推すことの喜びと痛み、その切実さについて」、『推し、燃ゆ』(宇佐見りん 著)

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人生に決められた意味などないことは、多くの人たちが生きていくなかで悟っていく。むしろ意味を与えていく過程が人生ともいえるわけだが、それでも、人が意味を求める生き物であることには変わりはない。意識しなくとも人は意味のなかで生きているし、たとえ言語化しなくとも、生きていく上で根幹ともいうべき重要な支えは誰にとってもある。自分という構造はその根幹によって支えられていて、無自覚であるのは運よく(?)それが許される環境で暮らしているというだけだ。

生きていく上で支えとなっている意味は、他人からはどうでもいいもののようにみえることがある。そのため滑稽に見えたりもするのだが、それでもどうしようもないくらい自分の人生のすべてになってしまう決定的な出会いというものは確かにある。身近な人であることもあるし、ふと偶然に出会った人であるかもしれないし、テレビやネットなどのメディアの中であるかもしれない。本人にはコントロールすることができず、だからこそ運命という意味を帯びていく。

人生に絶対的な意味などないといっても、私たちが生きる世界では、様々な思惑や利害、損得の感情や欲求が支配している。やりたくない仕事をしなくてすんで、お金に困ることもなく、愛し愛されるような関係を作ること、家族を作ること、親から受けた命を次の世代につなぐこと。これらが「幸せ」のモデルケースとして、世界の方向をある程度決定していることは確かだろう。

そんな「幸せ」のモデルケースから離れたところにある思いや情念をかたちにすること。それが文学の持っている機能のひとつなのだとすれば、この小説は紛れもなく文学であるといえる。既存の「幸せモデル」をなぞれる人が比率的に少なくなってきているようにみえるこの日本という国において、書かれるべくして書かれた小説だと思えた。ここに描かれている生きる意味とその喪失は、コミカルにも思えるタイトルからは想像しにくほど切実だ。

通り過ぎていくようなありふれた今日の物語ではあるが、文学史すべてを貫くような普遍性をたしかに備えている。

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Yasuo Nakagawa
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