「これは紛れもなく『学園ドラマ』である。」、映画「桐島、部活やめるってよ」(原作・朝井リョウ/監督・吉田大八)

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桐島、部活やめるってよ (本編BD+特典DVD 2枚組) [Blu-ray]

 やっと、この映画を観た。DVDのレンタルでだけれども。そして、Twitterとかでそれなりに評判が良かったから期待して観たんだけれども、僕はあまり目新しい発見をすることができなかった、というのが正直なところだ。その違和感を勢いに乗せてレビュー。

 何故、自分がそのような感想を持つに至ったのか。この文章ではそのことについて考えてみたい。

 本作品を批評家の中森明夫さんは、「この映画は青春映画や学園ドラマに対する批評である」と評している。けれども、それでも僕はこの映画は紛れもなく「青春映画」であり「学園ドラマ」であると言いたい。

 中森さんの批評内容はこちら。

 https://matome.naver.jp/odai/2134518604322114301

 何故か。それはスクールカーストによって教室がもともとバラバラであることなんてもうずっと前からの前提であるからだ。むしろ、「教室」はバラバラの状態を初期状態として作られている。確かに部族的なカーストの成立は近年に顕著な特徴かもしれない。それらの属性の者たちはその概念、クラスタを背負うことでアイデンティティを意識するようになるから、それは今現在、それは先鋭化しているのだろう(よく知らんけど)。けれども、単一のヒエラルキーは虚構の上に成り立っていて、不安定なものであるってことを「青春映画への批評」と言われても、そんなのは当事者たちからすれば普通の「学園」の風景に他ならないのだ。

 こういう風に思うのには多分、自分の高校時代の過ごし方も影響しているのかもしれない。もしかしたら、蛇足みたいなものかもしれないけれども、そのことについてちょっと書いてみよう。

 僕は高校時代、学校をよく休んで学校の外に遊びに行っていた。確か、登校の日数とか卒業条件ぎりぎりだったと思う(そういう風に計算したから)。それは引きこもりになったとかそういうことではなく、学校社会とその外部との関係がそれなりに見えていたからだ。だから、1人学校を休み、街をぶらついたり、結構色々な年齢や職業の人たちと交流したりしてた。大したことないけど。田舎だったし。といっても、全然ヤンキーとかでもなくどちらかというと文化系だったのが、とにかく学校文化の中に埋没することができなかった。それが虚構の価値体系の上に成り立っていて、社会システムに組み込まれるための場であることは自明なことだったのだ。

 もちろん、その当時(結構前)も今ほどでないにしろ、スクールカーストは存在した。確かに今に比べると随分緩いものだろうけれども。そういうえば、岩井俊二監督の『リリィ・シュシュのすべて』を観た時に、僕はそれを学校文化の現在性みたいなものを圧縮したものだと思っていたのだが、5つくらい年下の人たちと話しているとそれがまったくのリアリティであるということに驚いたことがある。でもまぁ、それにしてもスクールカーストの問題は「学園」が成立して以来、常に潜在的に顕在的に存在していたし、当然、今も存在している。それが時代によって、比較的安定していたり不安定になったりしているだけだ。

 この作品が「青春映画」であり「学園ドラマ」であると思った理由。その1つは当たり前のことなのだけれども、学校の外部についてほどんどと言っていいほど、描かれていないところにもある。僕が、この映画にあまり新しい発見をみることが出来なかった理由もその点にあるのだろう。崩壊しているように見えようが見えまいがそれは「学園」の中のことだ。「学園」を規定しているシステムは全く傷ついていないし、その姿さえ現してはいない。どんな表象の仕方であれ、「学園」という入れ物の中のドラマは「学園ドラマ」である。ヒエラルキーの不安定化や脱構築とか、普通に結構あったよ。自分もそれに加担したこともあるし。それは少なくとも僕にとってはありきたりな「学園ドラマ」の1つでしかない。

 綺麗なものだけを描いた「青春映画」が虚構であるなんて、取り立てて今いうことではない。それが否定されたとしても、「青春映画」はその枠組みを破壊されはしない。

 あと、確かに隠された物語の中心「桐島=キリスト」といういう図式の提示は、現代文学の中に古典的な手法が取り入れられていることを示しているという点で、面白い指摘だと思った。

 けれどもキリストの場合、その物語と教義が一体になることによって、強度を持ったコミュニティを生成するが、本作品において「桐島」はある価値体系の「ゲーム」から降りた存在としか描かれていない。つまり、この指摘は類似の構造の一部を提示したのみなのだ。つまり、そのヒエラルキーを形成する価値観は絶対的なものではない、といっているにすぎず、その中でのパワーバランスが崩れ、流動化し、再構築がはじまっているというのに過ぎない。その先が描かれてないこと、それが僕がこの映画で物足りなさを感じた理由の1つでもあるだろう。

 そのあたりの問題が『何者』に引き継がれていくのかなぁ。まだ読んでないけど、本作品の原作者の作品を読んでみたくなった。読んだらまたレビューでも書いてみたい。

 ちなみに、ボーナストラックの映画部の日常は面白かったです。

(了)

【中川康雄(なかがわ・やすお)】
文化批評。表象・メディア論、及びコミュニティ研究。
インディーズメディア「未来回路」主宰。
Twitter:insiderivers
個人ブログ:https://insiderivers.com

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