「日常」と「非日常」との間に境界線を引くとしたら、判断基準のひとつとして環境への適応度合いを挙げることができるだろう。けれども、その基準で線を描こうとした時、その精度にこだわればこだわる程、まるで深い森に迷い込んだようにどうしようもない困難の中に放り込まれる。たぶんそれは、長期に渡る国内外での旅という個人の経験も影響していると思うのだけれど、私の日々の暮らしは「日常」と「非日常」を区分けし意味付けするように構成されていないのだ。それはある種の喪失感を伴っている。
「旅」という言葉から考えてみると、結構な割合の人が「旅は非日常」と意識することが多いのだろう。けれども当然のことだが、「旅」を長々と続けていた人にとってそれは単なる日常でしかない。例えば、日頃、あまり休みも取れずストレスを溜め込みやすいタイプの生活を送る人にとっては、「旅」は祝祭であり蕩尽でもあるのだろうから「非日常」であることに価値がある、というのは分かる。その区分けによって、「日常」と「非日常」が一つの循環システムとして機能するからだ。けれども、そのような循環システムを持たない人にとっては、「非日常」とは単なる環境への適応の度合い以上のことではない。そこにはただ、時間や場所の変化や感情のグラデーション、強度があるだけで、その平面に位置する「日常」と「非日常」は分かち難く混在し合い、次第に見分けがつかなくなってしまっている。
川上弘美のこの著作は、1993年に書かれた「神様」という短編小説を2011年に再び書いて、その双方をひとつの書籍にまとめるという形で構成されている。この2つの異なる日常を、会話の成立する他者である「くま」と共に散歩する、という同じ物語に重ねる。そうすることで、その変わらなさと変わってしまったものの双方が浮き出される。
今夜、私たちは眠りについて、今日と同じ朝を迎えることができるという絶対の保証はどこにもないのだけれども、当たり前のように明日のことに思いを馳せる。少なくともその大枠は変化することはないことを前提にして。微細な物語や差異に思いを馳せる。ただ今、私たちは、それを簡単に信じることが出来にくい状況の中にあるのではないだろうか。大きな物語が終わり、小さな物語の共存する世界にあると思われていたにも関わらず、可視化されないところで大きな物語は機能していて、それが壊れた。抑圧された無意識が表象する出来事、その以前と以後の散歩。
いつも日常は偶発性の海の中に揺れている。それも絶妙なバランスで。どのような状況においてもどんなに完璧を目指しても、そこから偶発性を排除することは決してできないのだ。それは、時として絶望に、時として希望にもなる。けれど、もしある程度まで、その「日常」を支えているかけがえのなさを擁護しようとするのならば、そのフラジャイルさと人が生きることの一回性を考慮した上での振る舞いが意識されなければならないのではないか。そのフラジャイルさから導き出される私の感情は、そのようなものだった。
【中川康雄(なかがわ・やすお)】
文化批評。表象・メディア論、及びコミュニティ研究。
未来回路製作所主宰。
個人ブログ:https://insiderivers.com
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