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この記事の所要時間: 1339

フェミニズムはだれのもの?―フリーターズフリー対談集

3、変態対策について

 

—— 僕なんかが聞いて思ったのは、それが好きな男性もいるだろうなってことです。

 あー。ヘルメット被っているのが好きとかね。いるいる、いるんだよ!いいとこついてる!いたよー!—— 逆に萌えちゃう。萌えちゃう奴は、確かにいる。過剰に走ろうとしても、欲望というのも、それなりにしたたかなものだからね。どれだけお前の欲望は私を回収しようとするんだ、とは思ったよ。ヘルメットに反応しちゃう奴とかさ。白ヘルだったから、その「色」に反応しちゃったりする人が、寿にはやはり来ていました。過去のトラウマの話を語られることもあるし。そこは歴史の部分も含めて複雑なところがありましたね。

—— でも、予防線を考えるのが大変ですよね。

 「相手を萌えさせない、刺激しない」という規範も他方で女性に求められてきたものでしょう。「性的に相手を刺激しないためには、肌を出さない服を着ましょう」、とか「痴漢にあわないためにミニスカートをはかないでおきましょう」とか。だから「これは絶対萌えさせない、刺激を与えない」なんて身なりや格好は存在し得ないから、ケースバイケースで、表現していくしかない。欲望の回路にどれにも乗りませんなどということは、不可能だと思うんです。逆にいえば。

—— どうしても逃走線を引いて何らかの場所を領土化しちゃうっていう。

 どこまでも既存のコードに回収してしまう、取り込んでしまうという動きに対して、「アンチ」として対抗するよりも、常にずらしていく。ズレたヘンなことをしていく。そのズレてヘンなのにくわえて、なにより自分が楽しいっていうのも重要かもしれない。誰かのためっていうんじゃなくね。そこでケースバイケースで即興もまじえて歌ったり踊ったり叫んだりしていく。固定化するとそこに「萌え」って生まれてくるような気がするのね。変な歌を歌ったりとか、といっても「変な歌」って固定するんじゃなくて、常に自分自身の枠組みも変えていく気持ちでずらしていく。とはいえ、自分の努力だけでは、ずらすというのは難しいから、一応指針としてあるのは、さっきもいったように「過剰姉妹、ウェルカム!」のところには行かないようにしようとおもっている。常に自分が思いがけないようなことが起こりえそうな場所に行くという。

—— 行く場所を選ぶっていうこと、会う人を選ぶとかそういうこと。

 向こうもそれを望んでない、こっちもどうなるかわからないというそういうところじゃないと難しいかなと思いますね。「萌え」ってある種のパターンに「嵌る」からうれしさを感じるっていうところがあるでしょう。

—— ある要素に対して反応する。

 それって何かの「コード」があるってことだから、そのコードを超えて、というか別のあり方というか、もう予想つかないような場所に行きたいという、私の「欲望」がある(笑)。だから寄せ場で変な格好でフェミニズムを語るとかね。フェミニズムを語るというよりも「フェミニズムをやる」ってことを示したい、という感じなんですよね。求められたことを求められた方式でやっていくのはつまらない。

—— それは増山麗奈批判として解釈してもよろしいんでしょうか?

 いやいや、もっと普遍的なものとして捉えてほしいなあー。だいたい増山さんに言うべきことは、もう既に本人に、「ロスジェネ別冊2号」でお伝えしているもの。母性と少女性って社会からの「承認」という部分では密接に繋がっているとおもう。それこそ母性と少女性が「求められ」「強制され」るという社会的な要素があったとしても、「母性」と「少女性」を演じれば承認してもらえる、となれば、もはや「それしかない」という気持ちで必死に母性と少女性を女性は身に着けようとするだろうし。だって女性がなかなか社会で承認される要素は少ないからね。そういう意味では「演じさせられているどころがみずから演じてしまって、どうしよう」とか、「だんだん演じさせられてるんだか演じてるんだかわからなくなるよ」という事態は、どこにでもある風景だとおもうんだ。それを「病」と表現するのがいいのかわかんないけれども、事態としては複雑かつ、重篤になっているわけだから、その事態を変えていくには、忍耐強さや、注意深さが必要とされると思う。「過剰姉妹」は男性に喧嘩売ってるところもあるんだけれども、男性に喧嘩を売りつつ女性にも無縁ではいられないんだなって改めて思ったんです。最初は自分を棚上げして女性の貧困について聞くような男の人は嫌だなってところから出発したんだけど、そこを突き詰めていっったら一部の女の人に動揺を与えたという。あくまで結果論だけどね。「過剰姉妹」が如何にラディカルかってそれこそ他者の評価にゆだねなきゃならないけれど、何かを根本的にやるといろんな人を巻き込んだ形になっちゃうんだなーと思いますね。それが自分が最初は敵にしようと思ってなかった人ですら動揺させてしまうとか。それは、私自身もびっくりしたんですね。女の人がそういう反応をしたっていうのが、私はショックだった、正直。母性や少女性売るというルーツに乗らざるを得ない状態なのか確信犯なのかその辺の線引きは非常に難しくって、私もあえてそこを線引きしようとはしないのですが。喧嘩を売ったと思っちゃう人はやっぱり(女性)にもいるんだっていうことだよね。

—— 抵抗の理由として2つすぐに浮かぶのは、まずはその既得権益に自分が乗っている人、そしてもうひとつは嫌な現実だからみたくない、当事者だからみたくないというその2つがあるように思います。そういった人たちが攻撃に近いことをしてくる、と。

 ある種の暴力、母性を求めるとか少女性を求めるとかいうことが社会的な暴力だとすれば、それに過剰姉妹は暴力として返しちゃったんだなと思いました。その人たちには暴力と思えるぐらいインパクトを与えちゃったことは事実、誰かを殴ったりとかそういうことはないのだけれども。逆に相手の母性を喚起させちゃったという。

—— 抱きしめたくなっちゃうとか。

 抱きしめたくなっちゃうというか、「心配する」って感じですね。「心配」とういのはどこか上から目線で、権力の一要素だと思うけど、そういう母性を喚起しちゃった。本当に「過剰姉妹」はどこに行くのかという。本当に母性を売らせるもの、ロリータをもてはやすもの、そこに届かせたいと思うんだけれども、そこに届かせるための計算もあんまり出来ないのね。

 

4、2次元の3次元への影響、そして3次元の2次元への影響

 

—— うん、難しい。例えば「非モテ」系とかの2次元を耽溺する人たちは「母性」とか「少女性」だとか好きだと思うんだけれども、リアルの女性に幻想が持てないから理想化できる2次元の美少女に行ったりする。そこに届かせようとするのにどういう方法があるのか、なかなか難しいところがあるように思うんです。リアルの3次元の女性に対する幻想を彼らはあまり持ってないのではないでしょうか?現実は違うんだと意識しながら2次元で理想を追うと。いや、むしろ2次元の方がむしろいいんだと。3次元と並べてもいやこっちがいいという人が現れている、と。

 本当にそうなのかっていうのは、わかんない。逆にそこを問いたい。

—— 後付けの理由の可能性もまたあると。

 しかしその欲望って、自分を受け入れてくれるならばすぐ3次元に向かうっていうことではないのだろうか。「隙あらば3次元」みたいな。

—— それはある意味で修行僧の例に例えられると思っていて、2次元を耽溺してこちらのほうの欲望を喚起しないようにしてると思うんですよ。修行僧でも、やっぱりそういう性欲に悩むわけですよ。3次元の欲望に苦しむ、そこからの解脱を望む、というか。

 本当にその少女性への希求っていうのが3次元の女性を無視して完結しうるのかということが気になりますね。本人たちはそのように意図していなくても、3次元の女性に無影響かというとそんなことはないわけじゃない?

—— そうですね。

 逆に、本人たちは3次元を遮断したいと思っていても彼らの持つ少女性のイマージュの力というのが、生きてる女と、それこそ生きているこの私と本当に無関係に切断できるのか。簡単に切断が出来るのかっていうのがやっぱり気になります。

—— そうですねー。ある自分の萌え要素を持った3次元の女性よりも強い萌え要素を持っていると。しかも、それは自分がどう思っても自由であると。その2次元のキャラクターに対してどんな思い入れを持っても支障がないと。

 その欲望の成り立ちは社会とは無関係ではないですよね。その欲望が自分の完璧なオリジナリティとは思えない。たとえば「猫耳が好き」、「ツインテールが好き」というのも、自分だけで構築できるようなものじゃないからやっかいだと思うの。2次元が好きっていうのだって自分の特有の欲望なのか何かの社会的な要請と自分の好みと入り混じった結果として欲望なのかというのはわかんないじゃん。私自身も自分の好みが完璧に他者から影響が何もなく生まれている欲望とは思えないから。だから、私たち「過剰姉妹」をみて彼らがどう思うのかってそういう話がしたいよね。それよりもこの姿、この形をみて何も思わないか。何も思わなければすれ違った何か途上なのかもしれないし。逆に「やめてくれ」なのかもしれないし、「もっとやれ」なのかもしれない。「過剰姉妹」の成り立ち自体はさっき言ったような、自分はセクシャリティだとかそういうものをある意味素朴に、女性と貧困について話をしたいというようないわば「リア充」の男性に対してものを言ったところがあるから。逆に。「過剰姉妹」と2次元の愛に耽溺する人たちとの。ある種の接点の無さとは何なんだろうなって思うわけです。

—— ぶっちゃけ、この現実の3次元を生きていてもまったく面白くない人たちっているわけですよ。退屈な日常をずっと暮らしている人たちっていうのはいて、ただ一方で面白そうな世界が作品世界があると、例えば東浩紀さんなんかは『うる星やつら』の友引町に本当に行きたかったというんですね。本当に自分はこの現実から降りて友引町に今すぐにでも行きたかったと言ってたりするんですけれども、そういう風に2次元の方に求めている部分があって、3次元自体は実はこれでいいと思っている。

 「友引町がいい」というセンスだって3次元とは無縁と思えないし、3次元が作り上げている側面はあるよね。「友引町に行きたい」っていうそのメンタリティや思考そのものも、「3次元のつまらない世界」とがどこか相互的というか共犯的に作りあげちゃってる感じがする。うまくいえないんだけれど。その友引町の面白さこそ、3次元のつまらなさが作っているような。

—— むしろそれを保管するものとして誕生した。

 その3次元のつまらなさなしに友引町が面白いというセンスは生まれただろうかとは思います。例えば私が小説を読む時に、面白いと感じる事柄と、面白くないと感じる事柄はすごく相互的だと感じてしまったことがあって。うまく言えないんだけれど。そこを切り分けて「僕は二次元が良かった」と三次元を切り分けるということは、どういうことなんだろう。

—— 現状を保管するために想像の世界が生き生きとしてくると。

 これは私の感覚でもちろん反論もあるだろうけれども。一応文学というか哲学やっていて文字や画像という二次元の力がいかに三次元を変貌させていくか、ということにはとても関心がありますね。

—— あっ、そうなんですね。

 だから、3次元と2次元の把握の仕方について、その中川さんがおっしゃるような「3次元を生きていてもまったく面白くない人たち」の話をちゃんと聞いたことがないから、それ以上は何とも言えないけど。逆に「過剰姉妹」は3次元といえば3次元だけど、かなり非現実的な3次元であるわけですよ。 映像作家の根来祐さんは過剰姉妹を「ナマハゲ」的と表現していたけれど。

—— かなり演劇的な。

 そうかなり演劇的。

—— ある意味でイリュージョンともいえるものであるという。

 例えば私にとってそういう演劇的な3次元ということを語るとき、ほんとうにしつこいんだけど、忌野清志郎亡くなったことが大きかった。私は小学校のときから清志郎を知っていたし、ファンという意識すらなかったんですよ。そしてガンになっていたのを知っていたにもかかわらず、あの人ずっと死なないだろうなって勝手に思ってた。もちろん清志郎とは会ったこともなく、ライブすら行ったことはなく、当たり前だけどお友達でもなんでもない(笑)。だけどこんなにも影響を受けてしまっているし、過剰姉妹というものを作り出す一要素になっている。そこから考えても2次元と3次元という切り分けはできない。2次元的なものに影響を与えられて、3次元のなかで違うイリュージョンを作ってしまう動きを否めない。だから彼らがもし「自分の求める少女性が2次元のみだ」と主張するのだとしたら、私にはやはりわからないんだよね。

—— なるほど。そういう感覚からするといわゆるコンテンツといわれるものは社会の一部であると、そういう風に考えていい、と。そういうものは一般的に社会と呼ばれているもの、リアルと思われているものと線が引かれるものではなく、それはまとめてひとつなんだという。

 だからアニメがリアルじゃないとか、三次元はリアルだというのが正直、よくわかんない。だって私、忌野清志郎にこんなに影響を受けてしまって、もうそれを「リアルじゃない」って言われても(笑)。

—— 身体にもなんか変化があるぐらいの。

 そう。

—— 僕も小学校の頃、不二子不二夫Fが死ぬとは思ってなかったですからね。毎年、劇場映画が放映されるものだと。死んだらどうしよう、とか思ったりしましたよね。

 自分の中にこれだけ2次元に影響を受けるっていうことは、逆にそれは怖いことでもあるわけよ。清志郎が死んで、通勤電車の中で急に涙が止まらなくなったりとか、精神不安定になっちゃって。そういう私からすれば「少女への愛は2次元だけ」なんて簡単にストップできないだろうと思っちゃう。ここは激論になるかもしれないけどさ。私も単純にロリータが好きだから少女に性犯罪を行うとは思わない。2次元と3次元をそういうふうにすぐ犯罪につなげるのではなくて、もっと微妙なつながりは考えるべきだろうと、文学や哲学をやっていた人間としては、思う。それは政策とか制度のレベルでは絶対に考えられない話だとも思うから。逆に例えば暴力的な性愛マンガが好きだから犯罪を犯すといった安易な思考はすごく嫌。その発想も現実を捉えてない気がする。私の好悪の問題でゆけば、そういうマンガを山のように発行して儲けようとしている人の方が嫌だと思う。

—— それで金儲けしてる人とか。

 そうそう。シンプルな感覚で行けばそこで金儲けしてる人が嫌だ。産業となって成立してる感じが嫌だなあって。例えばあなたと私で一対一で売り買いしてるという方がまだいい。それが社会に流通するものとしてパワーを持っちゃって、その結果としてお金が生まれる。少女が好きという欲望をまさに後押しするお金の流れが歴然とあるわけじゃない。そこにはやっぱり敏感でないと。経済のメカニズムにのって欲望が作られてる側面に、この社会で無縁でありうる人は一人もいないけど、無縁でありえないからこそ、慎重でありたいと思う。だってヒットラーだって、宣伝で人をどんどん誘導していったわけだから。2次元と3次元間のセンシティブな回路に付き合えるような形でそういう人たちとの議論が出来ればうれしい。規制をかけるにしても表現の自由だからと押し切るのも、どちらの安易さも嫌だってところはある。「表現の自由」というところで議論するうのであれば、この「表現の自由」がどういう文脈で生まれた権利だったのかを検証しながら主張すべきだろうし。先ほども言ったように、暴力的なマンガを読むことが犯罪に即つながるということも変だけど、「表現の自由」という概念を水戸黄門の印籠のように使用して、暴力的なマンガを肯定するのも違和感がありますね。

 
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