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この記事の所要時間: 248

小林秀雄の哲学 (朝日新書)

現代日本における「批評」の源流の多くは、小林秀雄の仕事の中に見出すことができる。それは小林が「日本の近代文芸批評の確立者」として名高いことからも推測することができるだろう。だが、その思想は多くの批判をも浴びているのも確かだ。その批判の中で特に重要な批判だと思われるのは、彼の「批評」のスタイルに対してのものである。それは対象を「直観」で捉えることを重視しすぎているという批判である。そのため、論理展開が飛躍したり、分析とはかけ離れた「批評」が生まれる。つまり、小林の「批評」は「非論理」的であるという批判だ。

もちろん、この批判には一理あるだろう。なぜなら、その「批評」のスタイルは人類の歴史を進歩させると思われていた科学的態度からほど遠いようにも見えるからだ。しかし、そこには徹底して実践的な「論理」が存在している。広く人々の心を動かすことによって、科学思想によって零れ落ちていく人格の尊厳を掬い上げるという小林が一貫して追求した「哲学」がそこにはあるのだ。ここに彼にとってのアカデミズムではない「批評」というものに対する矜恃がある。ただ注意が必要だと思われるのは、対象に手ぶらでぶつかっていく小林の「批評」のスタイルは、彼の多様で強度の高い経験や知識を血肉化した上で成立しているという点だ。そういった素養がなく手ぶらでぶつかっても、そこからは凡庸な感想しか出てこないだろう。寧ろ、気付かぬうちにステレオタイプな型にはまるのがオチである。

さて、小林の「批評」のスタイルは今この時代においても有効であろうか。もはやコンピュータの情報処理能力が人間の脳を凌ぎ始めるのを目前に控え、今までは到底裁き切れなかったような大量のデータを収集・分析・活用できるようになってきている。人間において「知性」や一般的な意味での「論理」という能力を最も優れたものだとするならば、もはや人間は機械に劣る存在となるわけだ。それでは人間が存在しなくても良いのだろうか。一部の人々はその問いにYesと答えるかもしれないが、おそらく大多数の人々はNOと答えるのではないだろうか。そうであるならば、多くの人々にとって人間の存在の根源的なものは、「知性」だけではないということになる。

小林秀雄の「批評」における態度は、古びて使い物にならないどころか、その真価は今まさに再評価されるべきなのかもしれない。例えば、広く人々の心を動かすという点では、現代では、インターネットという媒体は無視することはできないであろうし、統計学的合理性、つまり科学的合理性が強まっているという意味では小林の生きた時代を遥かに凌いでいるだろうからだ。

本書は、各章の冒頭で小林の文章を引用する形になっている。直にある程度まとまった文章に触れることで、改めて文才というものがどういうものか確認することができるだろう。また、新書という限られたスペースの中で、「小林秀雄の哲学」を丹念な文献研究で浮かび上がらせることに成功している。「批評」に関心を持つ人にとって、一読の価値はあるだろう。

(了)

【中川康雄(なかがわ・やすお)】
表象・メディア論、及びコミュニティ観察。
インディーズメディア「未来回路」主宰。
Twitter:insiderivers
個人ブログ:https://insiderivers.com

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