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この記事の所要時間: 251

遊びつかれた朝に──10年代インディ・ミュージックをめぐる対話 ([テキスト])

音楽もそうだし文学もそうだが、その楽しみ方は多様であっていい。その楽しみ方のスタイルとしてすぐに頭に浮かぶのは2つの方向性がある。

1つは、そのジャンルの中でどのように位置付けられる作品なのかということ。「この仕事はそのうち誰かしらがやらなくてはいけないものだな」とか、そこに成立している公共圏みたいなところの内部での価値判断によるものだ。「おお、こう来たかー」とか「やっぱりそうなるよねー」とか、物語や知識を共有した上での楽しみ方だ。

もう1つは、その作品からその作品が成立するバックグラウンドというか生活とか社会とか時代とかに触れるという楽しみ方だ。ここにはまだ、物語とか知識とかに体系的になってないところが楽しみ方のコアみたいになっている。

僕が好きなのはどちらかというと、2つめの方だ。

1つめの方は、言ってみれば、ひとつのシミュラークルのようにすで存在している。つまり、自分という存在をある程度、括弧に括って上でその公共圏に参加していて、コミュニティにおけるネタとして機能していたりする。もちろん、コミュニティ全体として、社会的な機能を担っていることも多いから、その意味で重要なものでもある。

2つめの方は、作者が意識しているのかしていないのかは別にして、ダイレクトに作家の置かれている環境が露呈する。それは、まだ言語化されていない変化とかを映しとっていることがある。それを見つけることの楽しみというものもあるだろう。もちろん、そこには「読み手」のアンテナの立ち方に結構依存しているところがあるけれども。

こちらは少なくとも初期の時点では、社会的な機能をまだ持たない。コミュニティのネタとしての機能もなかったりする。そこで評価されて一つめのジャンルの公共圏の中に位置付けられると、その中に参入することにはなるのだけれども。

僕が持つインディーズのイメージは、この2つめの楽しみ方に近い。最近では、インディーズといえば、マス狙いでは採算は取れないが元手を押さえるならば採算の取れるロングテールのニッチ狙いというあり方もあると思うが、これもやっぱりジャンルの公共圏にうちにあるように感じられてしまう。

つまり、僕はそのまだ名付けられていないような、作者の取り巻く環境が露呈しているような、そんな作品というものが好きなのだ。なぜならば、そこには複雑なものが複雑なままに、むき身のままに露呈しているからなのである。そこには、矛盾も散見されるし、何かのロジックとかパラダイムが明確にあるわけではない。けれども、その中に何かユートピア的なものを感じ取るのである。それは夢幻かもしれないが、そのような瞬間が訪れることを待つ快楽というものが、そこには存在しているのだ。

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(了)

【中川康雄(なかがわ・やすお)】
表象・メディア論、及びコミュニティ観察。インディーズメディア「未来回路」。
Twitter:insiderivers
個人ブログ:https://insiderivers.com

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