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 2012年11月25日、東京・新橋で行われたPortB『光のないⅡ』を観てきた。福島と東京との距離を図り直すツアーパフォーマンス。ポストカードに描かれた場所を巡り、そこで流れる声に耳を傾ける。

 本作品の原作者・エルフリーデ・イェリネクは、オーストリア出身の劇作家。1983年に書かれた小説『ピアニスト』が2001年に映画化され、同年、カンヌ映画祭で三冠受賞。2004年には、ノーベル文学賞を受賞した。そのイェリネクは2011年9月、自らのウェブサイトで3.11に応答する戯曲『光のない。』を発表した。そして、2012年3月12日、続編『光のないⅡ』を公開。それが本作品の戯曲となっている。

 PortBの演出家・高山明は、演劇を専門としない人たちとの共同作業によって、既存の演劇の枠組を超えた作品を発表し続けている演劇人。彼がそのツアーパフォーマンスにおいて劇空間を表象させる時、「場」の持つゲキウスロキを借用し、さらに、「いまここ」を「ここではではないどこか」に重ね合わせ、「場」の多重性を浮かび上がらせる。

 本作品では「フクシマ」という国内外で日本への関心として最も注目されているであろうテーマを扱っている。現在、海外から日本を眺めたとき、やはり関心を持たれているのは、震災、津波、原発といった3.11とその後の日本の対応についてだろう。関心が持たれているのは、ただ震災や津波といった人為を越えたものの表象というだけではない。エネルギー政策、原発政策といった戦後日本の経済成長のあり方、地方と中央との関係などといった日本という国を構築しているシステムそのものへの問題系を大きく内包している関心なのである。

 本来であれば、その出来事に対する応答は、まずその「場」に近しい場所から行われることが求められるだろう。「当事者」という言葉の扱いは難しいが、それでも自らが組み込まれたシステムで起こった出来事に対して、やはり近しい人たちの声が先に聴かれることが求められるだろう。けれども、今回、このようなラディカルな戯曲は日本からではなく、遠く離れた場所から放たれた。その事実を私たちは深く受け止める必要がある。その事実は距離が可能とする客体化といった要因だけでは説明しきれるものではない。何故、日本という国家システムに所属している人たちのうちから、このような戯曲が書かれなかったのか。それは、諸問題の背景にある巨大なシステムに批判的な言葉を発することによって、私たちが被る可能性のある不利益を恐れたからだ。私たちは自らの保身のため、私たちは沈黙している。自らの利益と他者への配慮を天秤にかけ、前者を優先しているのだ。さらに、その結果生まれるしわ寄せを一身に背負わせ作り上げたスケープゴートからすら、私たちの視線の先から消失させようとしつつある。

 本作品を体験した観客の中から、その都合の良い忘却への罪悪感を表明する声も見かけた。ウェブ上のその書き込みを目撃した時、なんとも複雑な感情で見つめている自分がいた。「感傷」であることが同時に「鑑賞」でもある状態。まるで、悲劇をネタとして消費してしまったような罪悪感もそこに含まれる。そこから、何も、動かないのだ。それでも、その経験から引き出せるものがあるのではないか。そのような問いのもと、この文章は書かれている。少なくともそのような状況の中、この戯曲に応答している人たちがいるのだ。その事実、それを受け取ったことの意味を考えてみたい。

 戯曲を立体的に表象させるためのメディアの構築。ここで問われるのは、その作品を表象させる環境設計によって戯曲が観客にとってどのような届き方をするのか、ということだ。「福島」と「東京」をシンクロさせる疑似「フクシマ」ツアー。AR的な多重性を発生させ、劇空間を生成し訪れた観客を作品世界へと巻き込む。観客自らの手によってラジオをチューニングし、耳を傾ける。チューニングがずれてしまうと声は聞こえなくなってしまう。受動性と能動性が混在している地点が発生する。このツアーパフォーマンスにおいて奏でられようとしている重低音をひとつ読み取るならば、「他者」という音だろう。この「他者」という概念は、哲学や思想のジャンルではとてもメジャーなテーマでもある。

 日本の思想状況を考え「他者」という言葉を聴いて思い出す議論がある。それは、「動物化」という概念を巡る議論だ。作家・東浩紀氏は、著作『動物化するポストモダン』(2001年)において、「動物化」という概念を提出している。「動物化」とは、例えば承認欲求といったような「他者」を必要とする「欲望」が後景化していき、その結果、衣食住や個人的な趣味などの即物的な「欠乏ー満足」の回路が前景化してくる現象のことをいう。先の述べたような日本における3.11を巡る社会状況をこの「動物化」の議論と重ね合わせることは可能なのではないだろうか。そして、現代日本において、現在も「動物化」が進行していると想定した場合、そのような「他者」が後景化している状態で、如何にして「他者」にエンカウントする回路をシステムに取り入れていくのかということが問われているともいえるのではないだろうか。何故ならば、どのような形の社会を志向するにしても、私たちが所属しているシステムを可視化してその設計を判断する必要があると思われるからだ。客体化することではじめて、私たちは能動的な選択をすることができる。つまり、本作品を鑑賞した後の観客の選択は、もはや受動的なものではないということもいえるのではないだろうか。観劇以後、もはやその内容に対して受動的であることはできない。知ってしまったのなら、すべて、能動的に選択したものである。私たちはこの状態を選んでいる。選び直す可能性を残したまま。

 もちろん、変わらない場所もあれば変わる場所もある。例えば日本の情報環境をみれば、ソーシャルメディアの登場などで物理的な距離感に規制された「近さ」や「遠さ」は再構築が進んでいるようにも見える。私たちは震源地近くにいる当事者たちの声を画面に映し出された文字や画像、映像によって、ほぼ直接、確認することもできるようになっている。代替されることが極力抑えられた情報環境。しかしそれでも、いまだ沈黙という選択しか私たちは取ることができないでいるのだ。直接的な利害関係がない場合、「フクシマ」の問題を自分の問題として考えることは難しい。直接的な利害関係、それがなければ日本社会は動かない。「他者」への倫理では動かない。あの「他者」の表象ともいえる震災の後ですら、「他者」をシステムに組み込むことができないでいるのだ。少なくとも、私たちが置かれている状況はそのようなものだろう。その届かなさとどう向き合うのか。

 この劇を観て、思い出した本がある。アメリカの哲学者・アルフォンソ・リンギスの『何も共有していない者たちの共同体』という本だ。

「私たちと何も共有するもののない人びとの死が、私たちと関係している。」

「死が切迫していることを感じとる痛みは、死を無と同一視することはではない。むしろ、痛みは無を、死ぬことからの解放として待望しているのだ。」

「自らの苦しみの衰弱と受動性が、終りなき道程を進む死の過剰によって凌駕され、苦しむ人が喘ぎとすすり泣きで破壊され粉々にされるまで、内部から侵入してくる受動性の重みを担いながら苦しむ。」

「そのような他者の状況に慰めのために触れることは、忍耐と苦しみの時間のなかに、死にゆくことに付き添うための道を開き、その困窮の極限において、他者との友愛を見つけ出す。」

「人は、他者のために、そして他者と共に、苦しまずにはいられない。いかなる薬も慰めも効かなくなった時に感じる悲しみは、人は悲しまずにはいられないということを知っている悲しみなのである。」

 少なくとも私は、この「何も共有していない者たちの共同体」から一歩も動くことができなかった。ただ、やはりそこに罪悪感が発生する余地があるということは、その場所から踏み出すことの可能性を私たち自身が持っていることの証明でもあるのではないだろうか。それを実感すること。その実感によって生まれる差異。その差異を示したところで、この応答への応答の、とりあえずの終止符を打とうと思う。

【中川康雄(なかがわ・やすお)】
文化批評。表象・メディア論、及びコミュニティ研究。
インディーズメディア「未来回路」主宰。
時々、自宅ブックカフェやってます。
Twitter:insiderivers
個人ブログ:https://insiderivers.com

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