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この記事の所要時間: 38

(003)世界の美しさをひとつでも多くみつけたい (ポプラ新書)

小説や映画などのジャンルで、フィクションとノンフィクションの違いについて議論されることがある。その論調の多くは「両者の間にある境界線は一般的に思われている以上に曖昧である」、というものだ。私たちは様々な「現実」を解釈する時、物語などをインターフェイスとして媒介させる。その解釈された「現実」は、そのインターフェイスによって整合性を持たされているものであり、フィクションと無関係ではいられるものではない。つまり、私たちは知らないことや見えない部分をフィクションによって補い、とりあえず「そういうものだ」と思考停止して日常生活を営んでいるといえるだろう。もちろん、それは人間の認知限界に基づく最適化のための縮減機能でもあるが、そのように日常生活はフィクションとノンフィクションが入り混じっている状態で形作られている。けれども、「現場」に赴き高い解像度で当事者たちと関わっていくと、そこにはステレオタイプではない「現実」の重さや複雑さが横たわっている。

著者にとってノンフィクションの魅力は、現場に赴き当事者と会いコミュニケーションをしていく中で、その人たちを支えている「小さな神様」や「小さな物語」に出会うことであるという。ただ表面を撫でるだけでは分からない「襞」を押し広げ、その中に見出した「現実」に驚き戸惑う。心を突き動かされ、それを共有すべく文字を書き写真を撮る。

著者が出向いていく「現場」は、主として貧困や差別、大きな惨状の渦中にある人々がいる場所だ。彼らは剥き出しのまま外界に晒されており、一種の極限状態にある。だからこそ、そこに彼らを支える幸福や希望といったものが露わになるのだ。絶望的な状況の中で、何故、当事者たちは生きていくことをやめないのか。その生を支えているものは何なのか。著者はその支えているものを「小さな神様」や「小さな物語」と呼ぶ。それらは本人以外には空想や妄想のように客観性を欠いたものに見えるかもしれない。けれども当事者にとって、それは「光」そのものなのだ。その「光」の大切さを読み手に伝えること。著者はそれが自分の仕事であるとしている。

そのような仕事をしていく上で、著者が生まれ育った環境は大きな意味を帯びているように思われる。もちろん著者の繊細さによるところも大きいと思われるが、自分の育った環境と「現場」の落差があればあるほど感情の起伏が大きくなる。時には拒絶反応もあるだろう。もし、著者が当事者たちと同じ環境で生まれ育ったのなら、これほど瑞々しいルポルタージュを書くことはできないかもしれない。書けたとしても、もっと違ったものになったはずだ。

ノンフィクションは「現実」を単純化は身も蓋もない「現実」を露わにするものであり、あまり味気のないもののように思う人もいるかもしれない。しかしそうではなく、単純化ではなく複雑さの開示こそが著者にとってのノンフィクションの営みなのである。そして、それが世界を豊かにするということに繋がるという信念が、そこに息づいている。

その信念は目の前の「現実」を曇らせ捻じ曲げるものではない。その意味で、著者のノンフィクションは「弱い」とも言えるかもしれない。この「弱さ」は決してネガティブなものではなく、例えば、隈健吾氏の「負ける建築」と同様の「弱さ」である。自らの存在を消し切る参与観察は不可能だ。けれども、複雑さを単純化しないこの「弱さ」こそ著者の魅力のようにも思われる。

(了)

【中川康雄(なかがわ・やすお)】
表象・メディア論、及びコミュニティ観察。
インディーズメディア「未来回路」主宰。
Twitter:insiderivers
個人ブログ:https://insiderivers.com

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