「ヨーロッパの普遍的なものの衰退と限界について」、『21世紀の自由論』(佐々木俊尚 著)

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21世紀の自由論―「優しいリアリズム」の時代へ (NHK出版新書 459)

本書で前提になっている認識のひとつは、私たちが現在、世界システムの長きに渡る移行期の中で暮らしているということだ。もちろん、そのことに異論を挟む人は少ないだろう。各国家間の経済や軍事のパワーバランスの変化にその潮流をみてとることができるし、また、本書の中に述べられているように、ヨーロッパにおける「普遍的なもの」の衰退と限界というところにも読み取ることができるかもしれない。

しかし、私はここでいわれている「普遍的なもの」の衰退と限界というものを、新たな世界システムへの移行期におけるその精神性(使い古された言い方をすると「上部構造」)の変化と単純に重ね合わせることに対しては、少なくない違和感を覚えた。その理由は、その理念を先進国の国内事情に合わせる必要はないように思われたからだ。

まず、ヨーロッパにおける「普遍なもの」、つまり、個人の「自由」や「平等」といった理念が通じるエリアはもともと極めて限定的だったわけで、その意味でこの議論は、とてもヨーロッパ中心主義的なもののように思えた。それらの理念が、これまで世界中を席巻していたかというとそんなことはない。それが衰退し限界に達したように見えるのは、いわゆる第三世界の人びとがヨーロッパ諸国の内部システムにモザイク状に組み込まれはじめたからだ。

もともと「外部」だったものを「内部」に入り込むことで起きた拒絶反応は、それをして限界というのには少し説得力がかけるように思われた。たしかに、そこに経済的な理由が重なって、それらの理念が限界を迎えたかのようにもみえるし、それが排外主義などの反応につながっているということも事実だろう。けれどもそれらは、最初から認めてなどいなかった「外部」の人びとを「内部」において認めていく過程において起きている現象であるという側面がないだろうか。

そしてもうひとつ気になったのは、ここでの議論は市民社会における階層性があまり意識されてない点だ。つまり、最初からフラットであることが前提となって議論がスタートしている。そして、この「普遍的なもの」の衰退と限界とみられる現象は、主に経済的弱者や承認欲求が満たされない人のところで可視化されているのようにみえるだ。つまり、ここでの議論では、富の分布が二極化しそれがアノミーを引き起こしているという点が省かれてしまっているように感じられる。世界がフラットに見えるのはその一部においてだ。レイヤー化は移動が容易なものだけではなく、経済や軍事、教育などによって、強固で移動が困難なものも多く含まれている。

理念と現実のコンフリクトの中で矛盾を抱えながらも悩みながら進んでいくこと。それによって生まれる変化の差異というものもあるのではないか。本書の最初に掲げられている「生存は保証されていないが、自由」か「自由ではないが、生存が保証されている」というどちらの選択肢にも私は乗ることができなかった。なぜなら、そのふたつが矛盾したり両立しないのは、今にはじまったことではないから。

もちろん著者は、その地点を通過して本書の結論に至っているだろう。しかし私が受けた印象は、あまりにそこに闘った痕跡が省かれてしまっているということだ。それはフラット化に通じるところでもあるが、私が問いとして捨ててはならないと考えているのは、「あなたはどんな世界に生きたいですか?」という極めてシンプルな問いなのだ。著者はすでに先に進まれているが、その点はまだ議論が尽くされていないのではないだろうか。

もちろん、世界システムはどんどん組変わっていく。けれども、もしヨーロッパの「普遍的なもの」が衰退していくとするならば、特定の歴史や社会だけに適応可能なものではなく、もちろんそれをただ破棄するわけでもなく、もう一段階ほど抽象度を上げた「普遍的なもの」の構築を目指すべきではないか。もちろん、それもまたいつかは衰退していくものではあるけれど。

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