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この記事の所要時間: 511

一〇年代文化論 (星海社新書 46)

本書では、「残念」という言葉の持つニュアンスが、近年、変化してきていることに注目している。著者はその「残念」という言葉をコアにして、現在の日本がどういう状況なのかを理解しようと試みているのだ。そして、2010年代の「若者文化」をその「残念」という思想に基づいた文化だと定義している。

ここでいう「残念」という言葉は、ただネガティブなイメージだけを孕むものではない。そうではなく、ポジティブなイメージも孕む「清濁併せのむ」言葉なのだ。

本書では、その「残念」という言葉の使用方法の変化を説明する時に、既存の文化史のパラダイム、「歴史/物語」を援用することを避けている。その理由は、もともと「歴史/物語」がフィクションであることや、既存の文化史における概念を使用すると読み手の層を限定的なものにしてしまうこと。そして、既知のものから未知のものを説明付けてしまうと、この「残念」という言葉が現在持っているニュアンスを上手く描き出すことが難しくなるからだ。

旧来の「歴史/物語」に絡め取られないこと。本書ではそれを丁寧に避けるために、幾つかのルールが設定されている。けれども、このレビューではそのルールを逸脱することを前もって断っておこう。もし興味を持たれたら、是非、実際に本書を手に取ってみて欲しい。

さて、そろそろ読後感について幾つか書いていこう。私にはこの「残念」という言葉によって、すぐに思い出された観点が3つあった。

1つは、70年代のピッピー文化、や80年代のニューウェーブ、90年代のクラブカルチャー、という連続性の後に「残念」文化を持ってくることの既視感だ。端的にいうと、90年代の後半に活躍した「だめ連」の存在である。彼らの「だめ」という言葉の使用方法も、ここでの「残念」という言葉の使用方法に近いものがある。

「だめ連」とは「だめ」をこじらせないための集まりだが、それは「残念」であることを肯定的に捉えるための集まりでもあったのではないだろうか。また、この「だめ」という元々はネガティブだったものをポジティブに捉え直す身振りは、ゼロ年代中期から後期にかけての「素人の乱」の「素人」という言葉にも受け継がれていると言えるかもしれない。その系譜の中に本書で述べられている「残念」の思想を位置付けることも可能なのではないだろうか。

2つめは、浄土真宗の開祖・親鸞の「悪人正機説」である。

「悪人正機説」とは単純化すると、「自分が悪人だと思っている人こそが救われるのだ」という思想だ。人は気付くとも気付かざるとも罪を犯している存在であり、それを知らない「善人」すら救われるのだから、それを自覚している「悪人」はなおさら救われるのだ、という思想なのである。

ちょっとキリスト教の原罪意識にも共通するこの思想も、誤解を受けやすいものなのではないだろうか。誤解されやすい理由は、この「悪人」という言葉の持つニュアンスにある。ここには否定の言葉だけが付与されているわけではない。その意味で、本書の中で示されている「残念」という言葉の持つニュアンスと近いものがあると言えるのではないだろうか。

この「悪人正機」の思想に重ね合わせて、この「残念」の思想を表現してみよう。そうすると、「リア充なおもて往生をとぐ、いわんや残念な人をや。」となるだろう。つまり、人は皆「残念」なところを抱えている生き物であるにも関わらず、そのことを意識しないリア充ですら幸せになるのだから、その「残念」さを意識している人はなおさらだ、という風になるかもしれない。

3つ目は、美術評論家の椹木野衣氏の「悪い場所」論との接続可能性である。

著者は、私たちの社会に「残念」な部分があることを直視して、うまく社会を運営していくべきなのではないか、と述べる。様々な社会問題に対しても「残念」の思想によって理解し解決の糸口を見つけられるのではないかと。

確かにその精神構造を分析することは、有効なアプローチを見つけるためにも重要なことだと思われる。けれども、この「残念」という思想は、価値判断をキャラ化することで相対化するような力を持つ地場なのではないだろうか。

その「残念」という言葉に含まれるニュアンスは、「空気」を読むこととも関係しているかもしれない。それは「空気」に馴染むための、自分を守るための緩やかな防御線のようにも機能しているのではないだろうか。つまり、現在の「残念」の持つニュアンスを理解する感性というものが、「空気」を読む上でのコードのようなものになっているのではないか、ということである。

そうであるとするならば、「残念」という思想に自らのコアを専制されてしまうと、「空気」に導かれ、そこから逸脱することは難しくなってしまうかもしれない。だから、この思想を内部からも外部からも眺める視線が必要になってくるのではないだろうかという風に思えた。ここにこのレビューが本書の設定したルールを逸脱する理由がある。

「残念」の思想は、インターネットという情報環境をひとつの胎盤にして育ってきたものだ。そして、良い意味でも悪い意味でも、その思想はとても「日本」的なのである。インターネットという新しい場において、「土着」の思想が成熟しだしているとも言えるだろう。ここでいう「土着」とはネガティブな意味ではない。文字通り「地に足の着いた」ということを意味している。その意味でも「残念」の思想は、現在の「前衛」であると言えるのかもしれない。それがこれから何処に向かい、どのように機能していくのだろうか。10年代が終わる頃に、また読み返してみたい。

一〇年代文化論 (星海社新書 46)
さやわか
講談社
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(了)

【中川康雄(なかがわ・やすお)】
表象・メディア論、及びコミュニティ観察。インディーズメディア「未来回路」。
Twitter:insiderivers
個人ブログ:https://insiderivers.com

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