※本インタビューは、全体の4分の1くらいのダイジェスト版です。
フルバージョンは2013年4月28日発売の『未来回路5.0』に掲載予定。
—— はじめての海外旅行ってどんな感じだったんですか?
1990年くらいの時、俺が19歳ではじめて海外で中国に行ったんだ。そのキッカケはヨーロッパまで行く、誰かの本だったかなー、「10万円くらいで日本からパリまでいける」みたいな本だったね。
—— 下川裕治さんの『12万円で世界を歩く』ですかね。
多分そうだね。それを買って読んで、「おっ、10万円くらいで陸路で行けるんだ」と。そう思って出発したんだけど、当時は湾岸戦争が始まった頃で。それで1、2ヶ月くらいで1度日本に戻ってきたんだ。
その1度目の旅では、中国の人って戦争の関係もあるんだろうけれども日本のことを知っている人が多かったんだよね。でも、俺は知らないじゃん。日本国内を全部行ったわけでもないし。それで、1年くらいかけて日本を一周しようと思った。結局、3年くらいかかったわけだけれどもね、日本一周するのに。
そして、その後、1994年にまた中国に渡って陸路で世界を周り、2000年くらいに戻ってくることになる。正確には1999年の12月に日本に帰国した。
—— その時は6年間くらい。
うん。6年くらい周ってたね。
—— 場所はどの辺りで終了したんですか?
最後の地はハンガリーだったね。
—— ハンガリーで帰ろうと思ったきっかけは何かあったんですか?
もともとアジアを周って金がなくなったらちょこちょこ現地で働いてたんだけど、トルコで日本に帰る金がなくなったのね。3万円くらいしか手元になかった。それで、チケットが当時80ドルくらいだったかなぁ。片道でイギリスのロンドン行きのチケットを買ったわけ。ロンドンで働くつもりで。
で、ロンドンで働いた。そこである程度稼いだあと、中近東に戻ってアフリカに入って、その後でヨーロッパを自転車で回ろうと思って。それで周ってたんだけれども、当時、モスクワで爆弾テロがあったんだよな。確か1999年だね。本当はそこからシベリア鉄道に乗って、中国で降りて、船で日本に帰ろうと思ったんだけれども。
当時、ハンガリーが最後っていうよりも、スロバキアに行った時にある日突然、「もういいかな」、と思ったんだよね(笑)。何かきっかけがあったわけじゃないんだけど。何か、お腹いっぱいになったんだよ。要するに飯食うのと一緒だね。飯食って、お腹いっぱいになる時ってあるじゃん。どんなにごちそうがあっても。そんな感じ。
—— 日本に帰ってきてからゲストハウスを経営するに至る道筋ってどんな感じだったんですか?
うちに不登校児の男の子がいたのね。その子の両親から子どもをちょっと預かってくれないかと言われて。
預かるっていっても、うちにも泊まっていいよくらいな感じで。そんな感じでやってたんだけれども、泊まれるだけのスペースがちょっとあったんだよね。はじめ借りた物件は、子どもを泊めさせるだけの場所を親が借りたんだよ。高田馬場にね。当然、子どもは毎日は来ないからさ、俺の周りの金のない連中が続々と集まってきて、うちに泊まったわけよ。一番多い時で、十数人くらい一緒に住んでたかなぁ。
で、それはそれで良かったんだけれども、ある時、俺に子どもが出来たからね。それでちょっと考えて、「じゃあ、黙って10年間働こうかな」と。その時に作ったのが「BAR 軍艦島」だったりとか、陶芸教室だったりとか。俺が陶芸をやっていたからさ。それと同時にゲストハウスを作った、と。それで当時うちに泊まっていた連中をそこに移した。まっ、自然の成り行きだな。
—— 沖縄にも運営しているゲストハウスがあるんですよね?
うん、あるよ。沖縄はもともと俺が花粉症なのと、しばらく西表島でパイナップル畑で働いていたとかそういう縁もあってね。店を出しているのは本島なんだけれども。
俺、花粉症が酷くてさ。一ヶ月とか二ヶ月とか普通に仕事できない。突然発症したんだよね。ほんとに重度で。まともに呼吸が出来ないくらい。こんなに酷かったら仕事にならないから、北海道か沖縄に仕事場を作ろうと。それで、その時はたまたま沖縄に作った。花粉症の季節だけ沖縄で仕事をしようと思ってさ。
—— では、沖縄に特に強い思い入れがあったわけではなく。
そうだね。思い入れがあったというよりも仕事を楽しくするためにっていうのが先かな。東京に本社があって、支社が沖縄や北海道にあったり大阪にあったり。そうすると、いわゆる出張ができるじゃん。来月1ヶ月沖縄に出張、とか。そういうの、楽しくない?うちのスタッフは楽しがるわけ。他のスタッフとも会えるし。うちは基本的に出勤時間もなければやることだけやっておいてくれれば、あとは自分でスケジュール組んでって感じだから、仕事はもちろんするんだけれども、現地のスタッフと飲みに行ったりとかできるし。
人間って同じ人たちでずっといると、どんなにいいメンツでも若干淀んでくるんだよね。でも、そこに新しい人が1ヶ月とか2ヶ月とか来たら、それはそれでまた盛り上がるじゃん。東京から来るらしいから歓迎パーティとかやろうぜ、とか。で、楽しく仕事をしてまた東京に戻ってくると。そういうのが俺は、楽しい。
だから、沖縄に思い入れがあるっていうよりも、まっ、多少はあるんだけども、色んなところに仕事場があって、それにかこつけてあちこちに行けるのが楽しいってことだね。
—— 現在、考えている今後の展開とかってありますか?
あるある。それは始めから考えてたことなんだけれども、うちの目標は衣食住を押さえるってことだね。うちの法人の看板は「貨幣経済に一撃を」なんだよ。結局ね、お金っていうのは便利なんだけれども、そこには使用料が発生しているんだよね。例えば、千円で千円のものは買えないから。お金っていう媒体を使って便利なんだけれども、間が抜かれている。それは当然なんだよ。それは当然なんだけれども、必要以上にピンハネされていると俺は思っている。
だからそれよりも今、円高とか円安とかやってるけど、そこに直結するような仕事をしていたら当然、影響を受けるじゃん。あんまり、そういうのに影響を受けない生活をしたいわけ。昔から農業がやりたいと思ってるんだけど、そこにゲストハウスを作ったりして。あと、陶芸とかそういうの全部できるから、生活を半自給自足にしたい。
で、自給自足っていうのは大変なのよ。いろんなところにヒッピー・コミューンとかあるんだけれども、ほんとに大変だから、あれは。農業とか素人がやっても、なかなか続かない。だから、もともとやっている人とコラボをする。
んで、要するにそれはコミュニケーションの拡大なわけよ。例えば俺は今、ブラッディマリーを飲んでいるんだけれども、このガラスを作ってるやつ、このトマトジュースを作ってるやつ、ウォッカを作ってるやつ、と会ったことがないわけね。俺はそういう連中と会いたいの。
例えば、俺の友達が「頑張ってウォッカを作ったんだけれども」って言ったら当然仕入れるよ。そして、それを飲む時に「このウォッカの味はあいつが作ったんだな」とかそういうことを考える。そういう距離感が好きなんだよね。
何か訳の分からないものを飲んでたり食べてたり触ってたりするのが、あまり面白くない。それは面白いか面白くないかの違いだね。「だめだ」、とかじゃなくて。知ってる方が面白いな、と。ちゃんと見えた方がさらに面白い。そういう生活を一生続けたいんだよ。なるべく、見えてるほうがいい。んで、「今年のトマトジュース、超美味かったよ!」とかそういう会話をしたい。
【田原 千(たはら・せん)】
6年間の海外放浪の後、2003年に陶芸教室「からくり粘土」を開講。同年、「BAR GUNKAN島」と「てんてんゲストハウス」を早稲田にオープン。その後、順次ゲストハウスをオープンし、現在は全体で数店舗のゲストハウスを展開中。「株式会社からくり粘土の遊園地社」代表。
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