—— 和歌であればそれがコミュニケーションの手段だったということも文章がたくさん現存していることの理由の一つのようにも思うんですけれども、そのコミュニケーションの連なりみたいなものが、現在まで脈々と受け継がれているような印象をうけますね。
そうですね。自律的なコンテンツが流通するのは、コミュニケーションを志向するコンテンツが流通する後の段階なのかもしれませんね。
例えば勅撰和歌集っていうのは、同時代にあったいい歌や、前の勅撰集に取られなかった昔のよさげな歌を集めるわけですが、その時に贈答歌という形で、コミュニケーションというか、むしろコミュニケーションの痕跡が入ってくるんですね。コミュニケーションそのものがすぐれたコンテンツになる。こういう現象って面白いじゃないですか(笑)
こうした面白さは今よりももっと高く評価されていいと思います。だから僕はニコニコ動画とかで「動画よりも、コメント職人がすごい」みたいなコミュニケーション志向のコンテンツは割と素直に愉快なきもちで見られるんです。作品を受け取って、投げ返すための〈間にある〉コンテンツですよね。現在の文章系同人の場合、それがあまりないですね。つまり、相手のコミュニケーションの表現をお互いに取り合って創作を続けるとか、もっと人の表現とか文化圏で使われている言葉をお互いに使い合う、影響しあったことを素直に認め合うこともできるはずなんです。文章系のSNSに「綾文」というのがありますが、ここは相手と表現を交換しあうSNSなんですよ。手紙や履歴書を書くときに、書式のテンプレートを探すでしょ。そんな風にフィクションを構築してもいいんじゃないかと思うんです。
でも、今はたしかに、露骨に目の前にいる相手の表現をとる、というのはいろいろな理由で難しいのかもしれません。
—— そういえば、レディガガが出てたフジテレビの「SMAP×SMAP」の動画をyoutubeにアップしたら、クレームが来て削除させられたことがありましたね。
そこまでいくとちょっと違った問題かもしれませんが、たしかに難しいですよね。コピーからコピー以上のものに昇華する可能性を認めて、コピーをどこまで許容するのか。これはもう、その時代時代、時期や界、法などとの兼ね合いをその都度考えていかなければならないはずです。コピーの価値と意味は簡単に求められない。ものすごく複雑なんです。
例えば、写本時代だったらコピーそれ自体がすごいことなんですよね。つまり写本、手で書く、写すことの難度は今の比ではありません。ゼロックスコピーのように丁寧に写すって超がつくほどの専門技術になるんです。版本が出来るとコピーは容易になるんですが、そもそも版を作るっていう段階で大変な作業なわけですよね。それも数百部刷ったら、もう使えなくなってしまう。では写真はどうか。写真だと紙の性質や版型がわからなくなってしまったりして欠落する情報がたくさんあるんですよ。転写本のほうが正確さは減っても情報量が多かったりすることはたくさんあるんです。
今のデジタル環境の中では「表現を取る」ことは、コピーなのかパクりなのか、オマージュなのか、どこまで許されるのか、という線引きは常識的な判断だけでは難しいところがあると思います。コピペだと丸パクリですが、リツイートだと拡散ですよね。科学技術や「どの情報をコピーするのか」といった問題の政治常識はめったなことでは合意にいたらないでしょう。
あるいは、匿名で書かれたものは誰のものなのか。今はまさに権利者同士の争いや「お金」のレイヤーが盛り上がり過ぎてしまっていてなんですが、創作や引用という観点からはコピーとコピーライトにおける正義の問題について議論していく必要があるでしょう。
同時に、法律的・権利的にはグレーゾーンでも外部にでないことや伝統的であることで認められる文化もあるんですよね。それとは別に高速かつ大量にさまざまな手法やテクストが流通することで発展する文化もあります。どうしましょうね(笑)
—— これからの同人カルチャーについて、何か望むことなどはありますか?
《続いていく》一言で言えばこれが全てです。僕も同人を専門的にやってきたわけではないのでお話できることが少ないんですけれども、同人というレベルに限っていえば、よくいわれる幾つかの誤解を解いておきたいという気持ちがあります。
まず、同人を文化圏としてみた場合、その規模は決して小さいものではないということです。たとえばチャリティですよね。何か大きな悲劇が現実世界でおこると、同人でもチャリティコンサートとかチャリティ同人誌とかがしばしば作られます。この間の東日本大震災の、とあるチャリティー同人誌は確認できているだけで最低1万部以上は売れています。その前の宮崎の狂牛病の時には、6千部以上出しているサークルがあります。同人音楽も2千枚以上売れているチャリティーCDがでています。そうしたレイヤーが「同人」としてまとめられているってことはなんかすごくないですか? 商業規模に比べれば小さなものかもしれないけれど、商業作品よりももっと純粋な善意のようなものを、僕は勝手に感じてしまいます。震災の後に、中止になった東方例大祭で新譜を用意していたサークルの多くが、自分たちの音源を無償で公開しました。新譜に使うお金を寄付してくれっていってね。そのDL数は正確な数はわかりませんが、大手の数サークルを合わせた数で50万前後あったように記憶しています。この規模が小さいわけがない。
また同人をやることに意味がないこともない。作ってるものがただの自己満足だったとしても、自分が満足できるものってそんなに多くないでしょうし、自分を満足させることは素晴らしいことです。
また、日本の同人カルチャーに関しては海外の研究者から見ても非常にユニークな環境です。
そして、音楽・漫画・グッズ・文章・アート。こうした様々なジャンルが「同人」というフレームでつながりうる可能性があることです。つまりジャンルの越境ですね。これはもっと別のレイヤーでいえば、「普段聞かない音楽でも『東方』の曲なら聴くかも」みたいな小さい越境も含まれます。文学フリマはすでにそういう雰囲気がありますよね。ぜひ普段買わないサークルもいろいろかってほしいと思いますし、暇な人はみんな来たらいい。
現在において越境なんて珍しい現象じゃないともいえます。インディーズやウェブサービスが実現させていることです。でも、そうした環境と同人コンテンツは相性がいいように感じています。これらの環境についての考察や、あるいはコンテンツについての批評はもっと盛んになるべきだと思います。
それに、同人の未来については僕だけじゃなく、同人をやる人みんなが何かを思うでしょうね。それはとてもよいことのように思います。
僕個人からは、繰り返しになるけれど、同人作家は「作る」ことにもっとポジティブになって欲しいと思っています。同人といえば今はまだ秘めやかな趣味、私の夜の顔みたいなイメージがあると思います。でも、創作物って、どんな形でも自分の思想や表現や芸術作品としての側面を持ってしまうんですよ。いわばノーブルなものになってしまうと思うんです。だから、そうしたものを作っているっていうことに対してポジティブになって欲しい。同人であることが非難されたり、あるいはお金にならないという点で価値がないと思い込んだりして落ち込んだりもするけれど、そういうことは一切ない。
誇りをもって創作者\思想家\哲学者\たちの歴史に連なることを大胆不敵に主張してほしいんです。そうした主張を、少しでもポジティブに受け止める社会になっていってくれれば、同人カルチャーの居場所が、少しでも増えるんじゃないでしょうか? 新八のコスプレして「私は銀魂が好きだあ!」って叫んで何がわるいって話です。その思いこそが私たちを正午から午後へ進ませる。
でも、どうなっても創作への欲を人が持つ限り、きっとみんな何かを作り続けるでしょう。作り続ける限り、何も終わったりしません。それが同人であるかどうかはもう関係ないんです。作り続けて、安心して、過去から未来へと足を運んでいくことができれば、基本的に僕は満足なんです。こういうところが、志が低い! って怒られたりするところなんでしょうね(笑) でもまぁ、海外で評価されるとかえらい新聞社から顕彰されるとか、オワコン作家にすごいすごいって言われたりしても「ふーん、それで?」って思いません?(笑)
(了)
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