川上弘美の書く文章は簡潔でリズム感がある。村上春樹の書くそれよりも更に簡潔で、だから読み手は行間を埋めるように想像力や感受性が試される。そのスタイルが発揮された作品のひとつが『神様』であり、それを311以後の世界に放り込むことでまた、その突きつけられた厳しさが差分として浮かび上がった。
「くま」として描かれた何かは、世界を包括する一意だから、日常では曖昧な輪郭でつまり「くま」的な何かである。川上本人があとがきで示すようにそれは「熊の神様」であり、いわば日常を支えつつもそれ自体は日常を超越した何かだ。
にもかかわらず、311以後の世界ではその「くま」さえもが、放射線を浴び数値で測られる。放射線のもつ畏怖の射程は八百万の神をも突く。
その著書『日本の政治』で京極純一は、世界はコスモスであると指摘し、意味の繋がりあった空間が醸し出す秩序に注目すべきであると論じた。世界の解釈を故事やことわざで例証する京極への批判は多かったが、八百万の神を崇め持つ大和という農耕集団では、そのリアリティが長らく有効だったろう。農地という不動の泉を抱えながら、その争奪が日常的に避けえないフィールドでは、非論理的に見える八百万の折衷もまた現実だったはずだ。ときに荒れ狂うひとつの神もまた、地震であれ津波であれ、八百万の中では予定調和のひとつに過ぎず、数多の意味世界を包摂するコスモスの中では安定的だった。それこそが世界だった。
けれどもウラン235を濃縮するテクノロジーはそんな世界も変えてしまう。
放射線量を積算で管理する「くま」。笑えるし笑えない。
世界が崩壊していなければ、数多の神々の中でそんな「くま」がひとつ居てもよかったろう。そんな「神」も居る、と笑える。しかし「くま」だけではないのだ。すべての神もまた管理対象になる(と川上は示唆する)。
村上春樹の描いた寓話『あしか祭り』には、無表情な世間の悪意がその背後に埋められていたが、この『神様』では背後に人々は居ない。ただ透明なテクノロジーだけが背後にぺたり、貼り付けられている。
数夜にして変わってしまった311以後の世界。見た目は以前の世界と同じ。地震と津波で大きく姿を変えられた東日本の町々は、その直後の放射線放出によって、姿を変えられてない。
首から上のないたくさんの人々が街中を歩きだせば、皆驚くかもしれない。そういう絵図なら説得力がある。非現実的な想定に思えるが、被災した子どもたちはそういう悪夢に魘されることがあると聞く。
【時沢潤一(ときさわ・じゅんいち)】(@thequedotinfo)
音響カプラの頃からネットの住人。サンデーネット(x68ユーザの巣窟)とかNiftyの頃が最も楽しかった(という世代)。本そのものよりも本をネタにあれこれ話すのが好き。小説から思想書、ビジネス書も取扱説明書も読む。やや活字中毒。「なぜこの人はこのように考え、あの人はあのように考えるのか」というのが基本目線(興味)。グランドセオリーにはあまり興味なく個々人の抱える「事情」が好き。もっとも好きな小説はたぶんNicholson Bakerの”The Mezzanine”。
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