「文学らしい真っ当な〈汚れ〉」、『神様 2011』(川上弘美 著) 評者:赤木智弘

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神様 2011

 神様2011には「全く同じ」2つの物語が収録されている。
 やたら他人に気を利かせる「くま」と「わたし」が、全く同じように散歩をする話だ。
 「くま」という異物が、日常の中に入り込み、しかし日常は日常のまま続く。その本質的な意味において1993年に描かれた「神様」と、2011年に描かれた「神様2011」には、なんの変化もない。
 川上はあとがきで「日常は何かのことで大きく変化してしまう可能性をもつのだ」と言うのだけれども、「くま」と、1993の側にはなく、2011に突如入り込む「放射線」という異物の存在する物語を比べたとして、そこになんの違いがあるわけでもない。
 「くま」はどこかからか引っ越してきたが、以前からどこかに住んでいたし、「わたし」と縁と言えば縁と呼べるものを持っている。
 放射線も、事故で多少増えたとはいえ、かつての核開発競争による核実験で、私たちは長らく被曝していた。そしてそのどちらも、僕たちはまったく意識していなかった。
 しかし、2011の世界では、放射線はとても危険なものとして遠ざけられる一方で、「くま」だけは1993と同じたたずまいを見せている。
 「わたし」は「くま」に食べられるとは考えないのだろうか? 人語を話す熊というのは、昔からいろいろなキャラクターとして描かれ、愛されているが、現実の熊は人間を殺すこともある危険な野獣である。毎日のように被曝量を計算する「わたし」が、人語は話すにしても人間とは異なる「くま」を当たり前のように受け入れる様子には、どこかで今の日本人に通じる滑稽さがある。
 それはたぶん川上の意図とは全く別の読み方だろう。川上が「ある」と思っている変化を、私は「ない」と考える。しかしそれでも読みとった結果としての「想い」は同質のものではないかと、少なくとも私は勝手に思いこんでいる。

 原子力発電所をバベルの塔に重ね合わせ、八百万の神への反逆をそこに見るのだとすれば、果たして「熊の神様」はどこに消えたのか。人間をも襲うことがある動物であるという熊の本質から離れ、種の理すら飛び越えたこの「くま」は、神様2011の世界に存在するすべてのモノの中で、もっとも社会の本質から外れた、最悪の異物である。
 しかしそんな存在を、どこかで人間の友達であるかのように受け入れてしまう人間の自分勝手な妄想こそ、神への恐れを知らぬ、最大の反逆であるように、私には思えてならない。
 私たちは、自覚的であるなしに関わらず、そのように「他者」の精神を自分勝手に利用して、私たち自身の人間性をえぐり出そうとしてしまう。私たちが物事を考える上で、他者の精神に対する、妄想は決して欠かすことのできないスパイスである。そうした装置の1つである文学は、本という形をとって、架空のナニモノかの精神を邪推し、汚し、我々の糧へと変えていく。しかしそれが、文学のダイナミズムであり醍醐味なのだから、それを想起させるこの作品は、実に文学らしく、真っ当に「汚れて」いるように、僕には見える。
 そこにこそ、諦念を包有する「怒り」を僕は感じるのだ。

 

【赤木智弘(あかぎ・ともひろ)】(@T_akagi)
1975年8月生まれ フリーライター。長きにわたるアルバイト経験を土台に、非正規労働者でも安心して生活できる社会を実現するために提言を続けている。『若者を見殺しにする国』(朝日文庫)。『当たり前をひっぱたく』(河出書房新社)。

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