本作品の主たる舞台となっているのは、九州南方の海上にある奄美大島だ。河瀬監督の先祖のルーツがこの島にあるという。これまで自らの出身地である奈良を舞台にして映画を撮り続けていたのが、本作品では直接的な生活の記憶を持たない、比較的遠いつながりの土地を舞台として選んでいる。
生活の記憶がない、というのは、その土地で暮らしたことがない、ということだ。けれども、この時間の「不在」が記憶というものの範疇を拡張しているように感じられる。なぜなら、記憶というものは、1人の人間が過ごすことのできる短い時間だけで形成されるものではないからだ。
例えば、DNAだって記憶の装置だし、人から人へ伝えられている有形無形の文化だって記憶といえるものだろう。だから、今まで暮らしたことがなかった場所であっても、そこに足を踏み入れた時、身体の内側から溢れでるような懐かしさに襲われることがあるのは、何も不思議なことではない。生命が脈々とつながっているということ。その連鎖が、先祖のルーツという離れた場所を舞台にすることで、より際立っているように思われた。
作品の中で、奄美の生活とのコントラストを感じさせる土地へとカメラが移動するところがある。それは、主人公の男の子が東京に住んでいる父親に会いに行くシーンだ。そこで父親は、「東京にはここしかない優しさがある」という言葉を男の子に発する。「夢をみさせてくれる」という優しさがここにはあるのだと。その言葉は、奄美では自然の厳しさと共に暮らすことが即ち生きることだが、東京では暮らしていくことを夢の中で生きていくことにすることができる、という意味として理解することが可能かもしれない。
本作品には、動物の屠殺や未成年の性交など、多くの人たちにとって嫌悪感を抱かせるかもしれないシーンも存在している。けれども、奄美での生活を映像と音声、つまり映画にトレースしていく上で、そのシーンは欠かすことのできないものなのだ。自然の厳しさや連鎖、その一部として人間も生きているということを受け止めること。それは言葉の上で理解することは容易だが、実際にその身に受け入れることはそれほど容易なことではない。東洋人である私たちですらそうなのだ。
いつの間にか、私たちはこの世界を成り立たせている様々な事どもへの想像力をなくしていく。自分自身の生活を成り立たせているものの起源や過程の知らなさは、複雑化していく産業の中でさらに増していく。生産の痕跡は消去すらされていくのだから、それは当然のことといえるだろう。その忘却を見つめ形を与えていくことは、芸術家の大切な仕事のひとつだ。
もちろん、その忘却の中で夢を育むことが可能になる、ということもあるのだけれども。そういった両義性が描かれていることも、本作品の魅力のひとつなのではないだろうか。
(了)
【中川康雄(なかがわ・やすお)】
表象・メディア論、及びコミュニティ観察。インディーズメディア「未来回路」。
Twitter:insiderivers
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