「フランシス・ベーコンと村上春樹の共通点」、『フランシス・ベーコン展』(東京国立近代美術館)

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アトリエ・ワン ATELIER BOW-WOW

1.ベーコン展とキュレーターのレクチャー

 

アイルランドのダブリン生まれで、ロンドンを拠点に活躍した画家・フランシス・ベーコン。日本においては生前の1983年に回顧展が開催されて以来、30年間ぶりの個展が国立近代美術館にて行われた。

https://bacon.exhn.jp/

先日、この「フランシス・ベーコン展」のキュレーターの方のレクチャーを聴く機会があった。本エントリはその内容を受けたものである。

僕はベーコンに関してあまり詳しくない。よく見かける、例えば、今回の展示のフライヤーに掲載しているような作品くらいしか知らなかったし、かなり昔、サラッと読んだフランスの哲学者ジル・ドゥルーズの著作『感覚の論理』の中でも扱っていたな、くらいの感覚だ。基本的にはドゥルーズ哲学からのリンクとして知っているくらいの位置付けだった。

もちろん、レクチャーを聴く前に展示も観ていてその展示への一応の印象や感想を作って参加したわけだが、その印象や感想は大きく変化することになった。

 

2.ステレオタイプな解釈への気付き

 

まず、自分のベーコン作品への解釈が非常にステレオタイプである種の理想化をしていて、その枠の中に作品の解釈を当てはめていたという単純な事実に気付いた。

例えば、ベーコンが同性愛者であったことや専門的な美術家としての訓練を経ておらず活躍を始めた時期も比較的遅かったことなどから、僕の中でわかりやすい形での物語化が行われていたのだ。その勝手に作り出した物語を作品と重ね合わせることによって、解釈を生み出してしまっていた。

しかし、その解釈はその専門家のレクチャーを聴いていくうち、直ぐに過去のものとなってしまう。解釈にかけられた鍵を外していくようなそんな経験だった。やっぱ専門家の話は面白いなぁと。

 

3.ベーコンを巡る二つの論点

 

そのレクチャーで僕の中に論点として残ったのは2点。聴いたのがもう何週間も前の話で、全体像をはっきり覚えているわけではないのだが、自分の中に今、はっきりと残っていることを言葉にしていく。

ひとつは、今回のベーコン展を観た感想としてある美術関係者がTwitterで「ベーコンという作家はもっと暴力的な作家ではないのか」という批判を寄ていたことから、その批判に対する応答があった、という点。そして、もう一つは、レクチャーの最後の方で話されたことなのだが、ベーコンという作家と小説家・村上春樹氏との共通点についてだ。

まず、最初の論点からみていきたい。ベーコンが暴力的な作家であるという見解に対しての応答を要約すると、「それはベーコン作品の一部しか観ていないからこその批判なのでないか」、ということになる。ベーコンの作品とされているのは現存しているもので700点ほどとのことだ。そのうち、インパクトのある作品が注目を浴びベーコンの代表作とされているだけで、それはベーコンという作家を狭い解釈の中に押し込める一方的な全体性を欠いた見解なのではないか、ということ。

そして、二つめの論点、村上春樹との共通点について。これは恐らく主人公のデタッチメントさが作品の特徴となっている頃の作品との共通点だろうと思われる。村上作品は今でも一作一作その物語構造を変えてきているので、現在の村上春樹作品との間の共通点というと難しいかもしれない。その共通点というのは、これも一言でいうとその「保守性」と「デタッチメント」である。

 

4.ベーコンの保守性

 

性的マイノリティでもあったベーコンが保守的であるというのは、僕のステレオタイプなイメージを根本から揺るがす事実だった。ベーコンは、選挙があればせっせと保守勢力を支持し、生活の変化を嫌った、というのだ。その保守性は「デタッチメント」を可能にする生活の知恵のようなものでもあったのだろう。

確かにそうだったのである。けれども、僕はここでもう一つの共通点を付け加えたい。それは作家の作品への取り組み方についてだ。

 

5.共通点は咀嚼し更新すべきコアのありか

 

ベーコンは、もともとデザインの仕事を生業としていたという。レクチャーではそのデザインの観点から作品を観るということも行われていたのだが、ベーコンがよく使っているモチーフは、過去の名作から当時の雑誌など多岐に渡っている。特に現代においては、人を魅了するインパクトのある写真などに強い関心を寄せていたようで、グロテスクともいえる写真やエキセントリックな素材を多く収集し、それらを作品制作に活かしていたそうである。

では、何故そのようなインパクトのあるグロテスクなモチーフに向き合っていたのだろうか。その理由を決定づけるのは、もはや不可能かもしれないが、ここにひとつの仮説をおいておこう。

それは、目を背けたい現実に向き合い咀嚼しない限り、その現実を更新することはできないと考えていたからでもあったのではないだろうか。

そして、それは近年における村上春樹氏の作品におけるテーマでもあるように思う。

つまり、僕はフランシス・ベーコンと村上春樹という作家の共通点は、そのデタッチメントとそれに伴う保守性にあるだけでなく、近年の村上作品における「成熟」の物語ともベーコン作品は共振しているのではないか、ということを言いたいのである。

目を背けたい現実にこそ、咀嚼し更新すべきコアが存在するということ。この作品への取り組み方、態度こそ、この二人の作家における共通点なのである。もちろん、ここに幾ばくかの理想化が行われていることは否定しないけれども。

(了)

 

【中川康雄(なかがわ・やすお)】
文化批評。表象・メディア論、及びコミュニティ観察。
インディーズメディア「未来回路」主宰。
Twitter:insiderivers
個人ブログ:https://insiderivers.com

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