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ゲーミフィケーション―<ゲーム>がビジネスを変える

 「物語」から「ソーシャル」、そして「ソーシャル」から「ゲーム」へ。どうやらこの流れは必然的なもののようだ。ライフログなどの膨大な情報の海を生み出し、それを何らかの形で方向付け活用していくことがこれから目指される。その情報を生み出すことと活用することの両方でこの「ゲーミフィケーション」という技術は使用されていくだろう。

 例えば、ライフログの活用のひとつとして、東浩紀氏の著作『一般意思2.0』に示されている「無意識民主主義」という発想がある。それは膨大なデータから様々な人々の欲望を解析し有効活用するというものだ。そこで、如何に有効なデータを収集・解析・フィードバックするのかということが課題のひとつとしてあがってくるだろう。そのシステム構築にこの「ゲーミフィケーション」を組み合わせれば、効果的に機能していくかもしれない。集合知をうまく機能させるためのアーキテクチャとしての「ゲーム」。

 これから先の未来、大量のデータを収集しそれらを解析する場所は、おそらくは大きな力を持つことになる。そして、ユーザーにとってどの「ゲーム」に参加するのかということが選択するのかということが重要になってくるのではないだろうか。どの「ゲーム」を選ぶのかということは、自分のライフログなどの情報を提供する場所を選ぶことと同義とはいわないまでもそれに近い状況になっていくかもしれない。どの「ゲーム」を使用するのかということが、そのままの個人情報の提供先の表明にもなるのだ。

 また、どの「ゲーム」を選択するのかという意思決定の余地が、「ゲーミフィケーション」が一般化していく上での重要なポイントになるのかもしれない。たくさんの「ゲーム」があるからこそ、その中から選択するためには一定の価値基準が必要となってくる。ただ楽しいからそのゲームに参加する、というものもちろんアリだが、おそらく「ゲーム」が一般社会の中で成熟していくには、その視点だけでは足りない。付加価値として「ゲームの目的」がメタ的に機能する可能性を模索することが重要な視点になるのではないだろうか。

 「ゲーム」において、快楽的な面白さが設計の基礎にあるとするならば、どのような目的を設定しようともその理論は応用可能なはずである。ある目的に対してユーザーが賛同しても、それを達成するために必要な継続性を引き出すことが出来なければ、その「ゲーム」の設計自体に問題があるということもできる。ある目的に賛同する人々が集まってきているならば、そのゲームに継続的に参加できないのはその設計にこそ問題がある、と。世の中には、「本当はこうしていればいいのだけれども」とか、「その方が理想的だと思うのだけれども」とか、参入障壁が高すぎたり多くの人々が意欲を持って継続していくことが困難な課題が存在する。そのような課題を発見し解決を試みるのならば、この「ゲーミフィケーション」の技術は歓迎すべきだ。むしろ、そのような種の問題の解決にこそ、その発想と技術は取り組まれなければならないのではないだろうか。「本当はこうしてしまうのがいいのだけれども面倒くさい」とか、「面白くない」とか、そのような状態から如何に関心を引き出して、継続的にその「ゲーム」のプラットホームに意欲を流し込み続けることが出来るのか。 それは人間のポテンシャルを引き出すことの可能性への挑戦でもある。

 今のところ、「ゲーミフィケーション」は、ユーザーが意図せずに設計者の設定した結果を出してしまうという設計者側の目線で語られがちだ。けれども、それと同時に、それによってユーザーが得るものについても考えていかなければ、特定の企業が儲かる以上のことには中々なりにくいかもしれない。もちろん、だからといって、経済成長の方向性を批判したいわけではない。全体のパイを増やそうとすることはいうまでもなく必要なことだ。ただやはり、ユーザーの豊かさに貢献するようなものでなければ、貧弱な薄っぺらいものにしかならないのではないか、とも思うのだ。その仕組み自体には善悪はなく、人間を搾取する力にもなれば、活かす力にもなり得るのだから。

 

【中川康雄(なかがわ・やすお)】
文化批評。表象・メディア論、及びコミュニティ研究。
未来回路製作所主宰。
個人ブログ:https://insiderivers.com

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