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ニッポンの海外旅行 若者と観光メディアの50年史 (ちくま新書)

 最近、私は海外旅行関係の本を集中的に読んでいるんだけれども、その中には学術よりのものも幾つか存在する。本書は海外旅行に関する数少ない学術っぽい新書だ。

 法務省の統計によると、20代の海外渡航者が最多を記録したのは1996年であり、その年には約463万人の20代が日本から海外へ出掛けたという。それが12年後の2008年には約263万人で43.4%も減少。

 そのような状況で、若者が海外にもっと関心を持つようになるためにはどうしたら良いのか。そのような問題設定の元でこの本は書かれている。その問題設定はどこから生まれてきたのか。その一例と思われるエピソードが本書の中に綴られている。

 著者は大学時代に交換留学生としてオーストラリアに一年間滞在していて、それを「長い海外旅行」と表現している。留学中、言葉も通じず友達も作れずに苦しんでいた著者を助けてくれたのはある韓国人留学生だった。その彼は、毎晩のように行きつけの韓国料理屋やメルボルンの街に著者を連れ出したという。
 やがて著者は韓国に興味を抱き、彼に紹介されたオーストラリアやマレーシアやモーリシャスの学生たちとも仲良くなる。その結果、著者の頭の中の世界地図は少しずつ広げられていく。
 その後、著者よりも半年早く帰国することになった彼は、友人たちの電話番号が書かれた紙と、運転席のドアが開かないボロボロの車を残して、「次は君の番だね」と言って去っていく。かつて、彼も同じように異国の留学生に助けられたというのだ。

もしも若者の海外旅行が、未だ見ぬ他者と出会い、自己を相対化して、視野を広げていく方法として、唯一ではないが優良なもののひとつとしてあるのならば、それが霧散して消えてしまう前に、何かが出来るはずだ。

 この本は、著者にとって今まで海外旅行から受け取った様々なポトラッチへの返礼なのかもしれない。この感覚は多くの旅人の中で共有できるものではないだろうか。

 本書の中で若者にとって海外旅行が魅力的になる可能性として著者が強調しているのは、「歩く」ことの重要性だ。その論拠は以下のようなものになる。

 「歩く」という行為は、自然に習得される行為ではなく、歩く地理や社会に応じて、具体的に編み上げられていく固有の身体性のもとで初めて可能になる社会的な行為で、歩く速度や歩調の違いは単に身体性(歩き方)の違いを示すだけではなく得られる体験自体が異なってくる。
 「歩く」ことは、最も基礎的な移動の手段であるだけはなく、最も基本的な認識の仕方を構成する行為で、その土地に固有の「歩き方」を自らの足で歩いて体験することで、その土地に根ざした認識の仕方を体感するとともに、「わたし」自身のこれまでの「歩き方」を相対化し、改めて認識することにも繋がる。

 そのような歩くという行為が他者と出会い、自己を相対化する楽しみを味わうために効果的なのではないかと提案されているのだ。そして、旅行関連のメディアにおいての「歩く」ことを軽視する風潮が、現在の若者の旅行離れの一因なのではないか、と考えているのである。

 その仮説の精度や実践は分からないが、旅行をしているとさまざまな出来事に出会う。例えば、近年、東アジア地域で様々な政治的な摩擦が起きているが、実際にその土地に行き、様々な人たちに会い、話し、助けられるという経験をしていれば、その土地に住む人たちのに対するステレオタイプなものの見方が結構幻想だったりすることが分かるはずだ。想像上の抽象化された他国民のイメージによって煽られやすくなっている理由のひとつは、何らかの形で海外旅行者の減少と関連のあることなのかもしれない、と思った。

 ちなみに、本書の中でも登場する「旅行人」の蔵前仁一さんが、内容に関してのレスポンスと間違いの指摘をしておられます。

https://d.hatena.ne.jp/kuramae_jinichi/20100728/1280313613

以上。

【中川康雄(なかがわ・やすお)】
文化批評。表象・メディア論、及びコミュニティ研究。
インディーズメディア「未来回路」主宰。
Twitter:insiderivers
個人ブログ:https://insiderivers.com

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