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Alabama Theatre / Alabama Theater / Birmingham

2013年10月31日に紀伊国屋新宿本店にて、『演劇最強論』(徳永京子、藤原ちから 著)の出版記念イベントが行われた。登壇者は著者のお二人と、ゲストの佐々木敦さん。会場は藤原ちからさんが役者として参加した東京デスロックの作品「シンポジウム」を模した形式となっており、観客と出演者がフラットな状況でトークセッションは行われた。

今回のトークセッションでは多くの論点が提示されていたが、このレポでは「批評」という観点から感想などを述べていきたい。

まず、藤原ちからさんは演劇の危機感について語りはじめた。そこでは産まれた作品が消費されるだけで疲労するアーティストについてが触れられる。

この話はあまり広がらなかったのだけれども、これは私にとっては関心のあるトピックだった。具体的に何について絶望するのかというと、そのひとつの要素は「生活」にあるのではないだろうか。つまり、消費され疲労していくだけで何も変わらない「生活」。けれども人は、日々、年老いていく。そのような状態に「批評」的な観点を導入するとどのようになるだろうか。1つ目は、行政の文化政策の規模の拡大、助成金などによるパイの増加や確保などの方向性。2つ目は、市場において需要と供給を作り出す方向性。そして3つ目は、ダンディズムというか美学的なあり方を貫く方向性。これらの方向性やその組み合わせなどについて「批評」が介入することができれば、ここで提示された絶望のようなものを考える時の基盤になるのではないかと思った。それはまた、演劇業界のことだけでない広がりを持つが、その問題が現れやすいのは演劇業界といえるのかもしれない。

佐々木敦さんがTwitterなどで演劇の批評をする時に心掛けているのは、その作品がもっと評価されていい時だという。具体的に言えば、あまり観客席が埋まってないにも関わらず面白いとか、そういった場合である。つまり、ここでなされる「批評」は効果や機能が重視されたものであるのだ。

今回のトークイベントの中で話されたこの2人の「批評」の共通点をちょっと乱暴に要約すると、様々な「報われなさ」に対する公正なジャッジメントへの志向性といえるかもしれない。つまり、ある種のポテンシャルに対する態度、既に現前している確定的な価値ではなく、その奥に眠っている「種」や小さな「芽」をどのようにピックアップし育てていくのかということだ。

徳永京子さんは劇評を書く時に、普段観ない人たちにも届くということを意識しておられるとおっしゃっていた。あと、これはイベント終了後に聞いた話だが、日本の役者のネオテニー的なあり方についても話されていて、とても印象深かった。例えば、欧州の役者たちの「成熟」というものは、もちろんその歴史の厚みや訓練のレベルの高さに下支えされているということは確かだが、もっと大きな歴史的背景が強くそこに関わっている。自らの国の歴史をどのように向き合い受け止め消化するのかということが、その役者の身体に現れているというのだ。つまり、日本のネオテニー的な身体というものは、歴史をどのように受容するのかという態度の現れでもあるということであり、ネオテニー的な身体を価値判断する上で歴史というものが抜きがたく突き刺さっているということなのである。そのことを差し置いて「成熟」はなく、それがまた、決定的なものなのではないかという。

今回のトークイベントという非常に限られた時間の中で語られたことを「批評」という観点から私なりに構築し直すと、その「批評」の先に見えてくるビジョンが三人三様で非常に興味深かった。

(了)

※書籍自体のレビューはこちら
「ゆとり世代最強の表現ジャンルとしての演劇」

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photo by: Bahman Farzad