で、国家システムが監視体制を強化する上で鍵となる「情報黙示録の四騎士」と呼ばれるものに言及されている。それは以下の4つだ。

1.テロリズム

2.マネーロンダリング

3.麻薬戦争

4.児童ポルノ

もちろんこれらは犯罪であり取締る必要性があるものだが、その監視体制を強化していく背後に、様々な情報を収集・蓄積・支配する権力を拡大しつつある「強者」が存在しているという。その告発と闘争こそがこれからの民主主義社会での重要な活動になってくる、というのが本書の趣旨となろう。

組織は権益の自己拡大を目指すものだ。国家というシステムもまたその例外ではない。だからこそ、例えば立憲主義という法的な仕組みによって民主主義社会を構築している。システム運用者へのアクセスや監視が存在しなければ、その権益は秘密裏に肥大化し、結果、市民社会に害をなす可能性すらある。国家システムとそこに住む人々の利害は、単純にイコールで結べるものではなく役割が異なる。

「弱者にプライバシーを、権力には透明性を」。

このサイファーパンクの合言葉の重要性を、もう一度、私たちは考えなくてはならないのではないだろうか。

現在、アサンジ氏はオーストラリアで9月以降に行われる予定の上院議員選挙に出馬することを明らかしている。

(了)

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