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この記事の所要時間: 66

私たちはどこから来て、どこへ行くのか

私たちはどこから来たのか

「私たちはどこへ行けるのか/行くべきなのか」。この問いに答えることが本書執筆の目的である、と著者は言う。そして、そのために「私たちはどこから来たのか」を主題とし、過去と現在、そして未来を一つのコンテクストにして繋いでいく。

日本の近代化はその過程において、それまでの地域共同体を解体していくベクトルを含んでいた。明治時代の始まりから第二次世界大戦に至るまで、その共同体の空白は天皇制ファシズムが機能する場所となる。そこに「想像の共同体」が生成されたのだ。そして戦後、日本における共同体の場所は、年功序列と終身雇用を基本とした会社社会とその経済力に支えられた家族にあった、というのが一般的な見解だろう。

しかし、グローバル化の流れに伴い、格差や貧困の度合いが増し始め、中間層が分解し二極化していく。戦後における共同体の受け皿であった会社社会も、それまでの社会保障の一端を担っていた年功序列や終身雇用などを維持することが困難になり、共同体の空洞化が進んでいくことになる。その結果、個々人は不安と鬱屈に苛まれ始め、カタルシスや承認を求めて右往左往しはじめることになるのだ。ヘイトスピーカーやクレージークレーマーたちはそのような共同体の空洞化とその結果を表象するものである、というのが本書における現状分析の一例である。

この現状分析を箇条書きにすると以下のようになるだろう。

1、資本移動自由化がもたらした「小さな社会」ゆえの人々の「大きな政府」への希求。
2、資本移動自由化は「小さな政府」を志向するので、その希求には応えらない。
3、それゆえに不安と鬱屈が発生・増殖。
4、溜飲を下げるための不確実なメッセージに、大規模な動員がなされるようになる。

私たちはどこへ行くのか

このような状態が好戦的なポピュリズム外交の温床となるという。その危険性を回避するためには、時間が掛かっても「小さな政府」&「大きな社会」を目指す他はない、というのが著者の見解だ。そして、それを実現するための政策パッケージは、[外交は主権リベラル、内政は共助、意思決定は熟議、経済社会運営は社会重視(多様性)]。それに対立するのが、[外交は主権強硬、内政は非共助、意思決定はトップダウン、経済社会運営は経済重視派(効率性)]。現在の日本政府がどちらに向おうとしているのかは明確であろう。

本書では様々な指針が示されているが、その中で私が特に注目したのは以下の2点である。

1、民主主義単独では民主主義の前提を調達・維持できないということ。
→二階の卓越主義∩パターナリズム∩全体主義的方向の肯定。
2、「大きな社会」を育てるための手法としての〈参加〉と〈包摂〉を涵養すること。
→住民投票とワークショップをその具体的な方法論とする。

それぞれ、主に行政や環境構築のサイドにおける態度と一般市民における態度が対応していると考えられる。専門的知と共同体に基づく市民的知の双方を育て、「小さな政府」&「大きな社会」を実現するために必要な方法論と言えるだろう。

疑問点について

本書の指し示す方向は、現時点でのいわゆるリベラルにおける教科書的な解答だと言える。しかしだからこそ、同時に疑問も浮かんでくる。それは例えば、いわゆるネトウヨ的な存在に対する見解などに関してだ。それらを単なる共同体の空洞化に起因する噴き上がりにすぎないとするだけでは充分ではないのではないか、と思うのだ。確かにそれらを正面きって批判することは、倫理的に正しいことだろう。それが共同体の空洞化による「感情の劣化」に一因することも確かだ。しかし、意図的であるのだろうが、その起源の根の深さを低く見積もり過ぎているような印象を受けた。その補完として対置されている別の著作があり、届ける層を限定している結果でもあるのだろうけれど、そのような使い分けは言説の機能を空回りさせてしまうかもしれない。何故ならば、多くの人々は「それなりの人には最新の政治思想をそうでない人には性愛を」と使い分ける器用さとその道具的な扱いを、敏感に感じ取るのではないかと思われるからだ。学習の上で踏むステップの順序としては正しいとしても、そう感じ取られると急激に言説の求心力は喪われてしまう。そうなってしまえば、処方箋として機能しにくくなるのではないだろうか。

評価するわけではないが、私は現在のネトウヨ的な表象には、第二次世界大戦における敗戦の前と後における(もしかしたらもっと遡るべきかもしれない)急激なパラダイムシフトにおける綻びに、その起源を読み取ることも必要なのではないかと考えているところがある。だからこそ、正面から否定するだけでは、その反発の対象の一つである戦後民主主義的なものを対置する形になってしまい、余計な反発を免れることができないのではないかと考えるのだ。確かに正しく断絶することは必要なのかもしれないが、正面からの批判は敗北するば、むしろ批判対象を強化してしまう可能性すらある。だからこそ、戦前への先祖返りをそのままの形ではなく、ズラしていくという戦略も同時に重要なのではないかと思うのだ。

現在、日本における独自のコンテクストの中で、本書の目指す方向性を育てるための土壌がどこにあるのかを見定めなくてはならないのかもしれない。日本自体が均質な空間ではないからだ。本書では社会に不安や鬱屈が蔓延する要因の一つとして格差や貧困の増加が挙げられているが、おそらく、本書で提示されている処方箋の実践の担い手は、その格差社会における比較的裕福な層がその中心となるのではないだろうか。幅広くその二極化する社会を包摂するためには、住民投票やワークショップというだけではおそらく充分ではない。なぜならば、そのような場において包摂する必要があると思われるネトウヨ的な心性を持つ人々は排除されるであろうからだ。もともと、そのような排除の状態があった上で、共同体の空白を埋めるものとしてのネトウヨ的なものの肥大化もあったという側面はないだろうか。

本書で示されている方向性は、グローバルな歴史に見合うだけの正統性と抽象性を備えている。だからこそ、日本に特有のコンテクストをその下位に配置しがちのように感じられた。もちろん、私も本書で示された方向性に日本も向かうべきだと考えている。しかし、下位に対置したコンテクストの軽視こそが抑圧として機能し、その反動として現在の日本の状況を作り上げてきたということもあるのではないか、とも思うのだ。そうであるのなら、日本の変数のようなものを想定した方が良いのではないかと思われる。つまり、実践の形態も別のアプローチが必要となってくるのではないだろうか。

私たちはどこから来て、どこへ行くのか
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(了)

【中川康雄(なかがわ・やすお)】
表象・メディア論、及びコミュニティ観察。インディーズメディア「未来回路」。
Twitter:insiderivers
個人ブログ:https://insiderivers.com

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