この記事の所要時間: 223

日本辺境論 (新潮新書)

 私たちの国は基本的に理念に基づいて作られたものではない。アメリカのようにはっきりとした常に立ち返るべき理念のようなものを日本文化は有していないのだ。

 本書では、日本の文化を形作るものとして「辺境性」を挙げている。そして、日本人を「辺境人」、としている。

 「辺境人」は、ここではないどこかに世界の中心たる「絶対的価値体」があると考え、それにどうすれば近づけるのか、どうすれば遠のくのか、専らその距離の意識に基づいて志向と行動を決定する。これは、日本人の振る舞いの一つの特徴であるキョロキョロして新しいものを外なる世界に求める態度と繋がっている、という。

 日本人にとって世間の空気を読むことは仕事や日常生活を営む上でも重要な技術だ。場の親密性を自分自身のアイデンティティの一貫性よりも優先させる傾向を有しており、この傾向はなかなか変化するものではない。最近、それを特に感じさせるのはインターネットという新しい「場」においてである。

 例えば、twitterやfacebookなどのソーシャルメディアの登場した当初は、日本的な空気の読み合いや出る杭が打たれるような風潮からのブレイクスルーが期待されていたところがあると思うのだが、時が経つにつれ、その新しい「場」においても日本的な「空気」が満ち始めてきたように感じられる。つまり、その新しい「場」においても、日本人の文化的特徴が反映し始めているように思われるのだ。

 その土地の文化の特徴が顕著に現れるものとして宗教が挙げられると思うが、日本においてはそこにも辺境性が見られる。そして、その辺境的宗教性は固有の難点も有している。それは、おのれの霊的な未熟を中心からの空間的隔絶として説明できてしまうせいで、未熟さのうちに安住してしまう、ということだ。しかし、霊的に劣位にあり遅れているものには、「信」の主体性を打ち立てるための特権的な回路が開かれているとし、その例として親鸞が挙げられている。そのようなあり方をもはや私たちは受け止め、さらに押し進めていく方が良いのではないか、そのような問いかけが本書にはあるだろう。

 また、その土地の人々の思考の構造を観察しようとする時、言語にはとても豊潤な情報が結実していることがわかる。日本語は、いつだって「外来の高尚な理論=男性語」と「地場のベタな生活言語=女性語」の二項対立が反復される。それは「辺境」であることの古来からの蓄積でもあるのだ。

 そして、その歴史が刻まれた言語を持って私たちは今も思考し続けているのである。

 

【中川康雄(なかがわ・やすお)】
文化批評。表象・メディア論、及びコミュニティ研究。
インディーズメディア「未来回路」主宰。
個人ブログ:https://insiderivers.com

Popular Posts: