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日本2.0 思想地図β vol.3

 「文明」という言葉の通り、私たちの社会は文章によってその骨格を継続可能なものにしている。特に近代社会における法は、言語に強く依存する文化的背景から発展しており、その色彩は強い。

 「言語と国家」という切り口は日本の近代文学において、最も重要なテーマのひとつであっただろう。その近代文学の終焉のあと、なおも言論という「場」を社会の中で機能させること希求すること。本書では、その意志のようなものを感じることが出来た。そのことは日本という国家を形作っている(はずの)憲法の草案を提出するという行為自体に特に強く現れている。

 

 責任編集者の東浩紀さんの出自を規定するように引っ張る糸の1つとして、日本の批評業界のコンテクストを挙げることは可能であろう。もちろん読み手の年代にもよるだろうけれど、批評誌『批評空間』おいて「ソルジェニーツィン試論 確率の手触り」を発表し、柄谷行人さんや浅田彰さんの後継者としてのデビューした当時を記憶している人もまだ多いのではないだろうか。

 しかし、その後、東さんは既存の批評業界のコミュニティからは逸脱していくことになる。最初の出世作『存在論的、郵便的』が、哲学史の中で「脱構築」という概念の創造者であったジャック・デリダの研究であったことは象徴的だ。オタクを素材とした著作『動物化するポストモダン』は、それまでの業界内では論じるに値しないものとされていた「アニメ」や「ゲーム」といったものを批評のフレームを使い真正面から論じた。そのことは、それまでの批評業界において「脱構築」として機能したともいえるだろう。それはこの日本における批評の延命にも繋がったと同時に、その外部に「場」を生成することにもなった。いわゆる「ゼロ年代批評」はその成果物のひとつ、ともいえるだろう。

 しかしその時点ではまだ「充分に」業界の外部へは出ていなかった、ともいえる。

 日本において批評は文学批評を中心としていた。さらにそのコアには近代文学というものがある。柄谷さんの著作に『近代文学の終わり』というものがあるが、日本史の中で特権的な位置にあった近代文学の終焉は、そのフレームの中で思考していた批評の終焉と同義でもあった。それに伴い、批評はマイナーな表現の一ジャンルとなる。「アニメ」や「ゲーム」といった新しいコンテンツを批評のフィールドとして導入することによって、辛うじてアクチュアリティを維持していたようにも見えるが、基本的には近代的自我を持て余すマイノリティ、もしくは趣味的なものとなっていく。

 「脱構築」は破壊であるととも再生でもある。デリダは何かを生み出すことについて常に不安や恐怖感を持つ傾向があったという。だからこそ、この概念を生成することも出来たのであろう。しかし、それを受け取った人たちが同じように振る舞わなければならないわけではない。そのことはむしろ、全くその声に応答していない、ともいえるのではないだろうか。

 

 法を書き換え更新することは特権的な場所からなされる。その特権的な場所に向けて、同じ記述法を持って介入する。それこそが批評の機能であり、言論の特権性であったのではなかろうか。それが過去、近代文学には多少なりともあったはずなのだ。それを現代において再生しようとする試み、それがこの『日本2.0』ということでもあるのではないだろうか。

 「批評」から「言論」そのものへ。

 本書は「批評」を脱構築していった果ての現時点での到達点でもあるといっても過言ではないだろう。

 この試みは決して奇抜なことでもなく新しいものではない。
 むしろ正統中の正統ともいえるものだ。

 

※あと個人的には、梅原猛のインタビューの最後で、梅原さんから祗園町へのお誘いを受けてるところは正直うらやましいなと思った。

 

【中川康雄(なかがわ・やすお)】
文化批評。表象・メディア論、及びコミュニティ研究。
インディーズメディア「未来回路」主宰。
個人ブログ:https://insiderivers.com

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