「誰かこんな情けない私を
どうか
許さないでくれ
これからの未来に一切の喜びを与えず
こんな卑怯者で弱い私に
一生罰を与えてくれ」
(『空が灰色だから 5』より)
漫画家の冨樫義博氏に『レベルE』という作品がある。その中で、好きになった異性を捕食することで生殖するという進化の道を辿った他の星から来た知的生命体が地球に定住する、というエピソードがあったと思う。その異性を捕食し生殖するという行為は過酷な環境下における生き残りの手段として発達したものだ。しかし、もはや種の生き残り戦略として必要がなくなったのにも関わらず、進化の過程で受肉化したそのシステムと欲動はなくなるわけではない。そのことに当事者は苦悩する。
本書を読んでいて思い出したのはそのような感覚だった。僕たちはここまで分かりやすく生存戦略と倫理観が隘路に迷い込んでいるわけではないが、富樫氏がそのエピソードの中でデフォルメした構造がそこにあるように思われたのだ。日々の生活に埋没していると忘れてしまいがちになるが、人間社会は生き物の群れだ。そして、その営みの中には生存のための戦略が多く忍びこんでいる。それらは時として「遊び」として、時として「いじめ」として表象したりもする。
社会学者のノルベルト・エリアスは『文明化の過程』の中で、原初的な暴力がどのように洗練されエコノミー化されてきたかを描いている。このような文明化の流れの中に例えばフランス革命における「自由・平等・友愛」というテーゼを手に入れたことの配置することも可能だろう。このテーゼは国民国家体制の内側だけにしか射程範囲を持たないものではあったが、それは「種」としての人間が払ってきた多くのコンフリクトの結果、遺産であるともいえる。
生物の歴史が争いの歴史だということは大きな事実のひとつであるし、その頂点に人間が位置しているということも事実だろう。それは原罪意識の存在を正統なものと思わせるのに充分だ。けれども、僕たちはそこに立ち止まり続ける以外の選択肢も持っている。確かに世界は殺伐としているし、今もなお、きらびやかな理想がもっとも絶望的で残酷なものに見えることも事実だ。しかし、僕たちはそのような歴史の中に位置づけられているのにも関わらずそうではない世界を夢見ることもできる。
本書は思春期に独特ともいえるアンバランスな感性と鈍痛をもって、人間の生物としての普遍性と共にそこからはみ出ている可能性までも感じさせる。
理想を建前としてではなく志向性として内包し現実を生きること。
このことが今、僕たちがこの日本で暮らす中で必要なのかもしれない。
なぜならば、それこそが人類の遺産を継承することであるように思えるからだ。
以上。
【中川康雄(なかがわ・やすお)】
文化批評。コンテンツメーカー。表象・メディア論、及びコミュニティ観察。
インディーズメディア「未来回路」主宰。
Twitter:insiderivers
個人ブログ:https://insiderivers.com