天野邊(あまの・ほとり):DJ、作家
藤田直哉(ふじた・なおや):評論家
司会:中川康雄(未来回路)
※この対談は2010年5月23日に発行された『未来回路1.0』において発表されたものの再掲載です。
中川康雄(以下、中川):一般的には日本のネットカルチャーというものが、いわゆる政治性というものを脱色した形で発展してきたというイメージがあると思います。つまり、リアルとネットで文化圏が分かれてしまっているという感じがあったと。けれども、天野邊さんの感覚ではおそらくそういう感覚ってあまりないんじゃないかと思っています。ネットの社会の中でも政治性があり、その中でのやりとりが実際の社会の動きとして実際的な影響力を持ちえるだっていう風にネットに関しても持たれているような感覚が強くて、そこのところがすごく面白いなと。
天野邊(以下、天野):良くも悪くも20世紀の世界大戦の時代から、情報とか通信ってもう物理的な戦闘と同じくらいうウェイトが大きいものだったわけじゃないですか。例えば、相手の暗号を読み解いて作戦を前もって知っておこうとか、そういうようなことは、今、インターネットという、ほら、色んな国があってそれぞれが違うわけですよ。そうした思想も文化も違う、グループとしての利害も一致しない中であっても、敵対していようが戦争状態にあろうがとりあえず、人類全体でコミュニケーションを行える仕組みを築こうという、インターナショナルな合意が得られることで、ひとつのプロトコルによって繋がれるインターネットが現在こうして成立しているわけじゃないですか。
それも最近、中国がDNSの独自管理を行おうという流れになっていくことで分離されていこうとしていますよね。このぶんでいくと、インターネットというもの自体も大きな2つのローカルネットワークに分離していってしまうんだと思うんです。ちょうどプシスファイラの物語世界のように。
藤田直哉(以下、藤田):サブジェクト派とオブジェクト派に分離、という形で描かれてましたね。
天野:最初にインターネットが流行りだした頃には、あらゆる面で情報を統制する仕組みが全くなく、発信もあまりに自由すぎる上、情報も何でも即座に手に入りすぎて、戦略上アメリカはこんなことして良いんだろうかと思うぐらい素晴らしいものだと感じたんですよね。こんなものを民衆に開放することは、各国の政府や支配者の立場としてそれは許容できることなんだろうかと思うぐらい。それでやっぱりまずいぞということで中国が今度検閲を始めて、今緩やかに分離しちゃっていこうという風にみえるんです。
藤田:まあ、そうですね。確かに今、おっしゃられたように戦争と情報テクノロジーというのは非常に密接に結びついていて、戦場を観察するための装置としての映画っていうのは非常に結びついていて上空から撮影するとかグーグルストリートビューとか。あれはもう完全に軍事戦略に結びついた形で作られているのと、あとインターネットというものは元々核攻撃をされた時に情報が分散されてあると一挙に消失しないために、アーパネットというのが開発したっていうのがひとつの流れであともうひとつ、カルフォルニアイデオロギーを持っているハッカー的な人々が民衆に使おうとした2種類の流れが混じっているものですよね。確かに戦争と結びついている。
天野:ホストが止まったり、検閲が行われたりということがあっても、自律的に再構成が行われ、接続が保たれ続けるっていうのがインターネットの一番の特徴だと思うんですけれども、その中でそこに参加するかしないかってことをユーザーはそれぞれに選べるのだけど、誰かが誰かの意思によって参加しない場合でも、それとは関係なくインターネットというものはあり続けますよ、というのが今のインターネットのあり方で。
藤田:中央がないっていうシステムを理念的にではなくて具体的な形として体現してしまったのがインターネットである、と言われていますよね。さらにまあ、グローバル・ヴィレッジ幻想といいますか、カルフォルニア・イデオロギーの人々がネットで繋がって、ヒッピー的なドラックとかも多分やっていたんでしょう。世界が繋がるってヴィジョンはあったし、SFではよく描かれてますよね。まあ、現実ではどうかっていうことも若干あるとして、そのあたりの可能性を天野さんはどうお考えですか?
天野:明らかにまあ、色んな情報の流れも、例えば音楽の情報もそうなんですけれど、地方とかにレコード屋さんがあったりしてレコードを掘ってたりして。「こんなすごいのあった」とか仲間内で「これやっばいよ」、とか言ってたりというようなことをやってたりして広まっていったわけじゃないですか。クラブ系のCDなんていうものは、一万枚売れれば大ヒットみたいな基本的にマニアックで販路もローカルで狭く、それゆえのこみいった深さを持った世界でして。それが今はインターネットで繋がれてしまうことで、ありとあらゆるヤバイものを全て検索して有償であれ無償であれ、アクセスできるわけじゃないですか。地球の裏側にいるアーティストが作った楽曲であろうとなんだろうと。今までは地域的なトポロジー、文化っていうものを持っていたんじゃないかと思うんですけれども。レコード屋であったりクラブであったり、地方FM局のDJの好みとかもあったでしょう。この地域ではこういうものが流行っていて、この地域ではこういうものがという風に。例えば、はっきり言うと俺の出身の茨城なんかだとハウサーとヒップホッパーが絶対的に多いようなんですよ。そういう人たちはそれしか聞かないし、そこにそういうシーンしかなかったらそれしか知らない。それしか選択肢がないからそこに属しているっていう状態なんだけれど、でもそれはあの、インターネットによって色んなものを何でも聴けるようになっちゃって、それぞれが勝手に好きなものを聴いて、昔みたいにこう、例えばハコ(クラブ)とかでも、その人があそこヤバイからっていうとお客さん集まったりしてっていうことがあったわけですけど、もうそれぞれの色々なまったく違ったジャンルが生まれて、それぞれ無数の島宇宙が存在している状態だと思うんです。
今日の議題にもなっているオタクにおけるいわゆるジャンルもそうなんですけど、オタクでもアニメとか好きでゲーム方面があんまり詳しくなかったりとか、アニメファンという括りの中でさえ、作品や好む作品の傾向でわかれている。更に同作品のファンの間でさえ、推しのキャラで対立していたり、言ってしまえばそこにはそういう宗派、無数に分派したセクターみたいなものがあるわけじゃないですか。そういうような中で、それらがそれぞれ自分の好きなところにドンドン入り込んでいって、交流がなくなっていることに対してまあ、どうにかならないものかと。
藤田:確かに消費者として考えた場合は、色々な情報やコンテンツにアクセスしやすくなったということはとても便利なんですよね。けれども、当初思ったような全世界と繋がるようなことは、正直、言語的な壁とか趣味とかの壁があって、そんなに実際ネットに繋がったからといって、よく見るサイトとか実はそんなに多くなかったり、本気で調べようと外に行こうとしないとダラダラしてたりTwitterでも繋がる人を狭めていったりしていくと結局、島宇宙的にネットを使ったとしても生きることは可能であるし。
天野:でも音楽含めた大衆カルチャーだけはもはや全世界規模でいわゆる物理トポロジーによって日本はこうとかこの国はこうとかいう形に区切られているわけではなく、世界全域の中でバーチャルLAN的、仮想的なネットワークが幾つも折り重なって地球全体を繋いでる状態になっていて。例えばまあ、北関東のそういう場所でも俺が聞いていたり回していたりする音と、この東京で回している音は同じなわけじゃないですか。それはどっちも日本のアーティストのものじゃなかったり、それぞれが物理的な位置に関わりなく、無数の島宇宙を作り出していっている状態だと思うんです。
さっきお話したヒップホップを聴く人、自分でMCもする人なんですが彼は、シンセの音を聴くだけで吐き気がするなんていって、中にはそういう極端な人もいるわけです。サイケデリックトランスのパーティとかも行くには行くのですが、「やっぱり自分はこういうエレクトロ過ぎるのより、ヒップホップが好きだな」ということを敢えて言うわけです。 俺はもともとまあ、テクノや四つ打ち、ダブとかプレイしてるんですけれども、どちらかというと人間の息遣いのしない音が好きなんです。もっというとインストの方がどちらかというと好きだったりするんですよ。俺もかつてはむしろ、ヒップホップはリリックが粗野で貧乏くさくて嫌い、と感じるようなところもあって。けれど今や全然そういうこともなく、ヒップホップがどんなにヤバイかっていうことをその友達から教えてもらって、結局まあ、反目しあう理由もないだろう、どっちもヤバイじゃないかということを段々わかってきて。結局それを言わしめているのは、属する音やそれに付随する哲学を含めたスタイル、トライブ意識であるとか、そういうポリティカルなものであって。それと同じく、オタクというのも各ジャンルとも基本的に、必ずしも世に広く認知されたいわけではないのではないでしょうか。
藤田:そうなんですかね。
中川:その辺、微妙ですよね。何か認知された後にコミュニケーションの戯れとしてのオタクカルチャーみたいなものが残ったって感じで。
藤田:昔の秘境的なオタクとかはそうだったと思うんですけれども、密教みたいな。今のオタクはたぶんオタクであることを馬鹿にされたくないとか、むしろオタクの方がスラス6で多いので、マスとしても力を持っているというそういう状況らしいので、承認もされたいし、差別もされたくないってところはあるんだと思います。結構まあ、ネットができたっておかげで自分の人格自体と切り離してオタク文化を楽しんでる自分っていうのを出せるっていう風になって承認は求めているし、見られたがってると思いますけれども。
天野:Jポップとかをそこまで嫌うのは結局トライブ意識だと思うんです。俺らはこれであいつらとは違うということをあえて言うことで「俺ら」の連帯感とかを作っていくと。それによって仮想敵を設定すると。でも実際に変なこだわりなく聴いていけばポップスにも面白みのある楽曲はあるし、オタク・カルチャーだって好きだし、結局面白いものは何でも好きっていう無節操な方向にドンドンいっちゃってて。
藤田:それは正しいと思いますね。ドラマとかJpopとか大多数がみてるものに対してクソだって洋楽だっていったりして洋楽でも俺はメタルだ、プログレだ、そしたらまたテクノだ、みたいにドンドンとマニアック競争みたいになっていく傾向はありましたね。マニアックなものを聴いていると自分の方が偉いみたいな。他の奴らにはわからない裏返しのエリート意識みたいなものは持ってたこともあるし。持ってた人もいましたよ。
天野:例えば、サイケデリックトランスレイヴなんかが20世紀の終わりぐらいにすごいはやりだしたわけじゃないですか。知ってる人だけが集まって楽しくやってたのに『egg』という雑誌とかその辺のギャル雑誌みたいなのでみて来ちゃったまったく大人のコンセンサスをわきまえてない人たちが大挙して押し寄せてきて「うぜー」ということでパーティばなれしていく人も出てきて。だから必ずしも有名になければよいというわけじゃなくて、オーバーグラウンドに出てしまったところでさらにアンダーグラウンドにいたい人たちは逃げていくということをやり続けていて、たぶんオタクの世界もそうなんじゃないかと思うんですよね。
藤田:2ちゃんねるの初期とかの雰囲気がちょっと話題になって人が増えてぬるくなって別のところを求めてmixiにいったりTwitterにいったりとかそういうことってあると思うんですよ。アーリーアダプターのような人々の存在ですね。大衆化してつまんなくなっていくという。そういうことはあるかもしれません。
天野:その大衆化というところから果てしなく逃げ続けるという意味で、ストリートカルチャーを好きな人たちとオタクカルチャーに染まっている人たちは精神性が似てるから、お互い干渉しないまでも反目しあうことはないんじゃないかと。
藤田:ただ第四世代オタクに関してこれはクリシェで僕は実証的なデータはみていないんですけれども、やっぱりみんなの空気を読んでみんな一緒の文化を消費している、と。自分だけのこだわりというか尖った精神を持っていないとか説教している上の世代のクリエイターとかいるんですよ。今のオタクの人たちがそういう風にマニアックであることに誇りとかアイデンティティを持っているのかというと僕はわかんないんですね。
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