この種の内容の本をこのような形で読むことになるとは。不意をつかれたような驚きを持った。著者の佐々木俊尚さんは、元新聞記者でもあるフリージャーナリストだ。私自身、マスメディア、特に大手の新聞社が「反権力」として振る舞うことに対する違和感は持っていたのだが、その違和感の源の構造がここで描かれている。
まずはサクッと要約。
マスメディアは「われわれは反権力だ」と陶酔し、マスメディアを批判するものは「マスメディアは権力の回し者だ」となじるが、どちらにしてもクリシェに過ぎない。権力とマスメディアの関係は記者会見や記者クラブなどの表の舞台にあるのではなく、通称「夜回り」と呼ばれる楽屋のウラ側で作られている関係性にこそが本質。「公」の場所では、記者と権力は記者会見という広場に集まり対立構造を表出するが、「私」の場所では、記者と権力は個人と個人が繋がっていてハイコンテキストな隠れた共同体を作っている。
マスメディアがインサイダーなのにアウトサイダーを自認できる秘密は、「市民目線」「市民感覚」という立ち位置にある。気がつけば幻想のサバルタンとしての〈庶民〉を生み出していた。つまり、当事者の意識を決して生み出さない〈マイノリティ憑依〉。その結果、エンターテイメント化された免罪符として機能するだけのジャーナリズムが蔓延することになった。これこそが、日本の1970年代以降のマスメディアとジャーナリズムの最大の病癖である、と。
そして、佐々木さんは、「当事者」意識を取り戻せ、という主張を展開する。また、それは現在のメディア環境では可能なのではないか、とも。何故なら、この新たなメディア空間では、インサイダーとアウトサイダーの境界は消滅へと向かおうとしているから。ここで、これまでの著作と本書との接続の点が示される。
そして、終章のこの言葉。
「—— それでも闘いつづけるしかない。そこに当事者としての立ち位置を取り戻した者がきっと、つぎの時代をつくるのだ。それは負け戦必至だが、負け戦であっても闘うことにのみ意味がある。」
ここで私の中にあるタームが呼び出されることになった。それと同時に伏線を回収するように、いくつかのイメージが統合される。「革命的敗北主義」という古び埃をかぶったターム。これは、「革命はいつか必ず成就する」というの信念のもと、自己を犠牲にしてでも「敗北」を貫徹しなければならないとし、その積み重ねによって、はじめて革命が成就するという考え方のことをいう。(参照:wikipedia 「革命的敗北主義」)
佐々木氏は本書で、日本の歴史の中に眠っているある潮流を召還してしようとしているのではないだろうか。自らが闘おうとしている対象があまりに強力であることが、その内側にいたからこそ骨身に沁みている、ということなのかもしれない。もしかしたら、ここに新聞記者時代の残余があるのかもしれない。点在する潜在的な「同志」に対する「共闘」への呼びかけのようにも思われた。
ただその潮流を召還するにあたり、もしかしたら望まない形での具現化の可能性もまた考えていかなくてはならないのかもしれない。歴史は繰り返す。オーバードーズがまた起こらないとは限らない。その心配が杞憂であれば幸いである。と、ちょっと水を差すようなことを書いたけれども、圧倒的に私自身はこの闘いを支持せざるを得ない。何故ならば、まさにこのマスメディアに代表される権力との関係形成の問題からソーシャルメディアの可能性への歴史は、私の個人史とも分ちがたく重なり合っているからだ。
【中川康雄(なかがわ・やすお)】
文化批評。表象・メディア論、及びコミュニティ研究。
未来回路製作所主宰。
個人ブログ:https://insiderivers.com
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