「パラソフィア」。昨日は2つまわってみて、今日一通りみてきたのだが、京都芸術センターで公開していた映像作品が妙に心に残った。それは台湾人の男性に嫁いだ日本人女性の3つのモノローグを組み合わせた映像作品。川村麻純さんの作品だ。国家とか戦争とか植民地とか、国籍とか国境とか家族とか、その延長戦上にある民族というもの「血」というものの根深さだとか。
去年の「横浜トリエンナーレ」でみた移民がテーマになっていた作品の多くは、主にアジアの国々から日本に移り住んだ人々にフォーカスしていたが、ここ京都でみたこの作品は、日本人が台湾に移民し、そして、台湾の国籍になることを選んだ人たちの話だ。
他のアジア地域より比較的近代化が先に進んだこの日本は、多くのアジアの人たちからすれば出稼ぎに向かう場所であり、何らかの理由から祖国から逃走する場所であり、その反対に、日本からアジア地域にその生活の場を移すことは、どちらかというとマイナーなイメージが専制しているのではないだろうか。もちろん、戦争直後に日本が貧困状態にある時に多くの移民が生まれたということはあるし、高度経済成長期やその後でも、例えば、駐在員だとかで生活の場をアジアに構えている日本人もいる。また、バックパッカーのような旅行者がその土地に「沈没」することもあっただろう。
しかしそれらは結局、日本人という法的に有効な国籍があってのことで、その国籍を他のアジア圏の国籍へと変更することは、まれなことだったのではないだろうか。しかしこの作品で、そのレアかもしれないケースの道筋を具体的に踏み込んだ人たちの話を聞いているうちに、自分の中の国家や国籍、家族や民族についての身体的な経験が呼び覚まされていくことがわかる。
それらの呼び覚まされた感覚は、普段当たり前のように日本国籍である私たちが無意識に前提としている基盤を露わにしていく。さらに、それらの基盤をロジックによって切開していくのではなくて、情動を伴って開示していくのだ。その情動に対する自分の心の反応、それがこの作品の本体ともいえるものだとするならば、この作品はおそろしい装置なのではないだろうか。3つの映像だけがあるそのホワイトキューブは、まるで何かを呼び覚ますためのイニシエーションの場のように感じられた。
その場では、3人の語りによって生み出される厚みのある物語(フィクションなのかどうかは分からない)の線が交差し、その交差する点に自らの身体が配置されるのだ。その状態は人によっては「拷問」のようにも感じさせるものでもあるかもしれない。所属する国家やその国籍というものと、人間という生物であることの間に生まれた溝のようなものに落ちたような感覚が身体に残っていた。
(了)
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