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AMEBIC (集英社文庫 か 44-3)

 金原ひとみの小説はいつも主人公が「メンヘル系」で、日常生活の様々なことに悪態をつき、憧れの男性に夢中になり関係し別れるか別れないかして終わる。芥川賞を受賞したデビュー作『蛇にピアス』以降、金原は多作だが、どれを読んでも「依存的な女性の話」という印象を受けた。
 例えば、金原小説の主人公たち(彼女たち)は街でも職場でも心の中でたくさんの悪態をつくし、現在の恋人にも不満ばかりを感じている。心がそれら周りの環境に囚われて、自分の時間を、環境への悪態ばかりに使う彼女たち。「~は嫌だ」「~みたいにはなりたくない」というふうに、対象を強く否定する形で、実は心理的に囚われてしまっている状態を反対依存というが、彼女たちは反対依存しているのだ。
 自立とは、周りの環境がどうであろうと自分が行いたいことを自分で発見し自分で行うことができ、自分の人生を生きることができる状態としておこう。依存を語るなら、自立を定義しなければ先に進まないから。
 当たり前だが、自分の人生を生きる、とは、社会的出世や人から感心される程の結果を出せるか否かとは関係がない。もちろんキャリアウーマンになりたいでも良い。本人が心から望んでそれを目指すならば素晴らしいことだろう。子供を励まし続ける良き母親でありたいでも良いし、飲み歩いて様々な人々と交流したいでも良い。どんな自分でありたいかを想像してそこに近づくのは自分の決定であり責任であり、自分の生活の上手くいかなさを周りのせいにはしない状態が自立だ。
 金原小説の主人公たち(彼女たち)は、現在の自分への不満を環境のせいと感じてしまう心性を持っている。私の日常がつまらないのは一緒に暮らしている男のせいだ、という訳だ。程度の差はかなりあるのだが、このような女性は多いように思う(そうでない女性もたくさんいるだろう)。
 彼女たちは「散文的時間(日常生活の時間)」が耐え難いので、「詩的な時間」を求めずにはいられない。「詩的な時間」とは非日常の心ときめく魅惑の時間、彼女たちにとっては憧れの男性を愛し愛される時間のことだ。彼女たちが浮気か不倫か恋のときめきを絶えず求めてしまうのは、環境(男)が変われば私(の生活)も変わると思っているからだ。金原小説では、周囲への悪態と憧れの男へのときめきが交互に語られるが、これらは構造的にワンセットなのである。
 作家メアリー・モリスのエッセイ「女と旅」を引用したい。

 『女たち自身の文学』という本のなかで、エレイン・ショーウォルターはいっている。

「公的な社会への参加の道をはばまれたために、女たちは否応なく、自分たちの感情世界を探求するようになり、ロマンスというものを過大評価するようになった。すなわち女は、経験の空白を、とりあえず感情の豊かさで埋め合わせようとしたのである」
 男たちは幼少時から、自分の

人生に対して責任感をもたされる。
 だが、残念なことに、私たちの世代の女はそのことを大人になってから学んだ。
 そのせいで、私の心のなかでは長いあいだ、「自立したい」という欲求と、「誰かに守られていたい」という欲求が同居していた。そしてそれがしばしば悲惨な結果をもたらした。

 私の人生の快楽や価値は自分自身で選びとってゆくのだという自立心でもって、彼女たちは別の男の元へ飛び出すのだが、憧れの男性との生活が始まれば、「詩的な時間」は日常生活化するのだから「散文的時間」となってゆく。そしてまた、「私の日常がつまらないのは一緒に暮らしている男のせいだ」が反復されるだろう。「だれかに守ってもらいたい」と、「私の日常がつまらないのは一緒に暮らしている男のせいだ」は、生活の充実が恋人の行為によって決定されるという点で、依存症者の同じセリフのネガとポジだからだ。
 メアリー・モリスは先のエッセイの中で、その「悲惨な結果」とやらを具体的には語っていないが、おそらくそれは、私を束縛するな!私は子供じゃない!という自立のメッセージと、私を守れ!私は子供だ!という依存のメッセージによってダブルバインドな状況に立たされた男女の混乱を指すだろう。

 自分と向かい合うことで、「散文的時間」の豊かさに開かれていく彼女たちを見てみたい気がする。あるいはその苦行にも似るかもしれない努力の葛藤を。
とても時間のかかることだけど。

P・S 連作短編集『星へ落ちる』の中の「虫」は傑作だと思った。

 

【森下貴史(もりした・たかし)】
(批評誌『クアトロ・ガトス』責任編集委員。1982年生

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